ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

かゆみ論。

犬と草原で遊んでいて、蚊に刺されたんだ。

蚊に刺されるときというのは、いつもそうなんだけど、
あ、蚊がとまったような気がするな、
と、まず思うんだ。
そういうときには、
たいてい、蚊がとまって、血を吸った後だ。
くっそーと思うんだけど、そのときにはなんともない。
刺されたところがふくれているわけでもないし、
かゆみもない。

もしかしたら、
かゆくしない蚊がとまって休んでいっただけか、
と、やさしいことも思わないでもない。
だけど、蚊とのつきあいも長いものだからね、
そのうちろくでもないことになる、と、
うすうす感じているわけだよ。

犬との散歩は、まだ始まったばかりなので、
このまま家に帰るというのではかわいそうだ。
犬もそうだろうけれど、せっかく連れてきたぼくだって、
それじゃあんまり不本意だ。
よし、墓地のほうへ歩いて行こう。

歩き出したとたんに、かゆみがでてくる。
こうなることはわかっていたのに、対処する方法はない。
ちょっとくらい爪でかいても、
かゆみはおさまるものじゃない。
かいてかゆみをおさめようというのは、
気休めにしかならない。
かゆみを軽減するためには、ぼくのこれまでの経験では、
よく効くかゆみどめの薬を塗るしかない。
しかし、それは家まで帰らないと、ない。

でも、散歩は続けると決めたのだ。
犬も、すっかりそういうつもりで、
遠回りコースを歩こうと、リードをひっぱっている。
もうこのころになると、
蚊がどことどこを刺したのか、はっきりする。
両腕のあちこち、5ヶ所、かゆい。
歩いていてもかゆい、信号待ちで止まっていてもかゆい。
しかし、自分でこのかゆみを覚悟したはずなので、
もう文句も言えない。
それに、かゆみは痛みとちがうわけで、
かゆくて気を失うということもない。
痛みだってガマンする人がいるのだから、
かゆいくらい、ガマンすればできるはずだと思った。

かゆみはガマンできないものなのか、と、
本気で問われたことなどなかったから、
考えたこともなかった。
ぼくは蚊に刺される前とおなじように、散歩できている。
実際に、かゆみをガマンできているのだ。
しかし、同時に、ガマンできないような気もしているのだ。
ガマンできない、と言いたい気持ちもある。

痛みを快感と感じる人もいるのだから、
おれはかゆみを快感に変換してみよう、と思った。
かゆいと感じるたびに、「きもちいい」と感じようと、
試みてみたわけだ。
かゆいかゆい・きもちいいきもちいい‥‥と、
無理にでも考える。
だが、なかなか快感にはならなかった。

痛みなんかが快感に感じられるのだったら、
かゆみが快感に転じるくらい簡単なことではないのか。
もともと快感のなかには、
かゆみに似た成分が、あると思うのだ。
かゆいところをかかれたような感覚は、
あきらかにすばらしい快感である。
かゆみを感じるところが、的確にかかれたら、
それが快感になるということならば、
かゆみそのものも、
やがてかいてもらえるかもしれないという期待で、
快感の入り口くらいに味わえてもよいではないか。

しかし、そういうわけにも、いかないものだった。
かゆみは、そのまま、不快にもかゆみとして残った。
こうなったら、永久に続くかゆみはない、と
思い直すことにする。
でも、事実かゆいのだから、
いずれかゆくなくなるということが理解できたところで、
慰めにはならない。

結局、時にガマンし、時にかき、ということで、
予定通りに遠回りコースの散歩を終えることができた。
家に戻ってからも、まだかゆかったので、
かゆみどめの薬を塗ったら、ほとんどかゆくなくなった。

かゆくなくなってから思ったのだが、
ぼくのこの日のかゆみというのは、
たいしたことのないものだった。
かゆくてかゆくて、
「もう殺してくれ!」と叫びたいほどのかゆみも、
あるような気がする。
ぼく自身も、かゆみについて考えるなんて余裕もなく、
泣きたいほどかゆかったという経験もあった。
蚊よりもブヨとか、
またもっと別の毒虫とかにくわれると、
あんまり悠長なことも言ってられない。

アレルギー性の皮膚炎だとかも、
とんでもないかゆさで有名だった。
そういえば、ぼくもじんましんで苦しんだこともある。
痛いわけじゃない。
苦しいといっても息が止まるようなことはない。
かゆみの延長線上に、死を感じさせるような危険は、
どうもないような気がするのだけれど、
とてもとても不快なのだ。

痛みについては、同情も共感もされやすいし、
危険なすごみがある。
しかし、かゆみの苦しさについてくる同情や共感には、
もっとおかしみの混じるようだ。
演劇や、映画のなかでも、
かゆみにのたうちまわるヒロインは登場しないだろう。
敵役が、主人公に対して、
「もっとかゆくしてやる!」なんて叫んでも、
あんまり迫力がでない。
苦しさが、きりっとしてないのだ。

しかしだ。
悪魔となんかの取引があって、
「1年のうち1日だけひどい痛みを味わう」というのと、
「1年の間、毎日、かゆい」というのと、
どっちかを引き受けなきゃならないとしたら、
あなたなら、どっちを選ぶ?
もうちょっと、ゆるくして、
「1年のうち3日だけひどい痛みを味わう」というのと、
「半年の間、毎日、かゆい」というのでは?
けっこう、かゆみもなめられたものでもないだろう。

こう、人間の感じる快感だとか、不快感なんてものには、
痛みとか、死とか、寒さとか、ひもじさとか、
わりと劇的なタイプのものもあるけれど、
かゆみとか、眠さとか、蒸し暑さとか、だるさとか、
ドラマになりにくい不快もあるものなんだよねー。

どんな美人も、おしりをぽりぽりかいていたら、
それだけで「異色」の美人になってしまう。
それくらい、
かゆみと人間の関係というのは、
まことに不思議な領域にあるものなのだ。

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