HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN

幡野広志が撮ったもの、
感じたこと。

2021.3.11

自問自答をとくヒント

「自分にはなにかできないだろうか?」
そう10年前に自問自答して、
結局なにもできなくて無力感をあじわった。

2021年という10年の節目で発売した
『気仙沼漁師カレンダー』の撮影のために
2019年にひんぱんに気仙沼を訪れるようになった。

縁もゆかりもなかった気仙沼の街にたくさんの友達ができて、
気仙沼のことが大好きになった。

今回の旅の目的地が気仙沼でなかったり、
もしも気仙沼漁師カレンダーを撮影していなかったら、
たぶんこの旅をしていなかったような気がする。

「自分は被災者じゃないしな。」
「なにかすることが迷惑なのではないかな?」

そうやってやらない理由を考えていたような気がする。

10年前に自問自答して、
結局なにも行動できなくて無力感をあじわったのも、
この考えが原因だった。

震災後に移住をして被災地で生活する人や報道関係者、
被災地を応援するために訪れるアイドルやタレントさんたちも
似たようなことを感じると知った。

今回の旅でなんどか「いい写真は撮れました?」と聞かれた。
買い物をしているときや、食事をしているとき、
歩いているときに知らない人から聞かれたりする。
じつはこれって被災地あるあるだったりする。

「いい写真は撮れました?」という言葉の奥には
「知らせてほしい」という期待や願いをぼくはいつも感じる。

被災地以外で撮影しているときはもちろん、
気仙沼漁師カレンダーを撮影しているときだって
知らない人からいきなり
「いい写真は撮れました?」なんて聞かれることはほぼない。

というか写真家的にはボディーブローのように効いてくる、
とてもプレッシャーがかかる声かけだ。
カレーを作ってる最中に
「美味しいカレーはできた?」って聞かれたら
誰だってちょっとプレッシャーだろう。

自分が役に立てている自負なんておこがましくてないし、
写真だってちゃんと撮れているかあやしいもので
また自問自答してしまうのだけど、
そんな自問自答とは関係なく
気仙沼の人たちは笑顔で迎えてくれて、
また来てねと笑顔でバイバイしてくれる。涙が出そうだ。

自問自答をとくヒントを
気仙沼の人が教えてくれるような旅だった。

10年というひとつの節目に、
被災地を訪れることができて本当によかった。
10年とけなかったナゾナゾがとけたようなスッキリ感がある。

東日本大震災は被災地域が広範囲ゆえに、
それぞれの街に特色がある。
隣町にいくだけでガラッと変わったりする。

ぜひいろんな街の被災地を訪れてほしいのだ。
訪れてよかったときっとおもうはずた。

旅の途中のあれこれ。

そんなことでいいんだよ

永田泰大(ほぼ日)

東日本大震災が起こったのは
2011年3月11日のことで、
ぼくが震災をテーマにした記事を
最初につくったのはその年の夏のことだった。

「福島の特別な夏。」というコンテンツで、
福島県の高校野球を取材した。

さまざまな場所を訪れ、
たくさんの人と話し、
いろんな場面を目撃するなかで、
感情があふれてしまいそうになることが何度もあった。

けれども、そういうふうにならないように、
感情にぎゅっとふたをするようにしていた。
仕事をしている大人なら、
そんなに難しいことじゃないと思う。

元来、涙は出やすいタイプなので、
どうしようもなくなってしまうこともあったけれど、
基本的にはそれを封じ込めながら、
ぼくは取材を重ねた。

福島の高校野球だけでなく、
病院の取材をしたこともあったし、
ライフラインをつないだ人たちのことも記事にした。
じぶんがいままで生きてきたなかで、
もっとも悲しいと感じる話も聞いて、
そのときはとてもこらえきれなかったけれど、
逆にそれを悲しみの基準にしようとも思った。

気仙沼には何度も行った。
悲しい話も聞いたけれど、笑顔になるほうが多かった。
いずれにせよ、震災にまつわる取材をするときは、
ふつうにぎゅっと感情をガードしていた。

そして、あれから10年が過ぎる今年、
写真家の幡野広志さんと福島から気仙沼へ旅をした。

事実として伝えると、
ぼくはこの3日間の旅のなかで、ずいぶん泣いた。

たとえば震災の記録が記された
さまざまな展示を見るとき、
気持ちがどんどん引っ張られてちょっと困った。
とりわけ、荒浜小学校の町の模型を見たときは、
つぎつぎに涙があふれて止まらず、
気持ちを鎮めるまであえて立ち止まって
しばらく泣かなくてはならなかった。

昨日、ここに書いたように、
展示がとてもよかったということもある。
けれども、たびたび泣きながら
3日間の旅を終えて思うことは、
ぼくはもう、じぶんの気持ちに
ふたをしていないのだということだった。

東日本大震災から10年が過ぎた。
ぼくは「3月11日」をほとんど毎年、
気仙沼で過ごしているけれど、
ここ2、3年は町の雰囲気が
ずいぶん変わっていることに気づく。

たとえば、まだ震災の傷跡が町に生々しく残るころ、
少なくともぼくは被災地に「お邪魔する」ことを
気持ちの一部分ではどうしても心苦しく思っていた。
ご迷惑をかけていないか、
じぶんたちが訪れることで大切な日の大切な時間を
奪ってはいないかと危惧していた。

そのころのぼくが
「できるだけ泣くまい」と決めていたのは、
東京からお邪魔して時間を奪っているぼくが、
じぶんの感情も管理できずに泣いていたんじゃ
話にならないだろうと思ったからだ。

しかし、2年が経ち、5年が経ち、
やがて10年という節目が見えてきたころ、
ぼくらは自然に「また来るね」と言えるようになった。
これは、たんに流れた月日のせいばかりでなく、
気仙沼のすばらしく明るくて前向きな人たちの
おかげだということははっきり書いておきたい。

ともかく、10年という月日が経って、
「また来たよ!」「ひさしぶり!」と
ぼくらと彼らは言い合える自然体を得た。

そんな日が来るなんて、思いもしなかった。

時間が経てばと祈るように思っていたころ、
そんな日が来るなんて、思いもしなかった。
そもそも、「また来たよ!」「ひさしぶり!」と
言い合えるようになりたいだなんて、
祈る未来のサンプルとしても想像できなかった。

きっと、10年前の途方に暮れている自分に
そういうかたちを未来の理想のひとつとして教えてあげたなら、
そんなことでいいのかよと怪訝な顔をするだろう。
そんなことでいいんだよ。ぼくも知らなかったよ。

車の中で、幡野広志さんと、ほんとうに正直に、
思っていることをじゃんじゃん話しながら、
いろんな場所をめぐり、
いろんな震災の記録や記憶に触れていたら、
ふたの外れたぼくはとても自然に泣いた。
同じように、自然に笑ったり、自然に黙ったり、
自然に感動したりした。

まだまだ厳しい現実はある。
国道6号線を北上するときの立入禁止区域。
重機がうなりながら嵩上げを続けている更地。
散り散りになったコミュニティ。
けれども、真剣に悩むことだって
自然にできたほうがいい。
わざわざ深刻なポーズをとる必要はない。

困ることも、笑うことも、泣くことも、
おいしいと思うことも、
ここはとてもきれいだなと思うことも、
当たり前に自然にできたほうがいいに決まっている。
10年というひとかたまりが過ぎたときに、
ぼくが感じたのは、そういうことだった。

10年が過ぎると自然に思えることは、
10年前には想像もできなかったりするから、
なんというか、おもしろいものだなぁと思う。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ここに、もっとたくさんの人が来たらいいなと思ってます。
そういうことも考えていこう。


(2021/3/11 大島、陸前高田、気仙沼)