ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

遠くと、近くは、別のもの。

近くにいたら迷惑だけれど、
遠くにいるぶんには、おもしろい。
そういうことって、山ほどあるよね。
いや、そういうことばっかりだとも言える。

だいたい、よく言うことだけれど、
悪漢が主役の舞台でも、映画でも、小説でも、
みんな嫌いじゃないだろう。
嫌いじゃないどころじゃない。
大好きだったりするもんだ。

源氏物語みたいな、やたらに恋愛しちゃう主人公も、
歴史的に、ずっと肯定されてきた。
駆け落ちだの、道行きだの、心中だのだって、
たくさんの人たちが共感して、さめざめ泣いたりしてた。

伝説の人たちの蛮勇を語るのも、人は大好きだよね。
往年のスターたちの狼藉も、みんな魅力として語る。
勝新太郎を語る人たちの、得意そうな表情も、
横山やすしの思いで話をする人の、懐かしそうな顔も、
みんな楽しそうなんだよなぁ。

自分のことにしても、
もう戻れそうもないとわかるような遠い過去では、
「ワルだった俺」が、生き生きと輝いている。
「お母さん、そのころ、ふたまたかけてたの」
なんて話も、うふふと語られる。

たいていのことは、
遠ければ、おもしろいのだ。
そして、近いところには、
ほとんどの危険なものごとが
あってはいけないというのが、
ふつうの人の考え方、感じ方の標準なのだ。

ほんとうに残酷で身勝手だと思うのだけれど、
遠いとわかっているときには、
人間は戦争さえおもしろく楽しんだりする。
いま現在、同じ時間のなかであれば遠慮もするけれど、
過去にあった戦争などは、あきらかに娯楽になる。
そういうものなのだ、おそらく。

そして、具体的な自分の人生のなかに
光源氏なんかがやってきたら、
これはもう大迷惑で、なんとか排除しようとする。
そういうのが、自然なのだろう。

たぶん、人間の脳は、そういうふうにできているのだ。
そうでないとしたら、
いま常識だと思われている
普通の人たちの普通の考えや思いが、成り立たない。

遠くにあるものは、
めちゃくちゃでもいい。
遠くにあるものは、
めちゃくちゃであってほしいとすら言える。
遠くにあるものが、
近くと同じになってしまったら、
人間というヘンなおもしろいものが、
ただの「よいこ人形」になってしまうだろう。

そして、近くにあるものは、
めちゃくちゃでは困る。
近くにあるものは、
礼儀正しく親切で健康で安全でなくてはいけない。
めちゃくちゃは、命取りになるからね。

たまに、遠くにあるものを、
近くに引き寄せてしまって、
人生をめちゃくちゃにしてしまうこともあってさ。
そして、その物語は、こんどは、
「次の遠くの物語」になっていくのだ。

たまに、遠くに行っていた人が、
近くに帰ってくることもある。
たまに、ぽつりぽつりと、
遠くの世界のことを語る、帰ってきた人は、
「かっこいい」などと、遠くの人用のことばをかけられる。

遠くと近くを、現実の身体を乗り物にして
行ったり来たりしている人たちがいる。
芸能の人、芸術の人などだ。
遠くに行っているときの彼らは、
とてもおもしろいと言われるのだけれど、
そのままの姿で近くに寄ってくると、
白い目で見られたり裁かれたりしてしまう。

遠くと、近くは、
間に線が引かれているわけじゃないけれど、
いっしょにしちゃいけないんだなぁ。
いっしょにしたい気持ちの強い人もいるし。
絶対いっしょにしたくない人もいる。

でも、夢のなかのことを、
現実の考えでジャッジできないし、
夢のなかでは、現実の答えを出し切れない。

ぼくが幼いころ、まじめに生きてきた祖母が、
「手妻(手品)」に興味を持つぼくを、
軽く叱るように言った。
「あたしゃ、そんな人をだますようなことは、嫌いだよ」
弱ったなぁ、と、ぼくは思ったっけ。

遠くと、近く、
自由に行ったり来たりできて、
近くの人にあたたかく迎えられているのが、
ぼくの考える幸せってものなのかもしれない。
でも、そういう考えは、バランス的には、
ちょっと「遠く寄り」のところに重心があるかな。

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