2022年の相馬市。3月の地震で大きな被害を受けた町を、ヤマブン姉妹に案内してもらいます。

HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN

きっと、知らない人も多いと思うのです。
2022年3月、震度6強の地震に襲われて、
福島県相馬市が大きな被害を受けたことを。
「東日本大震災のときより被害は大きい」
という声も出ているそうです。
相馬市は「さんま寄席」を開催するなど、
ほぼ日とも縁の深い場所です。
「いまの相馬を一緒に伝えませんか?」と
私たちに声をかけてくださったのは、
ライターの古賀史健さんと
カメラマンの幡野広志さんでした。
あの「相馬のお醤油屋さんの姉妹」、
ヤマブン姉妹に相馬の現状を教えてもらいます。
#2022年の相馬市」でTweetしながら。

相馬市に行こうと思った理由。古賀史健 2022-05-25-wed

無力感と立ち向かって。

古賀史健

小学校時代のぼくは、転校の多い子どもだった。
ほとんど年に1回の割合で、転校をくり返していた。
仲良くなった友だちと別れることはつらい。
転校先の学校になかなか馴染めず、
前の学校の友だちばかりを思い出す。
どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
考えたぼくは、シンプルな結論にたどり着く。
仲良くなるから、つらいんだ。
仲良くなるから、悲しいんだ。
だったらいっそ、最初から仲良くならなきゃいい。
どうせ1年もすれば次の学校に転校するんだから。
仲良くなっちゃいけない。
こころを許しちゃいけない。
転校してきたその日から、別れの準備をしておこう。
子どもながらにたどり着いた、当時の結論である。

福島県相馬市はこの10年あまりのあいだ、
3度のおおきな地震に見舞われた。
2011年3月の東日本大震災。
2021年2月の福島県沖地震(2021)。
そして今年、2022年3月の福島県沖地震(2022)。

「部屋を片づける気が失せた、という人も多いんです」

長かった一日の終わり、
鳥居や灯籠が倒壊した神社を案内しながら、
ヤマブン姉妹さんがぽつりと漏らす。

3月の地震で、家のなかはめちゃくちゃになった。
けれども余震は、毎日のように襲ってくる。
専門家たちは近々、
また同じ規模の地震がくると警戒を促す。
だったらもう、片づけないほうがいいんじゃないか。
せっせと生活を立てなおしたところで、
どうせまた次の地震に壊されるのだから、
いっそなにもしないほうがいいんじゃないか。

「正直わたしも、その気持ちはわかります」

ヤマブン姉妹さんが言い添える。
ぼくは数時間前に案内していただいた宿、
丸三旅館の四代目・菅野雄三さんの話を思い出した。

昨年2月の地震で、おおきな被害を受けた丸三旅館。
菅野さんは当然、復旧に全力を傾けた。
亀裂の走った壁を修繕し、
客室の畳を新品に張り替え、
最後の最後まで特定のむずかしかった
雨漏り箇所をようやく突きとめ、
補修工事を終えたのが、今年の2月。
ただでさえ新型コロナウイルスの影響で
一般の旅行客が少なくなっていたこの数年。
さあ再出発しようと前を向いた翌月の16日、
あらたな、そしてさらにおおきな地震によって、
1年掛けて積み上げてきた取り組みの
すべてが水泡に帰す。
壁や窓の崩れた館内を案内しながら菅野さんは、
地震からしばらくのあいだ
なにも考えられなかった、と語っていた。

また、もうひとつ案内していただいた宿、
ホテルみなとやの菅野芳正さんは、
再建に必要なお金についても率直に語ってくれた。
損傷した箇所をすべて修繕しようとすれば、
億を超えるほどのお金が必要になる。
保険や補助金は出るものの、
それでも千万・数千万単位ものお金を
自分でまかなわなければならない。
どうにかして夏までにホテルを再開したいが、
当然それまでのあいだは、無収入の期間が続く。
そして地震は、いつ再びやってくるかわからない。
同じことのくり返しに、なるだけかもしれない。

昨日も書いたように
この取材のきっかけとなったのは、
ヤマブン姉妹さんが意を決したように送ってくれた、
一通のダイレクトメッセージだ。
そこには前を向く気力さえ失いかけた人々の姿が、
短いことばで描かれていた。
実際に現地を訪ね、自分の目で被害の状況を見て、
多くの人たちの話に耳を傾け、
ようやく「そういうことか」が得られた気がする。

相馬の方々、また東北の方々はおそらく、
決して地震そのものと闘っているのではない。
今回はじめて言語化できたのだけれども、
東北のみなさんが懸命に立ち向かっている相手、
その筆頭はきっと「無力感」なのだ。

自分たちの努力、継続、生活を、
いとも簡単に無化してしまう自然災害。
しかもそいつはまったく不意に、
気まぐれめいたタイミングで再来する。
なんという理不尽だ。
どうして自分だけがこんな目に遭うのか。
理不尽の拳に殴られた人は、
どうしようもない無力感に襲われる。
もうなにもしないほうがいいんじゃないか。
なにをやっても一緒じゃないか。
どうせ倒されるのなら、
いっそ立ち上がらないほうがいいんじゃないか。

そんな無力感に、
どう立ち向かっていけばいいのか。

丸三旅館の菅野さんが、
こんなことをおっしゃっていた。
3月の地震からしばらくは、なにも考えられなかった。
どこから手をつければいいか、わからなかった。
足元を見ると、こころが折れそうになった。
だから自分は、遠くを見た。
再建した旅館。賑わう海と町並み。
そういう美しいこころの絵図を見た上で
もう一度足元に目をやったとき、
ようやく最初の一歩を踏み出すことができた。

メモを取る手が追いつかず正確な引用ではないものの、
大意としてはそういう内容のことを、
菅野さんはおっしゃった。

足元ばかりを見ていたら、進む方向がわからない。
遠くばかりを見ていたら、石につまずき転んでしまう。
まずは遠くを見て、足元に目を移すこと。
逆にいうと遠くを見る余裕が生まれるまでは、
無理に動く必要はない。
こころと身体を休めることもまた、
大切な次への準備なのだ。

ワン・モア・シング。
最後に、もうひとつだけ。

今回の取材はいつも以上に
想像力を試される旅だった気がする。

目玉を借りること。
自分ではない誰かの目玉を借りて、
その人の目に映る世界を覗こうとすること。
そして誰かの目に映る像を、
みずからの目に映る像と重ねようと努力すること。

それが想像力なのだと、ぼくは思っている。

とくに震災以降の福島は、
とりわけ細やかな想像力を持って
ことばにするべき土地になっている。
この地がいまもなお
さまざまの風評に苦しめられていることを、
ぼくは今回の旅であらためて知った。

突然に訪ねていったぼくたちを
快く受け入れてくれた相馬のみなさん、
ほんとうにありがとうございました。
細やかな気配りとともに
案内してくださったヤマブン姉妹のおふたり、
ほんとうにどうもありがとうございました。
今回の企画はすべて、
おふたりの「最初の一歩」からはじまったもの。
今度はぼくも、チョコチップのジェラート食べます。
そして最後まで読んでくださった読者のみなさん、
どうもありがとうございました。
相馬はお魚のおいしい、いいところです。
ぜひ、なにかの機会に訪ねてみてください。
ぼくもまた訪ねます。

お味噌とお醤油とお米

幡野広志

福島県の相馬市に来ている。

相馬市にあるお味噌とお醤油の醸造元
ヤマブンさんのもとを訪れた。
いきなり自分の話で申し訳ないけど、
相馬市から帰った翌日は朝から引っ越しだ。
おかげで出発する直前までバタバタとしていた。

今年の3月16日福島県で震度6強の揺れを観測した。
新幹線が脱線して東京でも揺れたので
記憶に残ってる人もたくさんいるだろう。

最初にこの旅の話を聞いたときにぼくは
「ああ、そういえば東京でも揺れたね」
ぐらいの感覚だったのだけど、
相馬市では東日本大震災を上回る揺れだったそうだ。

ヤマブンさんの双子の姉妹も社長さんも、
被害状況を見せてくれたホテルの社長さんたちも
口を揃えていままでに経験したことがない揺れだったという。

相馬市で高速道路をおりると、
青いビニールシートで屋根がおおわれてる家が点在しはじめる。
大きく崩れている建物もある。
外観ではわからなかったけどヤマブンさんも蔵が損傷している。

神社の鳥居や石橋も崩れている。
被害を見せてくれたホテルはずっと営業できていない。
イオンですらずっと休業している。
相馬市だけ局所的に被災しているような状況だ。

それだけ聞くと悲惨な状況のように感じるかもしれないけど、
相馬の人が悲観的かというとそういうものは感じない。
とにかく知ってほしいという気持ちだけが伝わってくる。

綺麗な海の写真と一緒に
「来て」とだけ書かれた福島県のポスターがある。
福島県にかぎった話ではないけど、
被災地の人たちはよく
「知ってほしい」ということを口にする。
知ってほしいから、来てほしいのだ。

写真家っぽいことをいっちゃうけど、
残念ながら写真の伝える能力は限定的なのだ。
訪れて体感することに写真が勝てるわけがない。
だからぼくはなるべく訪れる。
なにが起きているかを知って、
たくさん買い物もするし、たくさん飲み食いもする。
ダイエットは東京に帰ってからすればいい。

「浜の駅 松川浦」では福島産のササニシキを買った。
ヤマブンさんではお醤油を買った。
お醤油を買ったらお味噌をお土産にくれた。

じつはうちにはすでにヤマブンさんのお醤油もお味噌もある。
引っ越しでバタバタしていても
取材先のリサーチは欠かせない。
事前に手配して出発する前日の21時に
ヤマブンさんのお味噌とお醤油が自宅に届いた。
かなりギリギリだけど、
これでお味噌汁を作ってから出発すれば
初対面でも会話のネタにもなる。

ところが引っ越しの準備をするために
冷蔵庫がほぼ空っぽだった。
お味噌汁の具はおろかきゅうりの一本もない。
お醤油をつけて食べるようなものもない。

スーパーに行く時間はないので、
スプーンでお味噌を少しすくって食べてみた。
お醤油は小皿に少したらして飲んでみた。
当たり前だけど、かなりしょっぱい。

だけど脳内でイメージするかぎり、
焼きおにぎりに塗って焼いたら美味しそうだ。
引っ越しの夜は羽釜で福島のササニシキを炊いて、
お味噌とお醤油の焼きおにぎりを作ってみよう。

困難に立ち向かうことはできる。

永田泰大

たぶん、これは地味な話になると思う。
そういう言い方が失礼になる可能性もあるけど、
そこはもう気にせず書いていく。

きっとフックの弱い読み物になるし、
トピックがないねとも言われそうだし、
読み応えがなかったと思われるかもしれない。

そういう前提で進めていく。
なにしろ、困難には、いろんなかたちがあるのだ。
困難のたび、そう思う。

困難は、いろんなかたちがあり、
困難は、入り組んでいる。
だからこそ、困難なのだ。

困難は、離れた場所でニュースに接しているだけでは
わからないことが多いけれど、
困難の現場を訪れると、
てきめんにその困難が伝わってくる。
うーーーーん、とかつい声が出てしまう。
簡単じゃないなあ、と思う。

たとえばこの写真は、
地震によって亀裂の入った旅館の壁を写したものだ。

誤解を恐れずにいえばきっと地味な写真だろう。
災害の爪痕を写したもっと衝撃的な画像を、
ぼくらはいくつも見てきた。

だから、この旅館の壁の写真は、どこへも届かない。
どこへも届かない、という困難がある。

亀裂の入った旅館の壁の写真をよく見ると、
壁紙が真新しいことに気づく。

この旅館は、ぜんぶの壁紙を張り替えたばかりだった。
畳も入れ替えたばかりだった。

2011年の東日本大震災の損害を乗り越えたあと、
去年の2月にまたしても旅館は強い地震に襲われた。
それでもなんとか復興を果たし、
ようやくお客さんを迎えられるようになった。
新型コロナウィルスの影響で
客足は元通りになったわけではなかったけれど、
それでも旅館は旅館の機能を取り戻した。

そういうときに、
福島県の浜通りは大きな地震に襲われた。
今年の3月16日。東北新幹線が脱線したあの地震だ。
相馬市の震度は6強。多くの相馬市民が
「東日本大震災のときよりも揺れた」と言った。

老舗醤油屋、山形屋ヤマブンの
新規事業を担当するヤマブン姉妹。
姉のゆきのさんは、
「2、3分揺れてたように感じた」と言った。
妹の絢華さんは
「トランポリンのよう」と表現した。

神社の鳥居を倒し、旧家を全壊させ、
お堀に沿った石畳をぐにゃぐにゃにした地震は
新装したばかりの旅館を骨組みから揺らし、
壁は柱からはずれて、真新しい壁紙を割いた。

詳しく書かないけれど、
旅館が新しく生まれ変わるまでには、
たっぷりお金がかかっている。
補助や保険もあるけれど、
ほとんどの場合、全額が保証されることなんてない。

しかも、この地域の旅館は、
この11年の間に、地震、余震、そして台風と、
大きな災害に4度は見舞われている。
そのたびにお金はかかり、
そのたびに途方に暮れ、
そのたびに大きな決断をしている。
それらをぜんぶ乗り越えた先に、
今日撮ったこの写真はある。

ヤマブン姉妹が意を決して
ライターの古賀史健さんに現状を訴えたのは、
知り合った大手メディアの人が
今回の相馬市の地震の被害を
「ニュースにならない」
と表現したことが原因だったという。

おそらく、善意からのことばだったと思う。
取り上げてあげたい気持ちはあるのだけれど、
これでは「ニュースにならない」と。

「知ってほしい」とヤマブン姉妹のお二人は言った。
そして、それ以上はとくに言わなかった。
ホテルみなとやの三代目の菅野芳正さんも、
丸三旅館の四代目の菅野雄三さんも、
「まず、知ってほしい」とくり返した。

「知られない」「届かない」という困難。

地震に襲われたことも、津波で浸水したことも、
台風で雨漏りしたことも、再び地震に襲われたことも、
コロナウィルスも十分に困難だけれど、
そういった「被害」に世間が慣れてしまって、
「知ってもらうこともできない」という困難もある。

ぼくは、たまたま縁があって現場に行き、
その壁の亀裂を見たからこそ、
その困難を知ることができた。

だから、届きづらいこの困難を、
「壁にひびが入っただけの写真」を
どうにかして届けようと思っている。

ご存知のように、世界にはものすごい量の困難がある。
ぜんぶの困難を平等に並べていてはなにもできない。
だからぼくはせめて、たまたま出会ったひとつの困難を、
こうして届けようとしている。

そして、その困難の先にある話で、
とても印象に残ったこと。

古賀史健さんも幡野広志さんもぼくも、
こういう場面では訊きたいことを
素直に口にしてしまうタイプだから、
「失礼かもしれませんが」という前置きをつけて、
相馬の人たちに少しずつ踏み込んだ質問をした。

「どんなに直しても明日また揺れて
壊れるかもしれないですよね?」
「やめてしまうという判断もありました?」
「どうして前に進んでいけるのですか?」

さまざまな困難に襲われて、
これからも新しい困難が待っているともいえるのに、
今日会った人たちが前に向かって
淡々と進んでいるのを見て、
ぼくらはそう聞かずにいられなかったのだと思う。

さまざまな答えが聞かれたなかで、
もっとも心に残ったのはこのことばだった。

「ひとりだったら無理だったと思う」

たとえば、ホテルみなとやさんと丸三旅館さんは、
宿泊のサービスとしては競合であるといえる。
けれども、いまは、
みなとやさん、丸三旅館さんだけでなく、亀屋旅館さん、
旅館いさみやさん、ホテル飛天さんといった
松川浦の旅館がみんなで情報共有し、
宿泊客を迎えられないときは
あちこちで海鮮バーベキューの「復活の浜焼き」を
開催するなど協力して困難に立ち向かっている。

あるいは、そういった横のつながりだけでなく、
「上の代から受け取り、下の代に伝えるもの」という
縦のつながりも精神的に大きいという。

連続する困難や不条理に立ち向かうとき、
前を向いてとにかくひとつひとつ対応しようとするとき、
「ひとりじゃない」という気持ちは
ものすごく大きなことなのだろうと思う。

ぼくらは、震災に限らず、大きな困難の存在を知ると、
なにか力になりたいと思うけれど、
自分の微力と困難の大きさのギャップにかならず怯む。
なんにもできないな、と思う。

けれども、ヤマブン姉妹は「知ってほしい」と言う。
松川浦のみなさんは「ひとりじゃない」と言う。

離れているぼくらは、
現地で大きな困難に直面している人たちに対して
なにが協力できるかわからなくて立ちすくんでしまう。
口でならなんとでも言えるよな、
というような思いから口さえつぐんでしまう。

けれども、具体的に現状を変えられないということは、
無力だということではない。

知るだけでもいい。知らせるだけでもいい。
そこにあることを、
そこにいる人たちを知っているというだけで、
知っているよと伝えるだけで、
その人たちが前に出す歩みの
ひとつひとつを支えることができる。

福島県相馬市で、
ぼくはたしかにそれを聞いてきた。

ヤマブン姉妹は相馬市のさまざまな被害を
ぼくらに見せてくれたあと、
いちばん最後に自分たちの崩れかけた蔵を見せてくれた。
松川浦の旅館のみなさんもそうだったけれど、
相馬の人たちは
(東北の人たちはといってもいいかもしれない)、
声高に自分たちの不幸を訴えたりしない。

だからこそ、ぼくらはもっとそれを、
あえていえば「気軽に」、
知ろうとしたほうがいいのだと思う。

できることはちいさいけれど、
できることがないなんてことはない。

今日、見てきた困難の話と、
とても劇的とはいえない自分たちの
アクションについて書きました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

みなさんもぜひ、どのタイミングでもいいので、
相馬へ。福島へ。東北へ。

2022-05-27-fri