From: 渡辺 謙
To: 糸井 重里
Subject: 分析とエンターティメント

ひと山を越えて、周りの状況と自分の精神状態が
同じビートを奏でるようになって、安定してきました。
それでも、「明日の記憶」が
自分の中でどこにあるかがはっきりしていません。
以前ならば、この話や佐伯という男が
自分の中で生き続けるだろう・・・
そう思っていました。
しかし、哀しいかな今日を生きなければいけません。
僕が病気をしていたことを、
自分自身すっかり忘れてしまうように、
今日をなんとか生き延びようと
あがいている感じですね、きっと。

少しだけ、今の気持とつなげてみても良いですか?
僕らの仕事は、家を空けることがやたらに多いです。
ある意味、佐伯だって似たようなものだった気がします。
家から通っていても、そこはただの休憩所であったのです。

逆に言うと、離れてしまっているからこそ、
近くに居られるということもあります。
気持の距離とでも言うのでしょうか・・・?
そういう意味で今回の仕事を考えてみると、真逆の気がします。
仕事と言う職務を与えられている男が、
何を支えに生きてきたか・・・。
お互いに「家族」と答えるでしょう。
しかしその「気持の距離」が違うのかもしれません。
愛情の深さという風に言い換えられるかもしれません。
それはもしかすると現代人が抱えるジレンマかもしれません。
人と人との距離感、息遣い、体温、
そんな違いに当てはまるのかもしれません。
本当に昔と今とでは
人間の体温が違うんじゃないかと思う時があります。
エアコンも、ヒーターも無ければ、
防寒具だってたいしたものは無い。
生きていく力そのものが退化している。
それは観念にまで影響していく。

いかんいかん・・・
そんな大きなことが言いたかったわけではないのです。
今、僕は精一杯生きているつもりです。
でも、昔の人に言わせれば
「何を言ってやがんでえ、昔はなあ・・」と
叱り飛ばされるかもしれません。
きっと自身の感情の中で、昔と今と行ったり来たりしていると、
おかしくなってしまうのかなあ?

話を戻します。
この何年かすごく自分の愛おしいものに
対する感覚が以前よりも深くなってきている気がします。
気持の距離に目覚めたのかもしれません。
そんな時に出会った作品が「記憶」だったのかもしれません。
映像で一番描きにくいのは匂いと温度かもしれません。
その二つがどうやったら感じられるか、いつも考えてきました。
男の匂い、女の匂い、子供の匂い、お互いの体温、
大切な五感(六感かな?)のその二つが欠けてしまうと、
もったいない気がするからです。
気持の距離を感じる時、
その二つが欠けてしまうからかもしれません。

何だか、感覚的な話になってしまいました。
この週末は少しゆとりがあるので、じっくり考えて見ます。
それでは。

渡辺 謙

2006-04-22-SAT



(C) 2006 Hobo Nikkan Itoi Shinbun