ほぼ日ブックス

糸井重里が1年間に書いた原稿から、
こころに残ることばを集めてつくる本、
小さいことばシリーズ最新作。

生まれちゃった。 - Special Delivery. - 糸井重里

『生まれちゃった。』について永田泰大

糸井重里は、1998年の創刊以来、
ほぼ日刊イトイ新聞のトップページに
毎日原稿を書き続けている。

1年365日をざっと24年8ヶ月。
ええと、だいたい9000回くらい。

きゅ、きゅうせんかい!
あらためて書いてみてまた新鮮に驚いた。
合ってるよね、計算?

‥‥はい、合ってました。
いやぁ、ほんとに、とんでもないことですね。
9000回もあの量の原稿を、
毎日、毎日、書いているのですよ、あの人は。

そして、継続の長さに加えて、
もうひとつこりゃぁすごいなと
糸井重里の原稿に感心することがぼくにはある。

それってかなり特殊なことなんじゃないかと思う。
ふつうはそうはならないだろうとぼくは思う。

引っ張らずにすっと言ってしまうと、
それは、この24年8ヶ月の9000回の原稿のなかに、
日記的な表出がほとんどないということである。

いいですか。
仮にあなたが、毎日毎日休まず
何かを書かねばならないとするでしょう?
27文字×40行くらいの、
だいたい1000文字くらいの原稿を、
ずっと書き続けなきゃいけないとするじゃないですか。

そうすると、いちばん、手頃なテーマは
「今日、こんなことがあった」じゃないかと思うのです。

天気でも、会った人でも、食べたものでもなんでもいい。
その日、こんなことがありました、
ということをとっかかりに書きはじめれば、
おそらく毎日の原稿が展開しやすくなるでしょう。
なにもない日はなにもなかったなと書けば、
すくなくともその日の内容の助けにはなるはずである。

だって、1ヶ月とか2ヶ月を
乗り切ればいいというものではないのだ。
10年も20年も続いてるものだし、
これからもずっと続くものなのだ。
ふつうに考えて、それを毎日続けるための技術として、
日記的な表現はとても重宝するはずなのである。

しかし、糸井重里の毎日の原稿には、それがない。
もちろん、たまにはある。
食べたラーメンとかとんかつとか、
会った誰かの印象的なひとこととか、
そういう事実を書くことを彼は禁じてはいない。
けれども、頻度としてはかなり稀である。

もっと具体的に説明しよう。
ぼくは同じ会社に勤めているので、
糸井重里の毎日がけっこう忙しく、
なかなかに刺激的であることを知っている。
おもしろい人に会ったり、
めずらしいイベントに出席したりして、
ふつうの社会人よりはトピックの多い毎日を
送っていると把握している。

実際、糸井はそういう特別なことを
経験するたび心を動かされ、
ときには興奮して思いを周囲へ語ったりする。
いやあ、今日のあれはすごかったなぁ! 
なんてしみじみ振り返っていたりもする。

ところがその日の深夜に書かれ、
翌日のほぼ日に掲載される原稿には、
その日の出来事が記されないことがほとんどなのだ。
昨日のあれを書かないんだ、とぼくはしばしば驚く。

じゃあ、毎日の原稿には何が書かれているのか。
その傾向ははっきりしている。
約9000回、糸井重里が書いているのは、
彼が「考えていること」なのである。

それも、その日ふと考えた、ということではない。
(それはどちらかというと日記的である)
ずっと前から考えていて、
何度もくりかえし考えていて、
それがその日にふと、
あるかたちをもって押し出されたもの。

そういうものを糸井重里は書くことが多いとぼくは思う。
だから、毎日書かれるものは、
長い時間の、あるいは雑多な思考の、
粋のようなものなのである。

糸井重里のことばの魅力は、
文体とか、わかりやすさとか、視点とか、
そういうことももちろんあるけれども、
ひとつひとつの表現が
時間と思考を背負っていることにあると思う。
そこには相当な量がある。
それゆえ、なんというか果てしないのである。

なにも深淵なテーマに限らない。
たとえば煮魚について書くときも、
糸井重里のことばは果てしない。
負けた野球チームの実力を嘆くときも果てしない。
セミの抜け殻の思い出を記すときも果てしない。
落語の一節をおもしろがるときも、
犬のよさを語るときも、駄洒落で締めるときも、
糸井重里のことばは果てしない。

だからこそ、9000回も続くのだろうと思う。
その日の出来事を自転車操業的に継ぎ足すのではなく、
化石燃料のように蓄えたものが地表へ染み出すから、
糸井重里の原稿は今日も絶えずに
掲載され続けるのだろうとぼくは思う。

糸井重里の毎日の原稿とツイートから、
さらにことばを厳選してつくった
「小さいことばシリーズ」という本は、
果てしなさを掛け算して凝縮した、
ブラックホールのようなものである。
もう、ぎゅうぎゅうで、ぱんぱんである。

しかも、15冊目となるこの『生まれちゃった。』は、
2020年と2021年という2年間のことばを圧縮している。

いつもは1年分だから濃度は倍である。
いや、倍どころではない。
その2年間には新型コロナウィルスの感染拡大という、
いまを生きる人が立ち向かわざるを得ない、
まさに「果てしないテーマ」があった。

いつも考えている糸井重里が
さらに考えざるを得なかった2年間。
そこで綴られたことばを厳選したのが
この『生まれちゃった。』という本である。

手応え十分の本ができたことに満足しつつ、
その充実した、ある意味重厚な内容を、
田島享央己さんのとびきりキュートな木彫作品で
パッケージできたこともとてもうれしい。
こんな本、ちょっとないでしょう、と胸を張る。

今回も、いいものができあがりました。
手にとっていただけたら、とてもうれしいです。

どうぞよろしくお願いします。

2023年2月   永田泰大

「生まれちゃった。」トップページへ