『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

人生を変えた4ヶ月


「とても不思議な体験でした。
 ニューヨークでテロリストの
 攻撃を経験した私が、
 ロンドンで起きたテロの現場に
 居合わせたのですから」

ルドルフ・ジュリアーニ氏は、
いまでも信じられないといった表情を浮かべた。
ジュリアーニ氏は、
9・11同時多発テロの際のニューヨーク市長、
その彼が今年7月にロンドンで、テロに再び遭遇した。

「7月7日に、テロの現場にいました。
 爆発があったとき、リバプール駅から
 半ブロック離れたところにいました。
 それから丸1日ロンドンの対応を
 見ることになりました」
最初の爆発は朝8時51分、
リバプール駅から90メートルの地点。
ジュリアーニ氏は、まさに間近で目撃したのだ。

「いつか見た光景だったのでは
 ありませんか?」
「そのとおりです。
 ニューヨークのテロと
 似通ったところもありましたし、
 まったく異なる点もありました。
 テロの種類は違いましたが、
 どちらも警告なしに、
 予測もできない時に起き、
 最初は何があったのか人々は
 はっきりとわかりませんでした。
 事故なのか、それとも爆発なのか。
 しかもいくつもの場所で起きました。
 一日中続くのか、
 あとどれだけ起きるのかも
 わかりませんでした。
 もうみな当時のことは
 忘れているかもしれませんが、
 9・11の時も、
 どれだけテロが続くのか
 予測できませんでしたし、
 その日のうちにさらなるテロ攻撃があると、
 みな考えていました。
 同じことがロンドンでも起きたのです」

ジュリアーニ氏にインタビューしたのは、
アメリカ・ミズーリ州の小さな田舎町。
彼は企業向けの講演を終えた後、
ホテルの一室でインタビューに応じた。
ボディーガードに先導されて
部屋に入ってきたジュリアーニ氏は、
あいさつするなり私の手を握り、
まずはツーショットの記念写真と
言わんばかりにポーズをとった。
外交の場で首脳が握手したまま
カメラのほうを向く、あの仕草だ。
すでにアメリカでもっとも
有名な人物のひとりとなった彼は、
どこに行っても記念写真を求められるのだろう。
瞬間的につくられる笑顔もそれを物語っていた。

ジュリアーニ氏を有名にしたのは、
誰もが映像を記憶から
拭い去ることができないであろう、あのテロだ。
2001年9月11日、
美しい真っ青な空が広がり、
世界で最もあわただしい街の
普通の一日が始まっていた。
市長であるジュリアーニ氏は、
ニューヨーク5番街に面した
ペニンシュラホテルで、
打ち合わせを兼ねた朝食をとっていた。
ホテルの玄関を出たところで、
側近の電話が鳴り、
ワールドトレードセンターに
飛行機がぶつかったという一報を受ける。
「こんないい天気の日に、
 飛行機が事故で
 ぶつかるなんてことはないだろう」
ジュリアーニ氏はこう思いながら、
現場に向かう。
有事の際は、まず自分の目で現場を見る、
それが市長になってからの彼の信条だった。

「9・11には、何千もの記憶、
 思い出があります。
 でもあのテロがどんなに
 忌まわしいものだったのか、
 最初に理解したのは、
 ワールドトレードセンターの北側のビルの
 101階か、102階から
 誰かが身を投げるのを見た時でした。
 それはとても忘れることのできない
 劇的な記憶です。
 彼らのまさに最後の瞬間を目撃したのです」

ジュリアーニ氏は、有事の際に備えて
「緊急指令センター」とでも
言うべき場所を設けていた。
ハリケーン、停電、熱波、大雪などを想定して、
コンピューターやテレビスクリーンが並び、
ニューヨークが今どうなっているのか、
情報と映像でモニターできるようになっていた。
さらに発電機や、水、食料、寝具も用意され、
長期間にわたって指令塔の役割を果たせるよう
整えられていた。9・11のようなテロの際も、
まさに拠点となるべきものだった。
ところが、その場所は不幸にも、
ワールドトレードセンター群の中、
崩壊したツインタワー北側の
第7ワールドトレードセンター23階にあったのだ。
ビル崩壊の影響を受けて、
肝心の司令室は使い物にならなくなっていた。

ジュリアーニ氏と市の幹部たちは、
司令室の代わりの場所を求めて北に向かった。
ワールドトレードセンターに
ほど近くにある市庁舎も、ほこりがかぶり
ほとんど視界がなくなっていた。
自らの組織もバラバラになるという、
ひどい混乱にニューヨーク市政府も
陥っていたのだ。
その中でジュリアーニ氏は体制を整え、
警察や消防に必要な指示を出していく。

9・11当日の長い一日を終えたときの心情を、
ジュリアー二氏は著書である
『リーダーシップ』の中でこう記している。
「4時半ごろ眠りについた。
 しかし1時間もしないうちに目が覚めてしまう。
 私は太陽が昇るのを待った。
 再び太陽は昇るのか、確証が持てなかった。
 そして太陽を見たとき、私は救われた。
 こんどはこちらが攻撃し返す番だった」

彼が支持されたのは、
ニューヨーク市警察の帽子をかぶり、
自ら泥まみれになりながら現場を鼓舞する
その献身的な働きぶりと共に、
何よりもメディアを通じて
市民に直接訴えかけたことだろう。
状況が正確に把握できていない段階でも、
彼はカメラの前に立ち、
わかっている範囲の情報を公開し、
冷静な口調で平静を呼びかけた。
家族への同情と配慮も忘れず、
消防隊員や警察官を称えて愛国心にも訴えた。
全米市民のボランティア志願を断って
「ニューヨークではカネを落として欲しい。
 レストランに入り、劇場に足を運ぶことが
 最大の助けになる」と
きっぱりと言ってのけるなど、
現実的な訴えも市民の心に響いたに違いない。
9・11の4日後、
私がニューヨークに取材に来たときにも、
テレビ画面で市民を励ます
ジュリアーニ氏を何度も目にした。

「あのとき市長として
 どんな思いだったのでしょう?」
「いろいろな感情が入り混じっていました。
 まず、何の罪もない人々にこんなことをした
 テロリストへの怒りの気持ちがありました。
 理不尽な、邪悪な目的で人々の命を
 奪ったのですから。
 もうひとつの感情は共感でした。
 愛する人の命を奪われても
 生き続けなければならない家族への思いです。
 家族の苦しみは永遠に続くのです。
 命をかけて、現場に入った消防士と警察官への
 敬意の気持ちもありました。
 彼らの勇気は、
 再生の精神を吹き込んでくれたと思います。
 あの日は、ニューヨークにとって
 最悪の日でしたが、
 同時に彼らの勇気が見せた勇気という意味では、
 最も偉大な日だったと思います」

ジュリアーニ氏は、
その年のアメリカの雑誌『タイム』の
今年の人に選ばれる。その表紙は、
マンハッタンの摩天楼群の夜景をバックに、
ビルの屋上に立つ
ジュリアーニ氏の写真が使われていた。
編集者の求めに応じたのだろうか、
ニューヨークの支配者というイメージだ。
中を開くと「世界の市長」という見出しが踊り、
活躍ぶりが写真と文章で詳細に描かれている。
記事の中に、タイム誌とCNN合同の
世論調査の数字が紹介されていた。
ニューヨーク市民だけでなく全米の市民を対象に
12月半ばすぎに行われた調査だ。
ジュリアーニ市長はいい仕事をしたと思うか
という問いに対して、
94%の人が「非常にいい仕事をした」
「いい仕事をした」と答えている。
ひとつの市の市長にすぎなかった
ジュリアーニ氏が、
4ヶ月近くの間に
全米が認知する政治家になっていた。

9・11が起きるまで、
ジュリアーニ氏は決して
人気があったわけではなかった。
ジュリアーニ氏は、1944年
ブルックリンのイタリア移民3世として生まれ、
ニューヨーク大学のロースクールを出て、
検事の道に進む。
ニューヨーク州南部担当の連邦検事正時代には、
マフィアや証券スキャンダルの摘発に
辣腕をふるったことから、
禁酒時代にアル・カポネと対決した
取り締まり官の名前をもじって、
第2のエリオット・ネスとも呼ばれた。
89年に退官するまで、
4152件の事件を起訴、
99%を有罪にしたという数字が残っている。

ニューヨーク市長になったのは1993年。
得意分野を生かして、
治安が悪化していたニューヨークの犯罪を
減らすことを第一の政策に挙げた。
実際、犯罪は劇的に減った。
殺人、傷害、強盗などの重犯罪と
呼ばれる犯罪発生件数は在職8年で半減し、
荒廃していたニューヨークは
全米で最も安全な大都市に生まれ変わった。
ジュリアーニ氏は警察組織を変えて
警察官を増やすとともに、
シンプルな考え方をとった。
一枚の窓ガラスでも割れているのを放置すると、
街はきれいにならない。
それと同じで、
軽犯罪を徹底的に検挙することが、
すべての犯罪の減少につながるという考え方だ。
検挙率をあげることが至上命題になる中で、
強引な逮捕も目立ち、
アフリカ系やヒスパニック系など
マイノリティーに警官がより危害を
加えていると批判されたほか、
警察官は市民の権利を
無視していると指摘された。
「ジュリアーニはヒトラーだ」
という声すら起きた。

ジュリアーニ氏は、
政治家としての野心も隠さなかった。
市長時代に上院議員への立候補を表明、
ヒラリー・クリントン候補との
一騎打ちを演じていた。
そんな中、スキャンダルに見舞われる。
浮気が発覚して連日のように
大衆紙を賑わせることになった。
結局妻との離婚を発表する。
発表会見で、記者たちに
「あなたたちは、人のプライバシーを
 問いただして恥ずかしくないのか」と声を荒げた。
さらに追い討ちは、ガンだった。
離婚会見からまもなく、
前立線がんにかかっていることを告白、
上院議員レースから降りると発表したのだ。
その口調はわずかに震え、
発音がはっきりしない場面すらあった。

ニューヨークを清潔で安全な街に変えた
ジュリアーニ氏の功績は、
誰しも認めてはいたものの、
その強面ぶりから決して
人気が高かったわけではない
ジュリアーニ氏の政治生命は、
これで終わりだという見方も出ていた。
ジュリアーニ氏は、
市長の仕事はなんとか続けながら、
ガン治療の専念を余儀なくされた。

そうした状況の中で、
ジュリアーニ氏は9・11を迎えたのだ。
それも8年つとめた市長の任期が、
あとわずか4ヶ月を切ったときの出来事だった。
「あなたの人生にとって、
 9・11とはどんな意味を持つのでしょう?」
「そう、9・11は私の人生を大きく変えました。
 しかし、はっきりとはわかりません。
 なぜなら私は以前と同じ人間だと思っているからです。
 確かにとんでもなく、恐ろしい攻撃を受けました。
 炭そ菌の攻撃も受けました。
 そうした経験は、私を明らかに変えたと思います。
 命がいかに大切かということだけでなく、
 生きている時間を有効に使わなければ
 ならないことを教えてくれました。
 我々は自分に残された時間がどれだけるか、
 わからないのです。何があっても前向きに生き、
 時にはやり直すことに
 集中しなければならないのです。
 人生はそんなものです」


9・11のあとの4ヶ月は、
5年が過ぎたと思うほど多くの体験をしたと
ジュリアーニ氏は別のインタビューで答えている。
実際、彼の人生はその後大きく変わる。
市長退任後、
彼は『ジュリーニ・パートナーズ』という
コンサルタント会社を、市長時代の仲間と興した。
危機管理の専門家というのが売り文句だった。
鬼検事時代の実績もあるとはいえ、
何より9・11の鮮烈な記憶が、
ジュリアーニ氏を危機管理の象徴に祭り上げていた。
もちろん仕事に困ることはなかった。
そればかりではない。
一躍有名になったジュリアーニ氏に、
世界から講演依頼が殺到した。
講演料も日本では信じられないほどの高額だった。
彼は皮肉にも、9・11で大金持ちになったのだ。
さらにジュリアーニ氏はガンも克服したとされ、
現在はガンからの生還者と呼ばれている。

彼の政治生命も、9・11で蘇った。
今年8月の終わりに上陸した
ハリケーン『カトリーナ』の被害をめぐって、
市長、州知事、大統領の対応が批判されている。
それぞれがバラバラに対応した上に、
責任を押し付けあうという醜態を演じた。
カトリーナの対応の責任をめぐり
ワシントンで開かれた公聴会では、
質問に立った共和党の下院議員が、
FEMA(連邦緊急事態庁)の
ブラウン前長官にこんな批判をぶつけた。
「もしあなたのかわりに、
 ジュリアーニ氏のような人がトップに居たら、
 違うやり方でやったでしょう」
ブラウン氏は、表情をこわばらせてつぶやいた。
「そんなこと言われても、
 私はジュリアーニ氏ではないんです」

ジュリアーニ氏にインタビューしたのは、
公聴会のこのやりとりがあった翌日だった。
「公聴会であなたの名前が
 出たことをどう思いますか?」
「いまの時点で責任うんぬんを言うのが
 正しいことだとは思いません。
 カトリーナ被害が起きたのは、
 まだ最近のことです。
 被害に遭った人を助けることに集中すべきです。
 彼らはまだ助けを必要としています。
 連邦政府の役割は何か、州政府、市の役割は何か、
 建設的なやり方で議論して欲しいと思います。
 カトリーナはすさまじい災害でした。
 政府のあらゆるレベルの資源を必要としました。
 正しかったこともあるでしょうし、
 間違っていたこともあるでしょう。
 状況が落ちついたら、建設的な方法で分析すべきです。
 そこから何を学べるかが重要です」

ジュリアーニ氏は、批判することには慎重だった。
しかし「あなただったら、まず、何をしたでしょう?」
という問いに対して、彼はこう答えた。
「緊急事態が起きたら、
 皆ひとつの指揮下に入るべきです。
 9・11のとき、
 ニューヨーク州のパタキ知事と市長である私は、
 司令室に並んで座りました。
 我々だけでなく、政府も一緒でしたが、
 ひとつの部屋に座って一緒にものごとを
 決めたことで時間を無駄にしたり、
 つまらないいさかいもせずに済んだのです」

大統領選のさなか、去年8月に
ニューヨークで開かれた共和党大会に、
ジュリアーニ氏は招かれスピーチした。
私も会場で取材していたのだが、
退屈な演説と形だけの拍手が続く中、
ジュリアーニ氏が登場すると、
大会はそれまでで最も盛り上がり、
割れるような拍手が起きた。
ジュリアーニ氏は
「いまこそリーダーシップが最も大事な時だ」と
 強調したうえで、次のように語った。

「9・11のとき、我々はテロの攻撃は
 さらに何日も続くと思っていました。
 その時ふと感情がわいて無意識で、
 バーナード・ケリック市警察長官の腕を
 つかんで彼に言ったのです。
 ブッシュ氏が大統領であることを
 神に感謝しようと。
 私は今夜もう一度いいいます。もう一度。
 ブッシュ氏が我々の大統領であることを
 神に感謝していると。
 さらに経験と知識、力を兼ね備えた
 ディック・チェイ二−氏が
 我々の副大統領であることを神に感謝しましょう。
 9・11が起きたとき、ブッシュ大統領は、
 就任からまだ8ヶ月もたっていませんでした。
 新しい大統領、副大統領、政権は、
 まさに政権の始まりに、
 わが国の歴史上最悪の危機に直面しました。
 ブッシュ大統領は、テロから身を守るだけでなく、
 立ち向かうために我々を結び付け、
 世界のテロを打ち負かす努力をしてきました。
 この選挙の結果がどうなろうと、
 ブッシュ大統領はすでにアメリカ史の中で
 偉大な大統領としての地位を築いています。
 しかし、みなさん、歴史が我々の大統領に
 正しい評価を下すのを待つことはありません。
 我々自身で歴史を書きましょう。
 ブッシュ大統領を
 もっと偉大な大統領にするのです」

民主党員なら
白けてしまうような大仰なブッシュ礼賛に、
会場は熱気に包まれた。
大統領選の党大会は
こんなものかもしれないが、
ジュリアーニ氏のブッシュ大統領支持は一貫している。
著書『リーダシップ』にこう書いている。
9・11後、初めてブッシュ大統領が
ニューヨークを訪れる場面だ。
「私はこれまで
 エアフォースワン(大統領専用機)を
 何度か見たことがあった。
 しかしその日、
 ブッシュ大統領が乗っているのを見た時、
 涙が止まらなかった。
 大統領にお礼を言い、
 この危機に対する大統領の対処の仕方に
 誇りを持っていると話した。
 大統領は『何か私にできることはあるか』
 と訊ねた」

9・11後の対テロ戦争についても、
ジュリアーニ氏は全面的に
ブッシュ大統領の政策を後押ししている。
「アメリカの対テロ戦争で、
 うまくいっている点と、
 うまくいってない点を
 共にあげていただけますか?」
「我々はアフガニスタンで成功しました。
 イラクでもテロリストを
 追い詰めるのに成功しました。
 ほかの場所でも
 時に外交という手段で成功しています。
 たとえば、カダフィ大佐のリビアです。
 中東のいくつかの国々でも進展がみられました。
 ですがロンドンで起きたテロを見ても、
 我々の置かれている状況が
 今もいかに脆弱かがわかります。
 いまだ大きな脅威がありますから、
 アメリカ、日本、イギリス、
 さらにテロのリスクを理解する国々が、
 力をあわせ続けなければなりません。
 アメリカだけではできません。
 一緒にやらなければなりません。
 これは世界の問題なのです。
 ですからこれまでと違った洗練されたやり方で、
 ともに戦わなければなりません」

そのジュリアーニ氏自身が、
次の大統領の有力候補と目されている。
今年7月に行われたギャラップの世論調査で、
2008年の大統領選で最有力候補とされる4人
(ジュリアーニ前NY市長、
 ヒラリー・クリントン上院議員、
 ジョン・マケイン上院議員、
 ジョン・ケリー上院議員)の名前を挙げて、
好感度を訊ねたところ、
ジュリアーニ氏がトップの64%、
ヒラリー・クリントン議員53%
という結果が出ている。
まだ先の話とはいえ、
果たしてジュリアーニ氏が
大統領選に名乗りをあげるのか、
アメリカのメディアは注目し続けている。

「次の大統領選の候補者として、
 あなたの名前があがっています。
 立候補しますか」私は訪ねた。
「まだわかりません。決断するには早すぎます。
 3年後のことですからね。
 来年は中間選挙もありますし、
 いまそれを決めるのは難しいと思います。
 でも、聞いてくれてありがとう」
そう言って、ジュリアーニ氏は微笑んだ。
「いつ決めるのでしょう?」
「今の時点では、タイムテーブルはありません。
 1年後か、2年後か、そのどこかの時点で
 決めることになるでしょう」

ジュリアーニ氏が
会長兼CEOをつとめる会社は、
企業への積極的な投資にも乗り出し
ビジネスを急速に拡大、
さらに講演で全米を回るなど、
大統領選に向けた資金集めを
始めているとも囁かれている。

一方で共和党内で
ジュリアーニ氏に対する反発もある。
彼は、妊娠中絶問題で
プロチョイス
(女性に選択する権利があるとする)の
立場をとり、
同性愛者の権利を認める姿勢を示しているため、
共和党保守派の一部からは拒否反応もみられる。
ジュリアーニ氏のそうした考え方は、
民主党色の強いニューヨーク育ちも
影響しているのだろう。
またニューヨーク市長というキャリアは
決して大統領選には
プラスに働かないという見方もある。
アメリカを旅して実感するのは、
ニューヨークはアメリカでないということだ。
移民国家アメリカの理念は
体現しているとはいえ、
アメリカのほとんどの
面積を占める田舎町から見ると、
ニューヨークは特殊な別世界だ。

ある結婚式であったニューヨークに住む
女性政治学者はこう言った。 
「ジュリアーニは政治的には
 ニューヨーク市長の経験しかない。
 そういう意味では、人気はあっても
 決して政治家として全国区とは言えないわ」
弁護士をつとめる夫もワイン片手に加わって、
次の大統領選の候補者や
ブッシュ大統領の評価の話題になった。
弁護士の夫が「いずれにしても」と言った後、
にやっと笑ってこう言い放った。
「9・11が助けた人物が2人だけ居る。
 それはブッシュとジュリアーニだ」

ジュリアーニ氏のインタビューは
約束の時間を大幅に過ぎていた。
カメラの向こうで
秘書が腕時計を指して
催促しているのが目に入った。
最後にこう問いかけてみた。
「もし大統領になったら、
 もう一度インタビューに応じてくれますか?」
質問を聞き終わるや、
ジュリアーニ氏は大声で笑った。
「いいですとも、大統領になってもならなくても、
 どちらにしてももう一度やりましょう」

ジュリアーニ氏は
にこやかに立ち上がって
自分でマイクをはずすと
秘書に促されるように
再びボディガードに先導されて
ホテルの部屋を後にした。
そして企業が用意した
プライベートジェットに乗り込んで
次の仕事先に向かった。

松原耕二さんへ激励や感想などは、
メールの表題に「松原耕二さんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2005-10-26-WED

TANUKI
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