ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

サービスとしての笑顔。

サービスっていうものを考えるとき、
あるいは、親切とか魅力ということを考えるとき、
いつでも同じパターンがあるなぁと思うんだよねぇ。

最初に、「おお、いいね」と思われるサービスって、
いわば、明るい売り子さんの笑顔みたいなものだとする。
ほほ笑みというのは、人をうれしくさせるよね。
その店で、そのコから買いたいと思わせるよ。

そうすると、「笑顔が人をよろこばせる」と、
ひいては「笑顔が人を買いたくさせる」と、
法則性を発見する人がでてくるわけだよね。

もともと、笑顔の自然に出てくる売り子さんがいたんだ。
ふつうは、そんなににこにこほほ笑んでないよ、売り子は。
そこに、とても自然に笑顔を見せるコがいたから、
そのコに好感を持つお客さんがいたわけだよね。

でも、現象としては、
「笑顔が売上げをあげた」と見えるよね。
自然に出た笑顔だろうが、練習した演技だろうが
笑顔は笑顔なのであって、
お客さまは笑顔が好きなんだとわかっている人は、
笑顔が仕事の一部に含まれるようになる。
それが悪いことだとは言わない。
ブスっとした売り子から何かを買うことが、
うれしいと思う人は、あんまりいないだろう。

それに、笑顔を身につけていくうちに、
笑顔の動機になるような気持ちが育っていく、
ということもあると思うので、
いいこともあるよ、それはそうだ。

だけど、どこかで、
分析した結果「こうすれば効果があがる」として
練習した笑顔というのは
‥‥ちがうんじゃないのかなぁという気持ちも残る。

こういうことは、
いまは、あっちこっちであるものだから、
もともとの笑顔にあたるものと、
目的があって練習された笑顔のちがいみたいなものに、
ついつい興味が向かってしまう。

自分のことで自分の胸に聞いてみるとわかるけれど、
ぼく自身の笑顔にあたるものについても、2種類ある。
こころから湧いてきた笑顔というのは、
ある意味、とてもわがままなものでもあって、
出てきてしまうから出ているだけだ。
ひょっとしたら、そっちの自然な笑顔は、
他の人を傷つける可能性だってある。

もうひとつの、
そうしたほうがいいからやっている笑顔は、
わがままでやっているわけじゃないから、
こっちのほうが社会性があって、
大人っぽい笑顔なのかもしれない。
でも、ほんとに笑っちゃいないものだ。
いつ、どんなふうに使い分けているかなんて、
わかる人にはバレているだろうし、
誰よりも、ぼく自身が知っている。

だけれど、つくられた笑顔のほうが、
使い勝手もいいし、人を傷つけないという取り柄がある。
で、しかも、それは嘘でもあるものだ。
そして、その両方を、人はちゃんと見ているはずだ。
ほんとの分量、うその分量を、
あんがい、人は見ぬいていると思う。
いや、見ぬいているはずだと、ぼくは信じている。

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