『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

<ほぼ日読者の皆様へ>

あけましておめでとうございます。
どうぞよろしくお願いします。
ことしもぼちぼちやります。
気が向いたら読んでくださいね。
新作です。

半泥子の仕事場

この人が生きているうちに一度会ってみたかった。
あなたにとってそう思わせる先達はと訊かれたら
誰の名前を挙げるだろうか。
僕の場合はホンダを一代で築いた、本田宗一郎だった。
車づくりに生涯を捧げ決して妥協を許さなかった一方で
明るく純粋で開けっぴろげ、遊ぶときも大きく遊んだ。
おおらかなくったくのない笑顔が
実にチャーミングだった。
こんな人と一緒に居ることができたら
恐いけれどどんなに楽しいだろう。
そう思わせる人物だった。

もうひとり、
そう思わせる人物と出会った。
川喜多半泥子(はんでいし)だ。
39年前にすでに亡くなっている陶芸家だ。
どんな人物だったかについてのあらましは
昨年11月のコラム『偉大なる素人たち』ですでに記した。
百五銀行の頭取、会長を歴任しながら
多様な趣味に生き、陶芸の道で大家となった人物だ。
今回は彼の窯を訪ねた時の様子を書いてみようと思う。

まず最初に断っておくが
僕は陶器のことは何もわからない。
興味を持ったこともない。
風流でいいなあと思わないでもなかったが、
どちらかというと「じじくさい」趣味で
老後の楽しみといった類のものだと勝手に踏んでいた。

半泥子との出会いは偶然だった。
東京の神楽坂にある寿司屋に
一冊の雑誌が置いてあった。
紀伊半島の伊勢周辺を中心に売っている雑誌で
地元出身の半泥子が特集された号だった。
ほろ酔い加減で手に取ってページをめくる。
垣間見た彼の人生のなんと自在であることか。
お願いしてその雑誌を借り、
資料を集めるうち思いは募り、
どうしても彼のゆかりの地を訪ねたくなったのだ。

半泥子が残した窯場は三重県津市の山麓にあった。
今も弟子たちに引き継がれている広永陶苑だ。
山門をくぐる。
寒さが全身を突き抜ける。
無理もない。この正月に41年ぶりの大雪が
名古屋を襲ったばかりなのだ。
聞こえるのは
風が松を揺らすかすかな音と鳥のさえずりだけ。
山道をしばらく歩くと
古めかしい日本家屋が幾つか見えてくる。

そのひとつ泥仏堂と呼ばれる庵を見せてもらった。
こぢんまりした和室が一間。
正面にお客を迎えるためという仏壇がある。
扉をあけると、半泥子の小さな陶像が
赤い座布団の上にどっしりと座っている。
自ら焼いた半泥子像だそうだが、
押しつぶしたような形の壺の上に、
大きく口を開け人を食ったような表情の首が
乗っかっているだけの代物だ。
なんともとぼけた風情で
嫌な客が来たときは首を回して横を向くという。
開かれた扉の左右には
「把和遊」「喊阿厳」と大きな青い字。
それぞれ(How are you?)(Come again!)の
当て字とのこと。
挨拶をこれですべて済まそうということか。
よく見ると像の首の後ろになにやら書いてある。
「秋晴れやおれはろくろのまわるま々」

他の庵や茶室には
半泥子がつくった書の掛け軸もあった。
「慶世羅々々」。
「ケセラセラ」の当て字だ。
彼は「なるようにしかならない」というより
「なるようになれ」という意味を込めて記したという。
掛けてある額縁には「莫加揶廬」。
(バカヤロウと読む)
半泥子はこれを雅号のひとつとしても使っていた。
彼は油絵や日本画も達者だった。
子供の頃から習いかなりの腕前だったのだが、
晩年はユーモラスなものを好み、
多くの書画、俳画も残した。
一生懸命ろくろを回す自分の姿。
戯画化した100歳の半泥子像。
(実際には84歳で他界)
高笑いしている自分の姿。
晩年、病気で床に伏すことが多くなったあとには
布団の上で大の字になって寝ている自分の姿を描き、
その横に
「わしゃあこうしているわいな」という文字を添えた。
彼は亡くなる最期まで
自分を茶化す余裕を持ち続けた。
半泥子はこうもうそぶいた。
「おまえ百まで、わしゃいつまでも」

「我が宿はそこらの土も茶碗かな」
陶芸家としての姿勢を最も表しているのが
この句かもしれない。
半泥子は好きなように茶碗を焼いた。
使う土によって
茶碗の出来は全く違うものになるそうだが、
半泥子はどの土にも個性があり
それを生かせば個性的な茶碗が出来ると考えていた。
人についても同じことが言える。
彼はそうも信じていた。

案内してもらっている最中に
大きな絨毯がひかれた部屋を通った。
「これは何をするための部屋なんですか」
案内してくれた女性はくすっと笑って答えた。
「ここは踊ったり芝居したりするところなんですよ」
怪訝な顔をしている僕に彼女は続けた。
「半泥子先生の命日に集まって
 『寛一お宮』をやったりするんです。
 先生はにぎやかなのがお好きでした。
 先生は行きつけの旅館に行ったりすると、
 御主人や仲居さんたちに
 あなたはこの役、おまえはあの役といった具合に
 割り振って芝居をやらせていたんですって」
彼女は静かに微笑んだ。

広永陶苑の最も奥に登り窯があった。
晩年の13年間、半泥子はここで陶器を焼いた。
初めて間近で見てその大きさに驚かされた。
一度に数百の陶器が焼けそうなほどだった。
陶芸の現場は決して洗練された場所ではない。
泥だらけになりながらろくろを回し、
登り窯に火を入れると24時間火加減を見ながら
何日も薪をくべなければならない。
さらに出来た陶器のうち満足できるものは
いくつもないという。
絶やさず火を守り出来上がった陶器を取り出す瞬間。
期待と不安が交錯しながらも
澄み切った心持ちになるのではないだろうか。
「あれこれ考えているうちは迷いだと思います。
 やってやってやり抜くうちに
 いつかは何か掴むものが見い出されます。
 ひとつ掴んでしまってから
 ヨシキタと心の底からある力が出ました時、
 無茶・・言葉は当たりませんが、
 なんと申しますかぐっと一気にやります時、
 後に至ってこんないいものが出来たかと思う物が
 出来るのが私の体験です。
 結局ぽちゃぽちゃいうのは足らぬからだと思います。
 つまり『なるようになれ』でつくったものに
 いいものが見いだせます。しかしこんな気分になるのは
 やってやり抜いた後のことです」
半泥子の言葉だ。

彼は生涯で3万5千にのぼる陶器を残した。
が、ひとつとして売りはしなかった。
心の赴くままにろくろに向かい
生涯『偉大な素人』として生きた。
作品の何物にもとらわれない自由な雰囲気は
彼の生き方そのものを表しているのかもしれない。

陶器は作り手の人間そのもの。
そう思うと古ぼけて見えていた陶器が
がぜん魂のこもったものに見えてくるのだ。






『勝者もなく、敗者もなく』
著者:松原耕二
幻冬舎 2000年9月出版
本体価格:1500円


「言い残したことがあるような気がして
 口を開こうとした瞬間、
 エレベーターがゆっくりと閉まった」

「勝ち続けている時は、自分の隣を
 神様が一緒に歩いてくれてる、と感じるんです。
 ・・・たいていそういう頂点で負け始めるんです」


余韻を大切にした、9つの人間ノンフィクションですっ。
(ほぼ日編集部より)

2002-01-17-THU

TANUKI
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