ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

いまさらの権化。

これからは、もうね、
「いまさら」の権化になろうと思うんだよ。
権化って書いて「ごんげ」って読むからね。
わかんなかったら辞書ひくくせをつけたほうがいいよ。
「みぞうゆう」だの「ふしゅう」だのって、
ちょっとでも怪しいなって思ったときに、
辞書をひいておけばよかったことだからね。
「これ、なんて読むの?」って言ってさ、
軽く恥をかいておけば、よかったとも言えるよね。
「いまさら」でもいいんだよね、辞書をひくのは。

あ、いいことわざを考えたぞ。
「齢八十にして辞書を引く」、わりとよくない?

「いまさら」を笑う者はいっぱいいるんだよ、世の中に。
「いまさら」とか「いまごろ」とか言うんだ。
だいたい、「ほぼ日」をはじめたときだって、
さんざん「いまさらホームページですか」なんてね、
言われたものだよ。
いちばん最初にはじめた人というか、
創始者以外は、みんな
ほんとは「いまさら」はじめた人だ。
いまから麻雀をはじめる人だっているし、
いまからソクラテスのことを知りたい人だっているし、
いまからドドンパのリズムを習う人だっているし、
いまからウォーキングをはじめる人だっている。

前からやっている人だとか、
かつてやっていてやめちゃった人からしたら、
そういうのは、みんな「いまさら」に見えるんだ。
だから、自分はもうとっくにやっていたもんね、
というような自慢の意味をこめて、
「いまからやるのかい?」なんて笑うんだよ。
先にやっていたこと、先に知っていたことが、
あたかもすばらしいことのように見せかけるんだ。
でも、おちついて考えればわかるだろ。
先だの後だのってのは、なんの意味もないんだ。
早熟と晩熟のちがい以上に、意味はないと思うよ。

先にやっていたことに意味があるとすれば、
先にはじめた分だけ、謙虚になっている場合だけだろうよ。

もっと、自分にとっての出発を、
大事にしたほうがいいって思ったんだ。
他人がさんざんやりつくした研究でも、
先輩方がすっかり飽きちゃったことでも、
そんなことまだやってなかったの、と驚かれることでも、
他ならぬ「わたし」にとって新鮮ならば、
「あたし」にとって動機があるなら、
「ぼく」にはやりたいことなのならば、
気持ちよくはじめてみたらいいんだよなぁ。

その道の専門家のような顔をしている人だって、
顔や態度ばっかり専門家ってのが多いんだよ。
自分がたいしたものだと思うと、
「いまさら」ができなくなっちゃうんだと思うのよ。
わかってるつもりのことばかりになっちゃうと、
もう風化していくばかりなんだ。

名人と言われるような料理人が、
「いまさらですが、米の炊き方からやりなおしてみたい」
なんて言っていたら、
その炊いためしを食べてみたいよね。

テレビの業界で長いこと生きている人が、
「いまさら思うんだけど、テレビ必要なのかなぁ」
なんて真剣に考えはじめたら、
それはそれで、ずいぶん楽しみになる。

自分のやっていること、やってきたことが、
正しいに決まってる、と思うような場面からは、
あんまり期待できるものは出てこないよね。
迷いが必要だ、というと誤解されそうだけど、
揺れだか、振動だか、問いかけだか、不安定だか、
そういうものが大事なんだと思うんだ。
そこに、「いまさら」やることが見えてくるんだよね。

ま、ぼくが「いまさらの権化になりたい」なんて言っても、
何をどう「いまさら」やるのか、考えるのか、
具体的にはよくわかっちゃいないんだけどね。
とにかく、なにかと笑う人々に、
「いまさら!」と言われるようなことを、
どんどん積極的にやっていきたいと思っておるのです。

『いまさら、いまさらの大事さに気づいたのかよ』
って言われても、このまま行きます。

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