カレーライスの正体
第9回
カレールウという不思議な存在(2)
2017.4.2 更新
前回の続きのおはなしです)
# 一番おいしいカレールウは何か

 ところで、料理教室をしたり、ルウで作るカレーのレシピ本を何冊も出版していたりすると、よくこんな質問を受ける。「市販のルウで一番おいしいのはどれですか?」。これがかなり答えに苦しむ質問だ。正直言って答えはない。答えは、それぞれの人の中にある。ブランドスイッチを起こさずおふくろの味を創ってきたカレールウは、優位性が語りにくい。それぞれの習慣に裏打ちされた「おいしいカレールウ」が存在するから、僕が、「これです」と進めたところで正解になる確率は低いのだ。

 そういう点でいえば、僕個人にとっては、ジャワカレーとザ・カリーがおいしいルウということになる。それで育ったのだから仕方がない。専門家として少しでも客観的な意見を言わせてもらうとすれば、ディナーカレーはバランスが取れていてクオリティが高いと思う。だから、僕は、自分が食べたいときに作るならジャワカレー、料理教室を実施したりレシピ本を作ったりするときに使うのはディナーカレーと決めている。

 あとは、それぞれのルウの特徴を説明して、「試してみてください」と言うしかない。「もっとスパッと明晰な答えが欲しい」という人もいるだろう。そんな人のためにひとつだけ準備している回答がある。「値段の高いルウを買ってください」というものだ。そんなこと言ったら怒られるだろうか。でもこれが一番客観的にできるアドバイスだろう。高価なルウは原材料にお金がかかっている。当然、安価なルウよりも味のクオリティは高いのだ。

# カレールウの調理法に
正解はあるのか?

 もうひとつ、カレールウに関してよく聞かれる質問がある。「市販のカレールウは、箱に書かれた通りの作り方で作るのがおいしいんですか?」だ。これについても曖昧な回答をせざるを得ない。要するに、箱の裏に書かれたレシピが正解であり、不正解でもあるのだ。

 玉ねぎを一所懸命炒めたり、隠し味に凝ったり、色々アレンジすることでカレーがおいしくなると考える人が多い。でも、「箱の裏の通り」推奨派の意見は、「食品メーカーでは、開発のプロが寄ってたかって長い期間を費やしてひとつのカレールウを商品化している。つまり、出来上がったカレールウは計算しつくされたものだから、素人が適当なことをやったら、緻密な計算が崩れてしまう」というものだ。

 これについては僕にもほんの少しだけ責任があるかもしれない。10年以上前に、NHK「ためしてガッテン」でカレーを特集があった。僕は番組制作の企画段階からチームに入って協力させていただき、出演をして「ガッテン流カレー」のようなものの提案をした。この番組の中で、4人の主婦がそれぞれカレーを作って、ある食品メーカーの官能研究所の人たちが味の判断をする、というコーナーがあり、腕に自信がある熟練の主婦たちが、料理をほとんどしない新婚の主婦に負けた。腕に自信のない新婚さんは、箱の裏に書かれた通りに作ったのが勝因だったのだ。

 じゃあ、カレールウの箱の裏に書かれたレシピは正解です、ということになる。ところがそうではない場合があるから難しい。これは、カレーの味が80点なのか100点なのかということが関わってくる。食品メーカーの優秀な開発者たちは、多くの人から80点をもらえる味の落としどころを探っている。結果、特定の誰かにとって100点になるよりもできるだけ多くの人にとって80点になる味ができあがる。

 100点のカレーは作る人それぞれの中に存在する、ということになる。だから、玉ねぎを炒めたりチョコやしょう油を入れたりすることで、メーカー推奨の味は壊れるが、「私の100点」が生まれる可能性はあるのだ。

 そして、さらにややこしいのは、カレーは、足し算と引き算を繰り返す料理であるという点にある。あるカレールウで箱に書かれた通りに作る。おいしい。でも何か物足りない。玉ねぎを増やしてみたらさらにおいしくなった。チョコを入れたりしょう油を入れたりして足し算をすればするほどおいしいと感じるようになる。

 ところがある段階で、それが飽和すると今度は、引き算が始まるのだ。無駄を省いてみようと、少しずつ材料やプロセスを引き始める。すると不思議なことにそれはそれでスッキリとシンプルな味わいで、これまでよりもおいしくなったような感じがする。いいぞ、いいぞ、と引き算を続けると今度はまた別のものを足したくなる。

 これが全国の家庭で作り手の数だけ行われていると想像してみてほしい。おいしいカレーの正解をひとつに決めるなんてことには誰も挑戦したくなくなるだろう。

 だからこそ、カレーの世界では、これまで「おいしいカレーのレシピ」をめぐって様々な提案がされてきた。「これはどうですか」「こんな作り方もありますよ」。あの手この手が提案される。誰も「この作り方こそが正解だから他はやらなくてよろしい」と言えない。数々の“おいしいカレーの作り方”を情報としてキャッチした僕たちは、その中で自分の好みや足し引きのステイタスに合ったどれかをチョイスしてトライしているのだ。

 この提案によって日本のカレーのレベルは上昇した。でも、この提案が、家庭のカレーの、とある魅力を壊すことになるとは誰も想像しなかったかもしれない。

……つづく。
2017-04-02-SUN