じぶんの距離で悲 しむ。(4月17日)

・まだ今年の2月のことです。
 ニュージーランドを襲った大きな地震がありました。
 現地の、近くにいた人とは、ちがう目で、
 ぼくは、その悲劇を見ていました。

・対岸の火事とか、他人事だとか、
 昔から、そういうことばがありますから、
 ずうっと昔から、人間の感覚というのは、
 遠くで起きた出来事は、近くで起きたことよりも、
 後回しにするようにできているのでしょう。
 それを頭ではわかっていても、
 悲しい出来事を、遠景として見ているのは、
 なんだか「もうしわけない」と思えてしまいます。
 ぼくのなかにも、そういう気持ちが残っています。
 
・今回の「東日本大震災」のような場合、
 日本のなかでも、距離によって、
 人に感じられるものは、
 自然に、少しずつちがっているのだと思います。
 「日本はひとつ」は、そのとおりでしょうが、
 被災地の中心にいる人と、そこに知りあいがいる人、
 さほど離れてない場所に暮らしている人、
 かなり遠くに住んで生活している人、
 みんな、それぞれの遠さ、それぞれの近さを、
 身体に感じながら悲しんだり、
 考えたりしているのだと思うのです。
 おそらく、いまの被災地にいる人も、
 ずっと離れた場所で起った、これまでの震災については、
 遠景として見えていたのではないでしょうか。
 
・悲しみへの距離がどこにいても同じに思えてしまうのは、
 テレビやらインターネットやらという、
 メディアを通して見ているからじゃないかなぁ。
 テレビカメラが、対象にぐっと近づいて、
 近くにいる人にしか見えない映像と音声をつかまえる。
 そして、それを世界中の「あなた」の近くに届ければ、
 あらゆる悲劇とじぶんとの距離感は、混乱します。

 「じぶん」は、じぶんの場所で、じぶんの距離で悲しむ。
 この自然な状態に立ち戻れたほうが、
 「頼られる手助け」になれるのではないか。
 ずっと、そんなことを考えています。

今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。
みんな、それぞれの場で、元気で力を発揮できたらいいね。

「今日のダーリン」より