ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

人生ゲームのゴールに描かれる人物

もう、いまの人たちは
そんな言葉があることさえ知らないかもしれないけど、
ある時代には、
「末は博士か大臣か」ということが、
言われていたらしい。

博士になれないかもしれないけれど、
大臣にはなれないとは思うけれど、
なれるものなら、なってみたいものだと、
たくさんの男の子たちが考えていたんだろうな。
あるいは、ちょっとやる気のある親が、
自分の子どもを「末は博士か大臣か」にしたいと
願っていたんだろうね。

そうかと思えば、
男の子たちの将来の夢が軍人さんだという時代も、
たぶんあったのだろうと思う。

社長さんだとか、お金持ちだとかっていう言い方で、
将来なりたい立場を語る子どもも、いただろう。

パイロットだとか、宇宙飛行士だとか、
そんなふうな夢が流行した時代もある。

野球の選手になりたいとか、
歌手になりたいとか、
楽しそうにも見える職業が輝いていたこともある。

子どもたちに語らせる将来の夢というのは、
じつは、大人たちの社会が制作する「人生ゲーム」の
目標のところに描かれる絵のことだ。

こうなれたらいいね、
こうなりたいものだね、
こうなれないとしても近づけたらいいね、
こうなるように努力しようね。

そういう絵が描けないと、
「人生ゲーム」を一所懸命にやる張り合いがない。
「人生ゲーム」でも「すごろく」でもいいけれど、
あがりのところに、
「おとうさん」がごろりと横になって
テレビを観てるようなイラストがあったら、
気合いを入れてサイコロを振る気にはなりにくいだろう。

その時代その時代によって、
なんとなくでも、
誰のようになりたいかというイメージがあった。
なんらかの才があったり、運命の導きがあったり、
とても努力をしたりというようなことがあって、
こんな人になりましたという像が、
見上げられたり憧れられたりしていた。

乃木大将だったこともあるだろう。
松下幸之助だったこともあると思う。
ガガーリン少佐という人だっていた。
長嶋茂雄や王貞治になったこともある。
エルビス・プレスリーだとか、
ビートルズというふうな外国の人だったりもする。
矢沢永吉という人もその役を担っていたと思う。

でも、いつのまにか、
「末は博士か大臣か」の時代から、
現在までの時間の
どこらへんからかわからないけれど、
「人生ゲーム」のあがりのところに描かれるべき人物像が、
なくなっていたような気がする。

人間のイラストレーションが見つからないから、
スーパーカーだとか、
プレイボーイクラブみたいな画だとか、
大豪邸のイメージだとか、高層マンションだとか、
たくさんテレビに出ることだとか、
高級時計だとかが描かれて、
あがりのところに、暫定的に置かれるようになった。

でも、ここまでの間に、
ひょっとしたら
「あがりって、何でもアリじゃねぇの?」
というような気分も、
わりかし一般化してしまったようだ。
それはそれで、世の中全体が豊かになったからだ、
と説明することもできそうだ。
しかし、「何でもアリ」のような気分だった時代は、
どうもいつのまにか、
「何も描きようがない」時代に、変化していた。

松下幸之助やエルビス・プレスリーの絵じゃ、
古くさく見えるし、
単なる「大金」の絵なんかじゃ意味がないし、
マイケル・ジャクソンは、役を担い続けられなかったし、
ビル・ゲイツには徹底的になにかが足りないのだ。

「人生ゲーム」や「出世すごろく」のゴールに、
ブラックホールが描かれているような時代に、
ぼくらはどんなふうに生きればいいのだろうね。

サイコロの振り方や、
ゲームを進めながらのおしゃべりに、
楽しみを見つけるということなのかな。

そう言えば、先日、ヨーロッパのどこやらで、
ある実験をしたらブラックホールが
できちゃうかもしれないっていう
ニュースを見たなぁ。
昔は、原爆という過剰な「エネルギー」が、
武器というかたちをとって、
人類全部の希望を奪うようなことをやったけれど、
いまは、「ブラックホール」という「無」だもんなぁ。
書き終ってから、ふと思いだしたのだけれど。
ジョン・レノンという「ゴール」に描かれていた人物が、
ご近所で、ふつうに歩いていて
特に敵でもない人間に撃たれて死んだ。
あの事件は、とても象徴的だった。

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