From: 糸井 重里
To: 渡辺 謙
Subject: 体温・匂い・子どもっぽさ。

渡辺謙さま

土曜日の糸井重里です。
髪の毛を切ってきました。
何をしようか思いつかないときには、髪を切ります。
ぼくの直感的につくった法則として、
「中小企業の社長は、床屋に逃げ込む」というのがあります。
自分が何もしないのに、何かが完成する、というのが
とても精神的に落ちつくんだと思います。

以前、渡辺さんのメールのなかで、
週末の休みが2日あることは、ほんとうにありがたい、
というようなことがありましたね。
たしかに、そうだ。
週日にできなかった用事を片づけるだけで、
1日を費やしてしまいますものね。
そこまで忙しくしてないと、ぼくらはやっていけない。
そういうことなのかもしれません。

仕事のことについても、家族についても、
いま、根本的に考えを組み立て直そうとしている時代ですね。
これまでの「大人の常識」の範囲で考えるのではなく、
子どもっぽく、「なんでそうなるの?」と考えないと、
どうしても効率優先の、
ご都合主義的な結論にしかならないのだと思います。
『明日の記憶』という映画が提起してきたものも、
大人っぽく「うまくやる」ための方法ではなく、
ある意味では子どもっぽいくらいに根源的なところで、
答えを手探りしているという姿勢でした。
たぶん、だから、胸に響いたのだと思います。

子どもっぽい、というと、
考え方として「その後、もっと進化して大人っぽくなる」
(つまりは、もっとよくなる)と思いがちなのですが、
どうも、そうとばかりは言えないようです。
身体も含めて「自分まるごと」で納得する、
というようなことがないと、たいがいのことは、
ほんとうにはうまくいかないものです。

言葉の帳尻が合っていれば、それが正しい。
正しいのだから、その正しさに自分を合わせればいい。
というのは、理性的な大人の考え方かもしれませんが、
なんだか、「たかが言葉の帳尻合わせ」というふうにも
思えてならないのです。
渡辺さんのおっしゃる、温度だとか匂いが持っている
欠くことのできない価値が、言葉の帳尻合わせの世界では
勘定に入れられません。
いや、もっと言えば、耳に届いてくる「意味以外のもの」、
人間の声の調子だとか、自然の音だとかというようなものも、
ないことにされているように思います。

しかし、子どもは、そういうものを逃しません。
たとえば母親が、どうして怒っているのか、
まったく意味として理解できなくても、
尋常でない声や呼吸を感じ取って恐怖します。
そしてその後、許されたということが理解できなくても、
母親の胸に抱かれて、その体温や匂いを感じたら、
意味を超越して、自分が受け入れられていることを感じ取ります。

この子どもっぽさは、進化なんかしてもらっちゃ困るわけです。
これと、大人になっていく「成熟」とは、
同じ人間のなかに同居しているはずだったと思うのです。
しかし、子どもっぽさは、これまでの時代の価値観の中では、
ほとんどの場合、じゃまな、乗り越えるべきものとして
扱われてきたんですよね。
「だだをこねるな」ということで、
自分のなかの子どもっぽさを抑圧したり、
子どもの「無理な要求」をあきらめさせたりするわけです。
しかし、果たして、「だだをこねている」だけだったのか?
さて、それは「無理な要求」と言いきれるのか?
そこまで、忙しいオヤジは考えるべきだったのかもしれません。

ここで「子どもっぽさ」と言っている部分に、
今回の佐伯さんの「病気」を代入してみてもいいかもしれない。
枝実子さんが社会にでて働きはじめて、
佐伯さんの「子どもっぽさ」と衝突する場面がありました。
しかし、枝実子さんは、衝突しながらも
その「子どもっぽさ」を否定するのではなく、
なんとか受け入れようとしていました。
女性のほうが、人間として格上だよなぁ、と思うのは、
そんな時なんですよねー。

1分1秒ももったいない、とばかりに働いていた
佐伯部長がいなくなっても、会社はたぶん回っています。
だとしたら、これまで欠かせないと思っていた
1分1秒とは、なんだったのか?
それが佐伯さんにも、佐伯さんに似た男たちにも、
わからないままだったんでしょうね。
(ああ、自分で書いていて耳が痛い‥‥)

「梅の木」なんかも、ただいるだけですから、
世界に依存して生きているとも言えるのですが、
同時に尊敬されるようなものでもあります。
大滝秀治さんの陶芸家も(歌声はうるさいけど)、
子どもそのもので、なおかつ「いてほしい存在」でした。

体温、匂いというような言葉に反応して、
このごろ考えていたことを、無闇に吐きだしてしまいました。
なんだか、このあたりのことは、
きりもなく書いてしまいそうなので、
いい加減なところでやめておきますね。

依存とか、甘えとかというような言葉を、
ぼくはあえて肯定的に捉え直してみようと思っています。
そのことから、なにか
これまで自分が考えないようにしていた闇が、
明るくなってくるように思っているのです。

さっき、出張でアメリカにいるともだちから、
メールが届きました。
なんだか、とてもうまく受け入れられているようで、
高揚した気分が伝わってきました。
外の海に飛び込んでいく人の緊張感は、いいものですね。
なんて、無責任に「春のご隠居」は思ったのでした。
すいません。

軍人の役の、おじゃまになってはいけないかな、
と思いつつも、ぼくはぼくの仕事を信じて、
平気な顔で、「たおやめぶり」なこと書いています。
お許しください。

2006-04-26-WED



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