ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

ばかにしないということ。

3月6日の『今日のダーリン』に、
「人をばかにしちゃいけない」ということについて書いた。
それまで、ずっと考えていたことが、
あ、こういうふうになら書けるかもしれないと思って、
とにかく書いてみた。

『今日のダーリン』は、その日かぎりの掲載で、
アーカイブを残さないことにしているのだけれど、
まず、ここに貼り付けておく。

・「人をばかにしちゃいけない」というのは、
 よく言われることで、これはもう、
 まったくもってその通りなのです。
 人をばかにしていいか悪いか、という
 倫理の問題だけではなく、
 人をばかにしてトクかソンかという
 損得の問題だけでもなく、
 人をばかにして気持ちがいいかどうか、という
 快不快の問題だけでもなく、
 もっと大きな次元で、どーんと言えるんだと思います。
 「人をばかにしちゃいけない」んです。
  
 で、その「人」のなかには、
 つい忘れられがちな一人がおりましてね。
 それが、「わたし」なんですね。
 「わたしをばかにしちゃいけない」んですよね。
 あんがい、ぼくらは「わたし」をばかにしてます。
 どうせ、こんなもんだろう、と、
 高をくくって見ていたりするものです。
 ぼくも、そういうところがあります。
 「わたし」が、ばかにされてるものだから、
 ぐずぐずになっちゃうんですよね。
 おそらく、部屋がちらかるのも、禁煙ができないのも、
 朝起きられないのも、ダイエットに成功しないのも、
 じぶんで、「わたし」をなめてるからだと思うんです。
 
 ぼく自身のことを振り返ってみても、
 なにかがうまく行ったときというのは、
 じぶんのことを「ばかにしなかった」ときでした。
 ずいぶん苦しんだ禁煙にしても、
 「どうせ、おまえにはできないんだ」とは、
 思わなかったからできた、と言えます。

・昨日、WBCの試合を観に行きましてね。
 明らかに、まだ中国のチームはへたなんですよ。
 それをばかにしたら、なんにもいいことないんです。
 へたの段階にある中国の野球を、しっかりと見て、
 毛ほどもばかにしないということが、
 じぶんたちのチームをばかにしないことなんです。
 さすがに一流の選手たち、みんなそれができてるんです。
 重苦しい試合だったけど、とてもよかったです。

この日のこの『今日のダーリン』に、
ずいぶんたくさんの感想をもらったのだけれど、
そのひとつひとつを読んでいて、
「ああ、それ、ぼくも思ってたんだ!」
ということがあった。

「じぶんを信じろ、と言われても
 ピンとこなかったのですが、
 じぶんをばかにしないでと言われたら、
 そうだなぁと思いました」

そうそう、そうなんだよな。
じぶんを信じるって言えるほど、
じぶんは信じられるやつではないんだよな。
でも、そんな信じられないじぶんでも、
ばかにしちゃいけないんだ。
そういうことなんだ。

犬でも猫でも、牛でも豚でも、
鳥でも虫でも、ばかにしちゃいけないんだよな。
小さいもの、しょうもないもの、価値のなさそうなもの、
汚いもの、ずるいもの、醜いもの‥‥いろいろと、
肯定的になれないものは多いとしても、
それはそれとして、
ばかにしちゃいけないんだ。
それに、
ばかにしなけりゃならないことなんて、
いついかなるときでも、ほんとは、ない。

嫌いなものは、あるはずだ。
見たくないものも、あるだろう。
やっつけたいものも、あるよ。
だけど、それはそれ、
ばかにする必要も、ばかにする意味も、まったくない。

『今日のダーリン』と、この『ダーリンコラム』と、
同じ文を二度使っちゃったけど、
ぜひそうしたかったので、そうします。

関連コンテンツ

今日のおすすめコンテンツ

「ほぼ日刊イトイ新聞」をフォローする