1 南方的要素と国家以前の日本

……理屈をこねてみたいわけです。ひとつは、日本列島は南から北まで相当長くあるわけですが、この日本列島の中でどういう要素がどういうふうに重なっているかは、なかなかわからないことが多くて難しいのです。その中でこれは確かだろうと思えることのひとつに、南方的な要素があると思います。その南方的な要素をもう少し分けてしまうと、ふたつあると思います。  ひとつは、南太平洋にある島々のひとつとして日本列島を考える考え方、南島的な要素と、もうひとつは日本にある南方的な要素、南中国や東南アジアと同じ根につながるような要素です。つまり、大陸の南の沿海の要素がひとつあって、そのふたつの要素を南方的な要素と考えることができると思います。その要素が、日本列島を潮に乗ってかすめています。
 大雑把に言って、日本海側と太平洋側があります。これは皆さんのほうが専門だから嘘を言うとすぐばれてしまうと思いますが、沿海漁業を考える場合、九州の南から鹿児島、四国、紀伊半島、伊豆半島の南をかすめて金華山沖までが太平洋岸の沿海漁業のやり方のひとつのタイプで、テリトリーというか領域もそうではないかと思いますが僕にはよくわかりません。
 日本海側の南方的要素は、北九州を通って日本海を北上し、東北、青森県のはずれの下北半島を回って太平洋側に出て金華山沖までで、日本海側の沿海漁業のやり方はそういうふうにめぐっていると思います。それはひとつの文化の経路でもあります。
 つまり、文化の流れていく経路は日本海側の要素は青森県をめぐって太平洋側まで来ていますし、太平洋側の漁業のやり方のタイプは房総半島を通って金華山沖までが限界だと思います。陸地から考えると常識に反するようですが、海流に伴う漁業のやり方の大昔からの積み重ねを考えると、だいたいそういうことが言えると思います。
 南方的な要素について考えながら、同時に日本の国が最初にできあがる以前はいったいどういうふうになっていたか、一緒に絡めながらおしゃべりしたいのです。もちろん一緒に絡めながらと言っても、日本の国家ができあがる以前に日本がどうなっていたのか、日本にどういう制度があってどうなっていたかは、いまの段階では推理と理屈で推し量るより仕方がありません。
 人間は世界中、同じようにできあがっているところがありますから、同じように振る舞ったり、同じような制度をつくったり、同じようなやり方、暮らし方をしたり、世界中同じだという骨格を見つけることができます。その骨格を参照しながら、「こういうことではないか」と推理する以外にありません。
 その推理が本当かどうかは、証拠が見つかっていかないと言えません。しかし、推理は推理としてある妥当さというか、ある正しさと奥行きの広さを考えられるとだけは言うことができます。でも、本当のことは実証してみないとわからない。つまり、実証的にそのことが確かめられなければ断定はできません。
 僕だけではなくてだれでもそうだと思いますが、人間の中には、時間をどんどん遠くへさかのぼって、その前は何だったのか、その前は何だったのかを知りたい欲求がどうしてもあります。どんどん空間も広がって、自分が行ったこともないところがどうなっているのかを知りたい欲求があるのと同じことだと思います。
 どうしてもどんどんさかのぼっていく欲求があり、さかのぼっていく欲求はたぶんこれからどうなるだろうかということと関係してくるだろうと思います。これからどうなるかという将来の見通しみたいなものは、時間をさかのぼってこの前はどうだったのだろう、この前はどうだったのだろうと確かめてみたいという将来の見通しの目の遠さと関係があるのではないかと思われます。そういう欲求は確かな問題、重要な問題があるのではないかと思います。

2 国家以前の共同生活の営み方

 日本だけではありませんが、日本で言えば奈良盆地や京都平野に最初に政権を立てたのは大和朝廷です。その国家が成り立つ以前はどうなっていたかを確かめる方法がいくつかあります。国家がなかったのですから政治がどう行われていたか、人間はどう共同生活を営んでいたかを探ること以外にないわけですが、その場合にいくつか目安があって、ひとつ、非常に大きな目安で考えられることがあります。婚姻ということです。
 現在の家族を考えてみればわかりますが、当初の家族で一番何が問題で重要だったかというと、同じ両親から生まれた兄弟と姉妹との間の婚姻、性的行為を禁止したことだったと言えます。禁止する前はそういうことが行われていたかどうか。行われていたかどうかを実証することはできませんが、行われていたかもしれないと証拠立てるいくつかの証拠はあります。
 たとえば日本で一番古い神話、歴史は『古事記』、『日本書紀』ですが、その中で兄妹が性的関係を結んだことで追放される物語も歌もあります。軽皇子(かるのおうじ)は次の天皇に議せられていたのだけれども、同じ母親から生まれた妹と近親相姦を犯したことが問題になって、天皇の位を継ぐことができなくなって追放される物語が『古事記』にあります。
 偶然、一人の人物がそういう好みを持っていて、性癖を持っていてそうなったから神話に出てくるということではないだろう。たまたまその人物がそうだったということではないだろう。何らかの意味合いである象徴性を持つだろうと考えると、そういう物語があること自体、人間の歴史の過去のどこかにそういうことがあったかもしれないと暗示すると考えても、そんなに間違えないだろうと思われます。
 もし兄弟姉妹の間の婚姻を最初に禁じたとすれば、それは非常に重要な要素になります。なぜならば、そこで婚姻ができる親族と婚姻ができない親族ができる。家族はもちろん、同世帯は婚姻できません。単に家族の中で兄弟姉妹が婚姻できないというだけではなくて、いったんそのことを決めてしまうと、婚姻できる親族とできない親族に分かれるひとつの契機になります。

3 婚姻のできる親族とできない親族との分かれ方

 婚姻ができない家族の中の兄弟姉妹に準ずるものとして、たとえば母親の姉妹の子ども、自分にとって母方のいとことは婚姻ができない。本当はいとこですが、呼び方は同じように兄弟姉妹と呼ぼうではないかと考えることができます。それから、父親の兄弟の子どもも兄弟姉妹と同じように婚姻は不可能と決めようではないか。そう考えると、本当はいとこだけれども呼び方は兄弟、あるいは姉妹と呼ぶ。また、母親と父親からすれば甥、姪だけれども、同じように子ども、子と呼ぼうではないかとすると、それでひとつの婚姻不可能な親族をつくるわけです。
 今度、最初にきわどく分けられるのは、母親の女のきょうだいではなく男兄弟の子どもとは婚姻可能としようではないか。それもいとこですが、それは婚姻可能としようではないか。父親の兄弟ではなくて父親の姉妹の子どもがいたとしたら、それとは婚姻が可能としようではないか。そうすると、それはいとこと呼べるわけです。
 同じところでも、兄弟と呼ばれるいとこと、いとこと呼ばれるいとこと、ふたつの組ができます。すでにそのことだけで、婚姻可能な親族の集団と婚姻不可能な親族の集団ができあがっていきます。できあがったものは、単に婚姻の問題だけではなく、経済的な意味合いや付き合いの意味合いでも何となく少し疎遠な集団と兄弟姉妹と言える親族集団のふたつに分かれていきます。
 初めは兄弟姉妹の婚姻を禁止したことから派生する婚姻可能な集団と婚姻できない集団、婚姻可能な集団は親子ないしは兄弟と呼ぼうではないかと。本当の意味での親子、兄弟ではなく、いとこ、甥、叔父という関係だけでも親子、兄弟姉妹と呼ぼうではないかと考えると、初めにできた集団は経済的付き合いやその他の面でも疎遠な集団と、兄弟姉妹、親子の如く親密な集団のふたつに分かれます。
 そうすると、単に婚姻が不可能か可能かだけで決められた、兄弟姉妹の婚姻を禁じようと決めたことから、疎遠な親族集団と疎遠でない親族集団とに分かれていくわけです。これを学問的に言うと、学問的というのは改まってという意味合いではなく世界中、どこでも通用するという意味合いですが、氏族(うじぞく)と言われています。これは氏族集団です。
 そうすると、Aという氏族集団とBという氏族集団とは婚姻が可能ではない。Aという氏族集団とCという氏族集団は婚姻可能である。なぜ婚姻可能かというと少し疎遠だから、遠い親戚と考えられるからだ。どうして婚姻不可能かと言えば近い親族で、親子、兄弟姉妹と呼んでしまうからその間では婚姻ができないとなります。
 婚姻が可能な氏族と婚姻が不可能な氏族は、初めは単に性的タブー、禁止だけだったのが、そのことの中に一種の身分制というのはおかしいですが、いまはやりの言葉で言えば差別です。Aという氏族とBという氏族は、単に血縁的にというよりも名目的に兄弟姉妹の如く親しいから婚姻できない。初めはそれにすぎなかったのが、今度はそれに何となく差別がつきます。婚姻可能な集団と婚姻不可能な集団に、一般的に差別がつくのです。
 たとえば差別がつくことの一番極端な例を挙げると、インドに古代からあるカースト制です。婚姻可能な集団と婚姻不可能な集団に対して、結婚の意味合いだけではなく職業も別の職業にしようではないかとか、さまざまな要因がそこにつきます。アジアにおける氏族制、南太平洋の島々、ポリネシアなどもそうです。トーテムが違ったり、職業が違ったり、初めはAとBの氏族は親しいから婚姻が不可能だという意味合いで別々の親族集団に分かれたのが、そこにさまざまな要因がつくことがあります。この要因がどれだけ残っているか、残っていないかという問題が、アジアにおける、国家以前において重要な問題のひとつです。

4 琉球・沖縄に残る南方的要素

 この問題に南方的な要素はどう現れているかを考えてみると、たとえば兄弟姉妹の親密な関係として神話の中に現れています。日本の神話はそういうふうにして分かれた氏族制の集団をもって、最初の主要な骨組みができあがっています。つまり、氏族制の集団の段階で行われたであろう風俗習慣、共同体の運営の仕方が、日本の神話の中の最初の大きな骨組みになっています。それがどういうふうに出てくるかというと、神話の中では天照大神と弟の須佐之男命の関係として出てきます。
 この場合、天照大神は氏族制の問題で言うとどういう意味合いを持つかというと、氏族の基になる女性という意味合いを持ちます。なぜかというと、ある氏族の女性にほかの氏族から男の子が婿入りしてきますが、その場合、相続は女性から女性へです。ある氏族を考えると、氏族の祖先の幹になるひとつの女性を考えざるをえません。それが、たとえば神話の中では天照大神です。
 これは南方的要素だと思われます。どこが南方的かというと、氏族の幹になる女性が神がかりをしたり、神を祀ることに携わったりしているという神話の構成になっています。これに対して弟である兄弟は、たとえば出雲の国へ行って地上の村落、共同体を治めるとなっています。つまり、女の兄弟が神を祀ったり自分が神がかりになり、男の兄弟は政治を行ったり地上のさまざまな運営を行うという組み方は、南方的な要素だと考えます。
 普遍的に、世界どこでも通用する言い方で言うと、これは氏族集団の問題です。つまり、国家以前にあった氏族集団の組み方の問題ですが、女性が神を司り、弟ないし兄でもいいですが男兄弟が地上のことを司る組み方は、南方的要素と言えると思います。この南方的要素は、中世期までさかのぼれば、制度として琉球・沖縄には存在していました。
 琉球・沖縄では、琉球王国最高の女性の巫女さんのことを聞得大君(きこえおおきみ)と言います。聞得大君というのは国中の神事を司るというか、神様に仕えたり自分が神がかりする巫女さんたちを統括して、最高の位にあります。聞得大君は最高の神女、神に仕える女性で、同時に神がかりをする。神がかりをして、そこで得られた神のお告げを言わば政治の原理として兄弟である国王みたいなものが政治を司るかたちは、琉球・沖縄にずっと近代以前まで残っていました。制度化はされていませんが現在でも村へ行くと巫女さんたちがいて、いまでも相変わらず村人たちが「こうした場合にどうしたらいいか」と相談に行くと思います。そういうものが現在的に残っているのです。
 日本の神話の中では一見するとなくなっているように見えますが、本当はなくなっていないと思います。『古事記』、『日本書紀』など日本の最初の神話の記述は中国の歴史の記述を真似してつくったもので、もっと詳しく言えば中国の全国の民謡みたいなものを集めた最初のものを『詩経』と言います。朝廷がその年につくられた民謡を春、秋の二回、全国から集めさせ、それを精選して編集するのが『詩経』です。
 また、中国の最初の哲学的なというか、思想的な原則みたいなものを書いてあるのが『易経』です。いまでも易者さんが八卦に使うでしょう。『易経』が、中国における原則的な思想の最初のものだと思います。『書経』は国王や君子、帝王の一代の業績はこうであったということを書いてありますが、日本の神話はたぶんその三つを一緒に合わせたものだと思います。

5 天皇家の婿入り婚の儀式は母系制原理を物語っている

 『古事記』、『日本書紀』は最初の民謡、歌謡の本ですし、同時に最初の帝王の歴史の本です。僕らはそうは思いませんが、たとえば本居宣長はそこから哲学を導き出している感じがします。つまり、思想の本である。中国で言えば『詩経』、『書経』、『易経』という書物を全部一緒にして集めようとしたのが、『古事記』や『日本書紀』だと思います。つまり、中国の影響下でつくられたと思います。
 中国思想は儒教思想というか老荘思想ですが、そこでは母系制的ではなく父権的です。父権的な影響を受けていますから『古事記』、『日本書紀』には主に帝王の業績が書いてあるけれども、めくり返してみると本当は皇后のほうが偉かったに違いないと思います。それが神がかりのほうであって、そのご託宣で天皇が政治を行う。古代であればあるほど、そうなっていたと僕は思います。
 なぜそう思えるか。たとえば結婚ですが、現在でも天皇家の結婚はどういうやり方をしているかというと、婿入り婚の形式を踏んでいます。たとえば皇太子が嫁さんをもらう。一見すると嫁さんをもらってくるということでしょうが、そこで行われる結婚の儀式は現在でも婿入り婚の儀式をやっています。
 どういう儀式か。正規な婿入り婚の儀式は、一般の人の場合、初めに男性が女性のところへ忍んで行ったり、村の共同の若者宿みたいなところで自由に交際する。当人同士がちゃんと選び合っているということがあらかじめあると思いますが、平安朝時代は貴族でも天皇でもそうしていたと思います。
 いまはそんなことはしていないかもしれないですが形式としては婿入り婚の形式で、初めは男から女性の側に求婚の意思をほのめかす儀式があります。形式的でもあります。その次には文使いがあって、男から女へ使いが行き、正式に求婚したいという儀式があります。
 その次に、平安朝なら婿行列と言いますが、婿が嫁さんのうちへ行きます。親が後見人になっていますが、そこへ行く儀式があります。行って、そこで結婚すると、結婚のあとには後朝使(きぬぎぬのつかい)、つまり結婚して一夜を明かした翌日にまたお使いが行くという形式があります。三日目には三日餅とか所顕しと言いますが、両親に事柄が露見したという意味合いの形式があります。
 それから婿さんが、嫁さんの家の人間として嫁さんの家から自分の実家、自分の氏族へ初めて外出する儀式があります。皇太子が美智子妃と結婚したとき、記憶のいい人なら「三日餅の儀式があった」とかの新聞記事を覚えていると思います。僕は見てきたわけではないですが、いわゆる婿入り婚の形式をいまでもやっています。そのうちの全部はやっていないでしょうが、主なところはそれをやっています。
 そのことは何かというと、母系制原理に従っていただろうことを物語っていると思います。『古事記』や『日本書紀』の記述の仕方は父系制的になっていますが、本来的には母系制的、つまり皇后ないしはそれに準ずるもののほうが神がかり、あるいは神のお告げをあれするということで一段と重んぜられていた。少なくとも、そのお告げに従って天皇が政治を行う形態を取っていただろうと推測されると言えると思います。その要素は、南方的要素ではないかと思うのです。
 これは断定するのが難しいですが、たとえば人間はどうしてできあがったかという場合に、大水があって男の兄弟と女のきょうだいだけが流されないで残った。その二人が結婚して、それから人間が増えていったという神話が東南アジアなどに分布しています。たぶんそういうものは南方系の、しかも日本列島が国家以前の氏族的な段階にあったときの実際の成り立ちを象徴している神話で、天照大神と須佐之男命のさまざまな関係の神話はそれに当たるだろうと思われます。
 神話の記述ですから本当であるかどうかは言えないのですが、それは国家以前にあって日本列島のいたるところで行われていた。そういう氏族制度、つまり初めは親族の集団です。親族の分かれ方は、初めは結婚できる集団と結婚できない集団を基にして分かれた集団であり、兄弟と姉妹は結婚してはいけないと何となく決めたことが基になっているわけです。
 世界のあらゆる国の人間は、国家以前にはそこから集団の組み方を始めていったのです。その最初の段階の氏族制は、どこの国家のどこの人種でもみんな同じことを踏んでいます。たぶんそこの記述は、氏族の段階でのさまざまな事柄が天照大神神話と須佐之男神話に象徴されている。それは日本の神話のひとつの骨格を成していて、それはたぶん南方的な要素と言えるだろうと思います。

6 歌垣・遊女・釆女――氏族制の痕跡

 婚姻可能な集団と婚姻可能でない集団、あるいは婚姻可能な氏族同士が婚姻する場合、たとえば氏族の一人の女性がほかの氏族の一人の男性と一緒になるわけですが、一緒になる段階でどういう一緒になり方をしただろう。それを物語ったり象徴したりする話は、『古事記』や『日本書紀』の中にあります。たとえばひとつは、歌垣というかたちがそうです。
 歌垣は春、秋の一定の期日をお祭りの日として、その日はこちらの氏族の男女とこちらの氏族の男女が、たとえば筑波山のふもとのお社に集まってお祭りをやる。南の琉球・沖縄だと、浜遊び、モー遊びというものがあります。浜辺へ行ってお酒を飲んだり、食べたり、踊ったり、歌ったりという遊びがありますが、それに類したものだと思います。
 そのときに、最初に女が何とかという歌で問いかけた。それに対して、男がまた歌で答えた。答え方がうまければ、そこで婚姻が成立します。なぜ答え方がうまければ婚姻が成立するのか。いまなら歌い方がうまい、答え方がうまいは文学的素養があるかどうかの問題ではないかとなりますが、大昔は文学的素養など初めからないわけです。そういう概念がないですから、女性が歌いかけたことに対してうまく答えられることは、言ってみれば女性をよく理解できたことをすぐに意味すると考えていいのです。
 つまり、言葉でそれができるということは、直ちに女性を非常によく捕まえることができた、うまく理解することができたことを意味します。いまはそうではありません。文学的修練を積んだ人は本当はそう思っていなくてもうまく答えることができるでしょうが、文学という概念がなかったときには、うまく答えられることはうまく理解していたということです。
 しかも、即座に応じられてうまく答えられていたということは、相手の女性をよく理解していたことを直ちに意味します。ですから、いまならおかしいですが、そこで婚姻が成立してもちっともおかしくないことになります。
 歌垣みたいなかたちは神話の中にもありますし、歌としても問答歌があります。そのことは、婚姻可能な氏族なら氏族の男女がどういうふうにして婚姻まで行っただろうかを物語る名残りというか、そういうものを語っていると思います。
 これはアジア地区に割と共通ですが、たとえば神社があるとその近所には寝所があって、神社に仕える巫女さんは同時に娼婦も兼ねている。江口の遊女は有名ですが、女性が自分の好きな男性と一緒になる権利を獲得するために、神社なら神社に一年間籠る。そういう制度が、アジア地区にはたくさんあります。
 昔は、神に仕える女性は同時に神に貞操を捧げる代償として、たとえば自分の好きな男性と一緒になる代償として、神社なら神社に籠って神に仕える手続きが必要であったことの名残りだと思います。そういうかたちで、氏族の男女が合意に達して婚姻する場合にどういう手続きが必要だったか、手続きの名残りが神話の片鱗にあるだろうかというひとつの例は、たとえば歌垣の中にあります。
 それが中央集権的になってくると、天皇の宮廷に各地の豪族の親戚や娘を女官として招集する。釆女と言って、宮廷における神事を司る女性であると同時に、天皇の性的な相手でもあったと思います。そういう釆女制というものがあるわけです。
 釆女制は明らかに制度としてありますが、もちろん一般の村落の中でもそれと同じようなことはあります。いま言ったように神社に籠って、あるいは神官に貞操権を提供すれば好きな男と一緒になることができるというかたちで、村落の中にもそういうものはあったと思います。そういうかたちも、氏族制度があったときの名残りと考えられると思います。
 氏族制時代のさまざまな痕跡が、神話の中に残っている。それは決して記述された歴史には登場してきません。記述された歴史には登場してこないけれども、人間が地域に住んで集団をつくっているところでは人種の如何にかかわらずそのことが共通に存在することなどから、そういう制度があっただろうと推測します。その推測は、ある程度は妥当だろう、正しいだろう、普遍的な意味があるだろうと言えます。

7 近世まで貫徹していた母系制原理

 婚姻ということからいくと、現在は一夫一婦制です。一夫一婦制で、母系制はあまり残っていないと思います。琉球や沖縄では多少残っているところがあるのではないかと思いますが、いまではそういう名残りはないだろう。語り草としてはあるでしょうが、本当には残っていないだろうと思われます。一夫一婦制で母系制の影を吹っ切った段階と、氏族制の婚姻の仕方、つまり婿入り婚がどこでどういうふうに移り変わっていったのだろうか。移り変わりを知る目安はどこで考えたらいいか、ということがひとつあります。
 これは本気で聴いてもらわなくていい、冗談で聴いてくれればいいのですが、徳川時代は儒教原理で制度ができあがっていて、男性が勝手に三行半を書くと女性は有無を言わせず里に帰らなければならないと皆さんは思われているかもしれない。それはそうでもないのです。
 例外があります。何かというと、女性が嫁入りのときに持って来た持ちもの、たんすや家具を、男性が女房の同意を得ないで勝手に処分した。たとえば売り払って飲んでしまったといったことをすると、離婚の権利はありません。いくら三行半を書いてもだめです。
 三行半を書いても、女房が町役や奉行所へ行って、「うちの亭主は嫁入りのときに持ってきた長持ちにあったちり紙を黙って使ってしまった。だから、三行半を書いても無効にしてくれ」と女性が訴えたとします。そうすると男性が呼び出されて、「お前は女房が嫁入りのときに持ってきた持ちものを無断で売り払って、使ってしまっただろう」。
 たとえば「そんなことはない」と言っても、「そんなことはないというけれども、お前の女房は自分が嫁入りのときに持ってきた手ぬぐいを使ってしまったと言っているぞ。ちり紙を使ってしまったと言っているぞ」というと、たいていの人はそのくらいのものは使っています。そうすると、実質上は無効です。
 極端な場合には無効であるばかりではなく、逆に「お前は百叩きだ」と百叩きになってしまう。実際の運営をよくよく見ると、封建制だから男性有利と思われているかもしれませんが決してそんなことはない。日本古来からの綿々たる母系制原理は、近世までちゃんと貫徹しているのです。正面の歴史というものをひとつだけめくり返さなければならない。それはよくわからないのです。
 歴史の記述は、よくよく注意しなければいけないと思います。いい加減なというか通り一遍な歴史学者は「近世は封建制だから男性が横暴で」と言うけれどもそうではない。徳川時代くらいまでは絶対に母系制原理があって、女性はあるところまで非常に尊重されていることがわかります。表面から見ると三行半を勝手に書いて、勝手に「離婚だ」と言って女房は泣く泣く里へ帰ったみたいな話ばかりあるけれども、浄瑠璃などをよく見ると、女房の持ちものを使ったために訴えられて百叩きになったとかいうものもあります。物事はそう簡単ではない。
 母系制の痕跡が根底から吹っ切れてしまったのは、明治以降だと思います。ある意味、女性の地位は近代になったほうが低下していると思います。低下の意味を誤解なくとらえるならば、ある意味では低下していることがわかります。実質上は解放されたようで、本当はそうではない面がいくつかあるはずです。女性の方は、思い当たるところが必ずあると思います。
 近世ではそうではありません。男性が横暴で苦しめられているように思われているとそうではなくて、一皮めくってみると男性のほうがとてもかなわんよ、という具合になっていると見受けることもできます。よくめくってみると、そういう保留事項は至るところにあります。
 たとえば、中国やインドは母系制原理ではありません。男尊女卑の制度で中央の文化的な部分はそれを受け入れていますから、母系制原理はどんどんなくなっていったわけです。しかし、それは相当根強く、根のほうにありますから、そんなに簡単に、百年や二百年ではなくならない。根底にはずっと流れている、ある意味では近世までずっと流れてきています。
 いまでも皆さんは、自分の奥さんとの関係や奥さんの親類との関係の中で、「やはり強いな」と思われている人もいるはずです。必ずあるはずです。だから、そんなに簡単ではないことがわかります。

8 氏族制的な婚姻から一夫一婦制まで――婚姻の移行の仕方

 ひとつの目安の問題ですが、氏族制的な婚姻のかたち、婿入り婚、あるいはもっと言うと共同婚からいまの一夫一婦制の婚姻形態へ移り行くかたちはどこで目安をつけたらいいのかということがいくつかあります。そのひとつは、家族制だと思います。
 世界中、どこでもそうですが、一夫一婦制へ移行する中間で必ず大家族制を取ります。これはいろいろな呼び方があります。大家族制、大家族の世帯共同体、あるいは家父長的制度という呼び方もあります。一軒の中に主人がいて奥さんがいると考えると、そこに親族も同居している。もちろん子どもも同居している、祖父の世代も同居している。
 それだけではなくて、それに対して雇い人も夫婦や子どもで一緒に同居している。そのほかに、ヨーロッパ流に言うと奴隷ですが、奴婢というか女性の下雇いと男性の下雇いも同居している。こういう家族を大家族制と言います。大家族制は、移行のひとつの形態を語る目安です。
 幸いなことに、たとえば八世紀くらいのかなり有力な人の戸籍が文書としていくつか残って見つけ出されたりしていますが、そのいくつかを見るとそういう構成が取られています。だれでも当然、そういうことを考えるでしょうが、たとえば使い走りの男女はどうするのか。たぶんその人たちの婚姻の仕方としては、共同の寄合所に行って婚姻の相手を見つける。あるいは、そういう婚姻の形態を取って、またそれぞれの世帯主のところへ分かれる。そういうかたちを取る以外になかっただろうと思います。
 そういう人たちが同じ時代に、同じ大家族の中に含まれている、生活しているけれども、使い走りの人たちが婚姻する形態はかなり古い氏族制時代の、それも非常に初めの時代の、共同の宿みたいなところで男女の婚姻をするかたちを取らざるをえない。また、雇い人の夫婦は、たとえばほかの世帯の女の人のところに男が忍んで行く。行き来していて世帯主の人たちにそれがわかったときに承認を得て婚姻をして、同じところにいるというかたちを取らざるをえないだろう。
 一例を言うと天平十二年の戸籍があります。たとえば天平十二年という同じ時代の、同じ大家族の中にいる世帯主の親族と、雇い人の夫婦と使い走りの男女は、同じ時代の同じ家族の中にいても、婚姻制度の時代的段階としては、それぞれ違う時代の婚姻の仕方を象徴していると言えます。
 そういう大世帯の戸籍のあり方をよく見てみると、婚姻の移行の仕方がひとつわかります。大世帯という家族制のあり方があったことを語るだけではなく、世帯主の肉親たちの婚姻の仕方と、雇い人夫婦、子どもの婚姻の仕方と、使い走りの人たちの婚姻の形態と、それぞれがある時代を象徴しているだろうと推測できます。そういう事柄から、婚姻の時代による移り変わり、婚姻のやり方の移り変わりを推測したり、ある場合にはそれを再現して見せたりできるわけです。
 同時に、同じひとつの家族の中にある婚姻の形態の違いは、単に時代の違いを象徴するだけではなく地域性も象徴しています。当時の中央、つまり奈良県や滋賀県から遠くなるにつれて、当時で言えば辺境である東北地方、関東地方では氏族制の古い段階の婚姻のやり方がまだ残っている。つまり、同じ世帯の中にある婚姻の仕方の違いは、単に歴史の時代の移り変わりを象徴しているだけではなく、地域が中央からどれだけ隔たっているかという隔たりをも同時に……
【テープ反転】
……ということに移し替えることができることは、歴史を見ていく場合に非常に大きく重要なことです。

9 〈アジア的〉ということ

 たとえば、偉い歴史学者を考えてみます。ヘーゲルならヘーゲルでもいいですしマルクスでもいいですが、そういう人たちはそのことをよく知っています。ヘーゲルやマルクスがたとえば「アジア的」、「アジア」という場合には、いつでもふたつのことを意味しています。
 何かというと、ひとつは地域としてのアジアです。アジアの地域で行われていたさまざまな制度や風俗習慣、宗教、考え方、思想を総称して「アジア的」と考えます。また、それをいくつかに分けます。
 たとえばアジア的の中にもインド的、中国的、ペルシャ的、それに対してエジプト的というものもある。だいたいこの四つなら四つの類型を考えれば、アジア的というもののさまざまな型は一応象徴できるという考え方を取ります。
 もうひとつ、そういう人たちがアジア的という場合には、地域としてのアジアだけではありません。そのときは時間として、時代としてのアジアを同時に意味しています。時代としてのアジアとはどういうものかというと、人類全部の歴史、世界中全部の歴史の中で古代以前にあった考え方、制度、宗教、風俗習慣をアジア的と呼びます。
 アジア的ということは、決して東洋人的、東洋的を意味していません。もちろん地域的にそれも意味しますが、同時に世界中どこでも、古代以前の時代にあった制度、考え方、あり方をアジア的と言います。アジア的という意味を地域的アジアとか、ヨーロッパに対してのアジアとお考えになったら、それは違います。そのことをうんと言いたいのです。
 アジア的と言った場合、ヨーロッパに対してアジアというのではないのです。西洋に対してアジアというのではないのです。それは表面的な、空間的な、地域的な分け方にすぎません。アジア的という概念の本当の意味合いは、そうではありません。
 もちろん地域的アジア的なのですが、同時にそれは時間としてのアジア、時代としてのアジアを意味します。世界中どこでもアジア的であった時代があるのです。現在もよりたくさん残っている考え方の類型は、古代以前にはヨーロッパにもどこにもあったことを意味します。つまり、時代としてのアジア、時間としてのアジアは人類に普遍的なのです。日本人とか東洋人に特有のものではないのです。そういうふうにだけ意味づけたら間違います。すべての思想、制度、風俗習慣は一度は世界の舞台の中に投げ出して、どういう特色があるかと持ってこなければだめだということです。
 だから言いますが、たとえば婚姻可能な集団、婚姻不可能な親族集団というところから始まった人類の氏族制という考え方は、世界に普遍的にあります。もちろん日本にもあります。この考え方の骨格がどれだけ残っているか。仮に国家ができ、近代になり、現代になっても、風俗習慣、物の考え方、宗教的な考え方の中にこの骨格がどれだけ残っているかどうかは、きわめて現代的な問題であると同時にアジア的な問題です。
 これがいい悪いではありません。いいか悪いかという前に、統一の国家ができあがる以前にあった婚姻可能な親族集団、婚姻不可能な親族集団に何となく身分的なものがついてしまう。婚姻不可能な親族集団とは顔を合わせてもそっぽを向くことにしようじゃないかとか、余計なくだらないことまでくっついてくる。国家ができ、古代が終わり、中世が来、近世が来、近代になってもどれだけその骨格を残しているか、残していないか。その問題は、非常に現代的な問題です。
 たとえばヨーロッパにもアジア的はあります。アジア的な考え方、風俗習慣は、現代のヨーロッパの中にもあります。もちろん村落としてもありますし、村落の風俗習慣、制度の中にも、ヨーロッパ人の中にもあります。
 つまり、人間が原始時代以来、考えてきた考え方の痕跡は、近代の中にも現代の中にも全部残っているわけです。どれだけ多くその骨格を現代に残しているか、残していないか。アジア的という古代以前に世界中どこにでもあった考え方、制度の骨格がどれだけたくさん残っているかという問題は、現在の問題です。
 それがアジア的ということの意味合いだし、氏族制という国家以前の制度を考えることがなぜ大切か。それは掘り起こすことはなかなか難しいのですが、難しくてもそれをたどることがなぜ大事か。国家以前にあった制度、集団の組み方、そこでの風俗習慣、考え方、タブーが、現在において残存しているところと残存していないところがどれだけあるか。その問題は現在の問題だからです。
 国家以前の制度は、神話の中をよくよく探ってみたり、民族や風俗習慣の中をよくよく調べてみなければわからない。見つけることはできないし、正しく見つけることは大変難しいのですが、それを見つけることの意味がどうして重要かというと、そういう問題はつとめて現代的な問題だからです。広く言えば日本的な問題だし、もっと言えばアジア的な問題だからです。

10 国家のはじまり

 だんだん終わりに追い込んでいきますが、氏族制がなくなるにはたくさんの要因があります。たとえば共同作業をしなければならない場面がたくさん増えてくる。つまり、ちょっとした親族集団が別々にいがみ合っていたら生活が成り立っていかない。さまざまな産業、農業などが発達して、どうしても協力が必要だという経済的な理由もあります。宗教的なタブーでくっついたり離れたりしていたけれども、そんなことをしていたら間に合わないという必要性が要因になったり、さまざまな要因があります。
 もうひとつの要因は、経済的な仕組みがだんだん複雑になって、富んでくるものと貧乏になってくるものとの開きがどんどん出てくるなど、さまざまな要因があります。そういう要因の中で、たとえば富んだ金持ちの家が小さな王国の世襲の王様になって自分の子どもに跡を継がせる。また、その周辺にいたものが世襲の貴族になっていく。世襲の王制、世襲の貴族制がそのあとにやってきます。そのあとにやってきたものを、初めて国家と呼びます。
 国家と呼んだときに、親族や血族の集団で集団を分けていた、血族集団の連合で共同体を組んで、その上に乗ったものを第三の勢力とか第三の権力と言います。初めは氏族同士の間を取り持つ役割で、各氏族から代表者が集まって協議していた。「あれはこうやって運営していこうではないか」、「あそこの農業はこういうふうにやろうではないか」みたいに寄り合って話し合って運営していた。氏族の運営機関みたいなもの自体が独立の機能を持ってきます。
 氏族の相談役が集まってひとつの機関をつくって運営していたものが、運営体自体が氏族から離れてしまう。氏族から半分独立で浮き上がってひとつの執行機関になり、今度はこの執行機関の言うことを聞かなければお前の氏族はだめにするぞ、となる。初めは氏族同士の話し合いの運営機関だったもの自体が独立の生きものみたいになっていったものを、一般的、学問的には第三の勢力といいます。第三の権力ができあがったときに、これを国家の始まりといいます。
 国家の始まりは、血族集団や親族集団、つまり血のつながりの問題を飛び離れたところにひとつの運営機関ができあがって独立してしまう。そういうものを初めて国家と呼ぶわけです。別の呼び方をすれば第三の勢力、第三の権力という呼び方をしますが、第三の権力ができあがったとき初めて「国家」という名前をつけます。国家はいろいろな意味合いで使いますが、本当の使い方はそうなったときにできあがったものを国家というのです。
 初めはそれぞれの基盤である各氏族の利益を運営する機関だったものが、もはや自分の基盤である氏族からも離れてしまう。むしろ氏族と対立してひとつの独立の機関になったとき、これを初めて国家と呼ぶわけです。大和朝廷は初めての国家ですが、そういうふうにしてできあがりました。

11 〈アジア的〉国家の特徴

 ところで世界中を見回すと、国家のできあがり方にもいくつかのタイプがあります。タイプをいくつか言うと、たとえば強い氏族があると、その氏族の中で富めるものと富めないものの対立、利害の相反する対立やけんかが起きて武力のあるものがのし上がってその氏族を統括するようになる。それはもはや氏族全部の利益を代表するものとはならず、むしろ抑圧してみたり、隣の氏族を武力で平定して合併してみたりする。そういうかたちで、国家ができるひとつのタイプがあります。そういうものは、一般的にアテナイ型と言います。アテナイで国家が発生したときに、そういうタイプを取りました。
 違うものもあって、非常に世襲的な貴族たちの共同体があると、その周りに義務だけあって権利はないような平民がいます。世襲的な貴族集団や共同体が閉鎖的になってきて周りの平民集団と利害が相対立するようになり、ごてごてに争いが起きる。その挙げ句に、両方を融合したかたちで、両方の側から力のあるもの、代表者が集まって国家をつくるというひとつのタイプがあります。それはたとえばローマ型といいます。
 もうひとつは、ひとつの氏族集団やたくさんの氏族集団の連合があるとします。たとえば違う人種の集団が横合いからやってきて元からあった氏族集団みたいなものを征服してしまい、自分がその上に立つという国家のつくり方もあります。こういう国家のつくり方のタイプをいくつか考えていくと、国家はどのタイプでできあがっていっただろうかと考えるひとつの目安になります。
 その場合、一般的に言ってアジア的な国家はどういうところに特徴があって、どういうものかを考えてみると、ひとつの特徴があります。その特徴は何か。ここに氏族の集団がいくつもあり、いずれにせよそこに国家ができます。どういうでき方をするかはいまは除けておいて、国家はその上に乗ってできる。王朝の共同体であってもいいし、貴族の共同体であってもいいけれども、元からの氏族の共同体がたくさんあり、その上にひとつの共同体ができあがる。
 それが国家を成すわけですが、その場合にアジア的国家のでき方の特徴はどういうところにあるかというと、元からある共同体の風俗習慣、宗教、共同体の運営の仕方をできるだけ変えないということです。変えないで、その上に自分たちの共同体を乗せる。これが、アジア的な国家のつくり方に共通してある特徴です。
 いま申し上げたヨーロッパ的なさまざまなタイプの共同体では、その上に乗った国家をつくる共同体みたいなものができあがると、その共同体ないしは政治的権力は必ず自分のやり方、自分の制度を末端まで貫徹させようとします。貫徹しないものは必ず滅ぼします。それが、ヨーロッパ的ないくつかの類型における国家のつくり方の典型です。
 風俗習慣が元からあろうがなかろうが、自分たちの共同体の風俗習慣、制度と違うものは許さない。末端までその制度を貫徹しなければやまないのがヨーロッパ型です。ヨーロッパ型にもいくつかありますが、そういうやり方です。
 ところがアジア型の共同体の組み方はそうではありません。反抗しない限り、上に乗る共同体は必ず元からある共同体の風俗習慣、宗教をできるだけ触らず元のままにしておいて、その頭とわたりをつけます。どういうわたりのつけ方か、武力でわたりをつける場合もありますがわたりをつけて、その人を通じて支配するやり方を取るのがアジア的な特徴です。もちろん日本もアジアですから、その特徴は貫徹されています。たぶん、皆さんは実感でわかるのではないかという気がして仕方がありません。わかると思います。
 たとえばどういうことに現れるか。僕らもそうですが、いまでもいいですが、たとえば中央の政府が悪いことをしたとか、さまざまな政治的な事件が起こったりすることがあっても、それは遠いところで行われている。俺たちには全然関係ないと思えるわけです。それは空間的に言うとものすごくおかしいのです。
 というのは、日本は狭いですから東京までちょっとで行ける。ちっとも遠いところで行われているのではないのです。中央での政治や政治的なさまざまな事件、収賄事件がどうしたこうしたとやっているでしょう。何だかんだと騒いでいるでしょう。あれは全然、俺たちと関係ないという感じ方が僕らにあるでしょう。それはなぜかというと、中央が空間的に遠いからではありません。日本が大国で、「上海にいたら北京でやっていることなど全然わからない」ということはないのです。何時間かあれば東京へ行けます。そこで政治家が悪いことをしていた、何対何で何を勝手に決めてしまったということが日々あるわけです。それがまるで遠いところで行われているように思えるのはなぜかというと、空間的な遠さではないことはすぐにわかります。
 何が遠く思われるかというと、いま言ったようにアジア型の共同体の組み方の特徴です。元にある共同体のできあがり方にできるだけ手をつけないように、支配する共同体をできるだけ温存するようにして、その上に共同体を組むからです。
 奉納制度と言いますが、何か物質的に召し上げるときは、それぞれの地域の長を通じて物質的にものを納めさせ、それを中央に持ってきて納めるやり方をします。直接に触らないのが、アジア的な共同体の組み方の特徴です。ですから、底辺にいれば上のほうでやっていることは全然、関係ない。中国の言葉で言えば、「帝力、われにおいて何かあらんや」というわけです。言ってみれば、老子や荘子の脱制度的な思想がアジアにあります。脱政治的な思想がなぜアジア思想の主要な位置を占めるか。仏教もそうです。仏教も脱制度的思想です。制度に対する関心がないのが仏教の特徴です。アジア的思想の特徴は、制度に対する考察がないことです。自然に対する考察はありますが、制度に対する考察はきわめて少ない。
 仏教も老荘思想もそうですが、それはなぜかというと、上のほうで制度的に行われていることは非常に遠く見えるのです。なぜ遠く見えるかと言ったら、決して空間的に、地域が遠いからではありません。そうではなくて、制度が元のままに温存されていることだと思います。温存された制度の共同体の上にまた次の共同体ができ、その上にまた共同体が乗る。乗った共同体はできる限りその制度の末端まで貫徹しようとしないで、治まるところはそのままにしておく。それがアジア的と言われる制度の特徴です。

12 〈アジア的〉における自然と自由

 もうひとつ、だれでも実感を持ってわかるだろうと思えることは、自然ということです。自然に対する感じ方があるでしょう。われわれは花鳥風月とか、自然に対して感銘する。たとえば生け花に感動する、慰安を覚える、安心感を覚えることがあるでしょう。枝をこうして、色をこう配置してあることに美を感じることがあるでしょう。そういうことに凝ることもあるでしょう。
 枝が曲がっているのがいいのか、まっすぐがいいのかは、たとえばヨーロッパ人ならそんなには気にしないだろうと思います。枝振りはどうだということについて、非常に繊細な感性を持っている。この感性は、アジア的というものの特徴だと思います。インドでも中国でも、それぞれのやり方で自然に対する感性の取り方に違いはありますが、共通していることは自然感性に対する規定が何らかの重要なかたちで残っていることです。そこでは唯一のものはない。自由の概念が違うということです。
 ヨーロッパにおける自由の概念はどこから出てきたか。無限から有限まで、高級なことから低級なことまで、神から地獄まで、いかに外界の自然から独立して人間の内面、観念が自由に考えられるかどうか。それがヨーロッパにおける自由の目安です。ヨーロッパの自由の概念の目安はそこにあります。
 ところが、アジア的思想における自由はそうではありません。たとえばいかにして天地と一体になるか。座禅を組んでいかにして天地無機物と一体になるか、天地自然と一体になるかが、その人が自由な人間、解脱した人間になることのひとつの目安です。それは結局、内面性の問題ではなくて、いかに自然と軌一するか、あるいは自然と合一する感性を得るかがひとつの修練であり、自由のアジア的概念は極端に言うとそういうところにあります。そこがヨーロッパと違うところです。
 それから、制度に対する考察は仏教にもインド思想にも中国思想にもありません。極端な言い方をすると、ヘーゲルは「自由なのは一人だけであって、あとのやつは自由を知らない。それがアジアの特徴だ」と意地の悪い言い方をしていますが、ある意味で当たっています。外界を全部閉ざされても、なおかつ人間の観念の自由がいかに保障されるかが、自由のヨーロッパ的概念の基です。
 それに対して、アジアにおける自由の概念の基は、歴然とそこに何があって、天地自然、山川草木といかにして一体感を持ちうるか。一体感を持つためにいかにして身体的な修練をするか、あるいはその他の修練をするかが、アジアにおける最初の自由の概念の始まりです。つまり、そういう質の違いがあります。
 これは僕にもあり皆さんにもあるもので、近代ヨーロッパの思想を受け入れて以降も、多い人も少ない人もいますが、依然としてどこかにその骨格を残している。自由の概念、自然の概念がどこかに残っていると言えます。これも非常にアジア的な特徴だと言えると思います。

13 日本の国家のはじまりを考えるには

 それだけのことが言えると、今度は具体的に日本の国家の始まりはどういうふうにできたのだろうかということです。これにはさまざまな説があってどれがどう正しいとお互いに主張しているのでしょうが、いずれも軍配を上げるに至らないのが現状だと思います。これに対して具体的にこうではないかと言っても言わないでも、たいして意味はないように思います。
 言えることは、日本もアジア的ですから、アジア的な共同体の組み方で最初の国家が大和盆地なら大和盆地にできただろう。その盆地に出てきた支配共同体、大和朝廷は、大陸なら大陸から征服者としてやってきた集団だという学者もいます。そうではない。そうではなくて、土着の集団だと。土着の集団というのは、神話の記述では神武東征で熊野から上陸して、土地の氏族制の首長とチャンバラして征服しながら大和盆地へ行ったのだ、みたいになっています。しかし、熊野から上陸してそういうふうに行ったと出てくる経路をよくよく調べてみると、みんな縄文時代からの遺構があるところです。
 縄文時代の遺物が出てくる場所であることから、やはり縄文時代からここにはちゃんと人がいて、その中でつくっていた共同体のうち勢いのいいものが周りの共同体を合併しながら、大和の葛城なら葛城、三輪なら三輪に、後に最初の王朝とつくったのだろうという説の人もいます。また、その中間にさまざまな説があります。どの説がいいか、軍配を上げる材料はいまのところありません。
 しかし、それらの説がいずれも考慮しなければならないこと、あるいは考慮していないことは何か。いま申し上げた氏族の成り立ち方、集団の組み方、国家のつくり方は、世界中どこでも共通に、さまざまなはみ出す部分はありますが、いくつかのタイプに分けられるということです。
 もうひとつ、アジア的という、共同体の組み方のひとつの特徴がある。共同体の首長の宗教的な、あるいは血族的な儀礼や宗教の中には南方的な要素が多いということです。南方的な要素が多いから南方的かとは直ちに言えません。なぜならば、上に立つ共同体が元の共同体の上に立つ場合、元の共同体をできるだけそのままにしておくために、元の共同体の宗教、儀礼、習慣をそのまま自分たちも採用することがありうるからです。つまり、儀礼、習俗、宗教は交換できるということです。だから南方系だとは言えないのですが、儀礼的には南方系の要素だと言えると思います。
 たとえばいま申し上げたアジア的な特徴をはらみながら、そこに王朝をつくっただろう、そこで国家を発生せしめただろう。元からある共同体については、反乱を起こせば容赦なく戦争で征服するみたいなことをしたでしょうが、そうでない限りは割合そのままにしておいただろう。たとえば東北地方、九州地方の遠くまで、大和朝廷直接の支配は割合にあとまで及ばなかったのではないか。形式的には及んだとしても、実質的にはあまり手を加えない。反乱が起こると討伐に行く、みたいなことをしていたのではないかという感じがします。
 もうひとつのアジア的特徴は、インドでも中国でもそうですが、大陸で農耕の大規模な灌漑工事をするために強力な専制君主集団がたくさん財力を集積し、水利工事を一手に引き受けて、みたいなことをやっていくことがアジア的専制のひとつの要因と言われています。それは日本では普遍的ではないし、大規模な水利、灌漑はそれほど必要ではありません。そういう意味合いのアジア的、大陸的要素は少ないだろうとか、さまざまな要因があります。アジア的と言っても海に口をつけていることと、山間部と平野部が隣接している。農耕民が漁民になったり、漁民が農耕民になったり山民になったりということが割合と自在にやれただろう。特徴はありますが、大きく考えてアジア的な特徴で共同体はつくられていただろう。
 その場合に、自分たちの制度を厳密に押し付けた範囲は、ある限定された領域だったろう。それに対して、あまり厳密でなく制度を及ぼした地域がその外郭にある。そのもっと外枠、大和朝廷から遠ざかるにつれて、実質上の制度や勢力をあまり及ぼしていない領域があっただろうと推定できると思います。そういう要因の中で、日本の最初の国家は成立しただろうと思います。

14 起源を考えることと現在の問題

 最初の国家が成立して以降の問題は、歴史の問題になります。歴史の問題ということは、記述したり言葉で語り継がれたりが可能だった時代以降を意味します。しかし、人間が日本列島に住んでからは、それとは比べものにならない長い時間を経ています。人が住んでいたのです。その間、国家が成立する以前に、たくさんのさまざまな、いわば制度的な移り変わりや集団組み替えの移り変わりをしてきたことも確かだと思います。
 そのことは、何もおもしろいからするのではありません。いま言ったとおり、その骨格が現在でもどれだけ残っているか、残っていないかという問題は、依然として現在の問題です。それを確かめること、国家発生以前の人間の集団の組み方や親族集団の組み方を考えていく必要、推理して再現して見せる必要は、そういうところにあります。
 それは決して過ぎ去った歴史以前の問題でもなければ、もう考える必要のない問題でもない。現在も、依然として考えなければならない問題を含んでいます。しかし、それは国家以前の問題です。社会制度の問題ですが、すぐに国家政治の問題ではありません。直接、国家政治の問題にすることができなくて、さまざまな経路を通らなければ国家制度の問題に移り行かない。そのこともよく認識しなければいけない問題で、間違えることのできない問題だと思います。
 この問題は依然として歴史的にも解明されていませんし、民族学的にも、政治史的にも解明されているわけでもない。この課題は、依然として非常に重要な要素をはらんでいると言えると思います。物事は、起源のところで捕まえると非常に捕まえやすい。さまざまな問題が集中してそこに現れているから捕まえやすいのですが、起源のひとつには、どうしてもどこまでもさかのぼっていきます。僕自身も、そういうことについてものすごく関心を持ちます。
 起源を考えることは遡行していくという問題と同時に、起源はいずれにしろ時間の遠い向こうにあるわけだから、それが現在にどういう意味があるかを絶えず還元していかないと捕まえにくいという問題がひとつあると思います。
 もちろん現在の問題でありながら、実は現在の問題というよりも遠い以前の問題であるという問題も、依然として現在の問題の肉づきをもって現れたりします。また、現在の問題でも本当はかなり遠い未来の問題である。言ってみれば、人間が歴史の遠い未来をかけて解決しなければとても解決できない問題だという問題が、現在の問題の中に混じり込んで出てくることもありえます。
 そのいずれの場合でも現在の問題として見ることが重要ですが、同時に現在の問題の中に遠い過去の歴史の骨格が甦って現在の問題になっているという問題を見分けていく。現在の問題ですが早急に解決できないので、人間が相当な世代をかけてしか解決できない問題が現在の問題の中に紛れ込んでいるかもしれない。それもまた選り分けてよく考えていかなければならない、さまざまな課題があるように思います。その課題のひとつに、たぶん国家以前の制度や風俗習慣の組み方がどうなっていたかを追求する意味合いも含まれているだろうと思います。

15 〈アジア的〉の意味を世界史的視野のなかに打ち返す

 一般的に言って、歴史学も古代史学、考古学、民俗学、人類学と言われているような国家以前の問題にどうしても首を突っ込まざるをえない、さまざまな学問や研究の体制があります。それらの体制が一様に持っている欠陥がもしあるとすれば、いま言ったように自分が何をやっているのか。たとえば民俗学なら民俗学が、自分が何をやっているかを知らないということです。自分がやっていることは確かです。やっていることの方法は、たとえばヨーロッパの近代の方法を持ってきて、それを使ってやっているかもしれない。しかし、自分が何をしているのか、自分は何をしようとしているのか、何をしているのか。目的、モチーフは何なのかを自分ではよく知らないことが欠陥だと思います。
 なぜよく知らないかというと、自分がやっていることのモチーフ、動機、やっている事柄の内容、意味を、世界把握の中に一度投げ出してみないということだと思います。民俗学なら民俗学は、ある地域なら地域のことをよく調べて記述し、整理すればそれでいいのかもしれません。しかし、そのことは、一度は世界史的視野の中に打ち返してみることが必要だと僕は思います。そうしないと、自分が何をしているかを自分で知らない学問ということがありうると思います。
 日本人もそうですが、一般的にアジア人が世界史の中で侮られてきた要因は何かというと、アジア的思想は自分自身を知らなかったということだと思います。自分は何をしているかを知らなかったことが、最大の要因だと思います。幸いなことに、明治以降の近代で日本はヨーロッパの近代的な方法あるいは同時代的な方法を受け入れて咀嚼してきましたから、おおよそのところヨーロッパの方法はこうなっていると。それに対して、自分たちが感覚的に、方法的に、考え方としてちぐはぐに思えるところはどこだろうかということも、だいたいわかるようになってきていると思います。
 ここで起こりやすいことは、ヨーロッパ的思想は非常に行き詰まりを生じていると言えるかもしれない。それに対して、アジア的思想や制度は再認識しなければならないかもしれない、みたいなことがあるでしょう。日本国家だけで言えば、「日本の民族性みたいなものを再評価しなければならない」みたいな考え方も出てくると思います。しかし、その考え方はやはり打ち返さなければいけないと思われます。
 そういう考え方ではなく、アジア的という場合には完全に普遍概念だということも、ひとつ、考慮に入れる必要がある。つまり、言わば古代以前の考え方、制度、思想の世界的な視野での考え方の骨格がどれだけ多く残存しているかがアジア的という意味合いなのだから、それが利点であれ欠点であれ、ひとつそういう意味合いがあることも一緒に考える。一緒に考えるということは、世界を考えることだと思います。そういうふうに世界的視野の中に打ち返してみることが、非常に重要なのではないかと思います。僕は、特にそういうことを感じます。
 この問題を言うことができれば、さしあたって僕が中上さんにくっついてやってきた意味合いは、まずよしとしなければならないような気がします。機会があればもっといろいろなことを考えた結果を持って皆さんのところにやってこられるでしょうが、今日、中上さんにくっついてやってきた意味合いを強いて求めれば、僕がそのようなことを言うことができたことに尽きると言ってもいいくらいです。
 どうなっているかわからない、われながら何をしゃべったかよくわからないところがありますが、それでよしとしなければならないのではないかと思います。一応、これで終わります。(拍手)