ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

学校の勉強のこと。

勉強のできる子と、勉強のできない子と、
まぁまぁふつうの子とが、
学校というところには、いるものだ。

みんながみんな勉強のできる子です、
なんて学校も、
あるのかもしれないし、
みんなが勉強のできない子ですという学校も、
みんなふつうですよという学校もあるかもしれない。

けれど、全体をならしてみたら、
やっぱり、
勉強のできる子と、
まぁまぁふつうの子と、
勉強のできない子とがいるはずだ。

ものすごく乱暴に、
勉強のできる子と、ふつうの子と、勉強のできない子が、
3分の1ずつだと考えてみよう。

なにか問題は、あるだろうか?

なにも問題は、ない。

できる子と、ふつうの子と、できない子がいて、
学校というものがある。
ぜんぶの子どもが勉強のできる子になればいいと、
本気で思う人がいたとしたら、それはおかしいだろう。
そうなってもかまわないけれど、
そうはならないということを、
ぼくらはなんとなく知っている。

子どもには、生まれつきでも育ち方でも、
それぞれに人間としてのちがいがあって、
みんながみんな同じように
学校の勉強が好きだったり、
それが得意だったりはしないものだからだ。
個性とかいうような立派そうなものじゃない。
いい悪いじゃなく、ちがうものなのだ。

おなじようなことは、脚の速さにも言えるだろう。
脚の速い子と、ふつうの速さの子と、遅い子がいる。
みんなが同じように脚が速くなるということはない。
なったらなったでかまわないけれど、
そういうふうには、たぶんならない。

歌のうまい子と、ふつうの子と、へたな子がいる。
これも、歌のうまい子ばかりにはならない。
なったらなったでいいけれど、
なかなかそうはならないだろう。
ふつうの子や、へたな子がいたほうが、
歌のうまい子が、
聴かせてよろこんでもらえるかもしれない。

もう、ほんとに人間ってのは、いろいろなので、
いろいろのまま、いっしょに暮らしている。
それは、なんの不思議もないことで、
世界中の人が100メートルを10秒で走らなくてもいいし、
世界中の歌がうまくなくてもいい。
そういうことは、みんながわかっている。

だけど、学校の勉強については、
わかっていても、わからないものなんだよなぁ。
勉強ができるといいことがある、と、
みんなが思っているし、
そう思ってなきゃ、いまのかたちの学校に
行く理由なんかなくなりそうだ。
でも、それはほんとうなのかなぁ。

学校の勉強が、ほんとうにみんなに必要なのか。
そんなこと、証明できるんだろうか。
いや、必要だということを説明する練習は、
自分に対しても、自分ちの子どもに対しても、
ずいぶんやってきているから、
ぼくだって「学校の勉強が必要だ」ということは、
言おうと思えば言える。
それはそうとして、それは、ほんとうなんだろうか。

あなたがいいなぁと思う人を想像してみてほしい。
誰でもいい。
その人は、学校の勉強ができたから、
そういう「いいなぁ」と思われる人になったのだろうか。
なんかね、人から尊敬されたり憧れられたりする人も、
勉強のできる子出身の人と、
勉強はふつうだった子出身の人と、
勉強はできなかった子出身の人と、
やっぱり3つに分かれるんじゃないだろうか。

そういうことで、なにか差し支えはあるか?
差し支えないような気がするんだよなぁ。

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