『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

<ほぼ日読者の皆様へ>
メールありがとうございます。
いただく感想メールがいつも楽しみです。
こうしてコラムを書いていることに
少しは意味があるんだと
元気づけられます。
オランダや香港からもいただき、
ああ、インターネットなんだと
実感したりしています。
きょうは、
ぼくと同じ歳の(はずだった)
ひとりの男の話です。



ジョナサン・ラーソンの6年間

なぜ私は彼にこれほどまでに惹かれるのだろう。
その男に会ったことはない。
いや正確に言うと会えないのだ。
彼はもうこの世にはいない。

彼を知ったのはミュージカルを観ていた幕間だった。
その日私は友人の女性に誘われて、
ブロードウェイから来た
『レント』というミュージカルに行った。
最近までニューヨークで暮らしていた彼女は
『レント』の大ファンだった。
ブロードウェイで3回観ていた。
さらに日本人キャストによる公演も3回通い、
今回の日本公演も4回分のチケットを買っていた。
「とにかくいいから観るべきよ」
というのが彼女の言い分だった。
要するに完全にハマッテいたのだ。

気迫に押されて私は二つ返事で同意した。
そこまで言うなら観てみようじゃないか。
『レント』に関して私が持っていた知識といえば、
ブロードウェイで若者を中心に
大ヒットしたことくらいだった。
以前テレビでも取り上げられていたが、
詳しい内容はほとんど記憶に残っていなかった。

見渡すとほぼ満席で、
20代から30代の若い観客が大半を占めていた。
会場が暗くなる。
巨大な倉庫のような舞台セットが浮かび上がり、
ハンサムな2人の白人青年が歌いだす。
ひとりは失恋したばかり。
もうひとりは半年前に恋人が自殺してから
一歩も外に出ていない。
彼らのもとに、
たまっている家賃を払えという催促の電話が入る。
物語はそんなシーンから始まった。

私はいささかつらい状況に陥っていた。
ひどい二日酔いだったのだ。
ストーリーについていくためには、
電光掲示板に出る日本語訳を追わなくてはならない。
掲示板は舞台の両脇。
演技を見てすばやく視線を移す。
その度にこめかみのあたりがガンガンするのだ。

やれやれ、と私は思った。
厳密なストーリーはあきらめよう。
本場の歌と踊りを楽しめばいいさ。
そう思うことにした。
こめかみは静かになった。

これまで観たミュージカルとはだいぶ違う印象だった。
登場人物も音楽も若い。ロックミュージカルだった。
ボヘミアン生活を続ける若者たちの愛と夢。
そこに麻薬とエイズが忍び寄る。
死の予感に彩られて休憩に入った。

「どうだった」友人の女性が私の顔を覗き込んだ。
「うん、どうだろう・・」
何て言っていいかよくわからなかった。
印象に残ったのは登場人物たちの「叫び」だった。
手を伸ばしても届かないもどかしさ。
若さのエネルギーに溢れるがゆえに、
つきせぬ思いもより強烈だった。

そんなことを思い巡らせているときに女性が言った。
「ジョナサン・ラーソンっていう人死んじゃったのよ。
 『レント』をつくった人。初日の前日にね。
 自分の成功を見ることなく死んでしまったの」
私が驚いた顔をすると
彼女はパンフレットを見せてくれた。
そこにはジョナサン・ラーソンの
笑顔の写真が載っていた。
ちょっと神経質そうな表情がそこにはあった。

ブザーがなって後半が始まった。
冒頭で役者たちが全員で合唱する。
私は違う興味を抱いて舞台を観始めた。
いつの間にか役者たちの叫びを、
初日の直前に死んでいった作者の思いに
重ね合わせていたのだ。
掲示板の日本語訳を追う。
こめかみの痛みは消えていた。



私は出来るかぎりの資料を集めた。
そこで知るジョナサン・ラーソンの人生は
あまりに劇的だった。
1960年生まれ。
小学校3年生のとき初めて芝居の演出、主演をして
地元の新聞に紹介された。

高校、大学ともやはり芝居やミュージカルに夢中になり、
卒業後はニューヨークに。
ウエイターや皿洗いのバイトをしながら
チャンスを待った。 

彼はミュージカルを変えたいと思っていた。
今のブロードウェイは自分たちのものじゃない。
新しいスタイルで曲を書きつづけたが、
誰も耳を貸す人はいなかった。

『レント』が動き始めたのは1990年ごろ。
彼は一年かけて骨組みをつくり、
さらに一年かけて第一稿を完成。
それから何度も手直しを繰り返した。

結局『レント』の初演は96年1月と決まった。
彼は実に6年もの歳月をかけて、
台本、歌詞、曲のほとんどすべてを
ひとりで作ったのだ。

最終稿を書き上げリハーサルに立会う。
あとは待ちに待った初日を迎えるだけのはずだった。
ところがまさにその前日
ジョナサン・ラーソンは急死する。
大動脈瘤破裂。35歳の若さだった。

ラーソンのためにもと、初日の上演は敢行された。
メンバーの動揺が激しく歌だけの舞台となった。
仲間たちが大勢集まった。
上演が終わってもだれも帰ろうとしない。
「ありがとう、ジョナサン・ラーソン」
客席から大声が響く。
皆、涙を流しながらラーソンへの思いを語ったという。

そして奇跡が起きる。
『レント』は空前の大ヒットを記録したのだ。
亡くなったラーソンは
トニー賞、オビー賞、ピュリツァー賞など、
考えうるあらゆる賞を総なめにする。
まるで新人映画監督がいきなり
アカデミー賞をとったようなもの。
あと一年長く生きてさえいれば、
彼は華々しい栄光を味わったはずだ。

もしラーソンの劇的な死という要素がなかったら、
『レント』はここまでの成功をおさめただろうか。
それは誰にもわからない。
ひとつだけ言えるのは、
大成功の「引き金」になったということだ。
表現者なら誰でも、
できるだけ多くの人に作品を観てもらいたいと願う。
彼は自分の命と引きかえに、
最初で最後の作品を世に送りだすことになった。

『レント』の主役のひとりロジャーは、
売れないミュージシャン。
エイズによる死の予感を抱きながらロジャーは歌う。

 「ぼくは偉大な曲をひとつ書くんだ
  手遅れになる前に
  ひとつの歌
  栄光
  ひとつの歌
  ぼくが逝ってしまう前に
  栄光
  ひとつの歌を残しておきたい」

死ぬ前に偉大な曲を作りたい。
ロジャーはその歌を捜し求める。
仲間たちは恋の終わりと死によって
ばらばらになっていく。
そしてクリスマスイブの日。
恋人が息をひきとろうとする中で、
ロジャーはついに
捜し求めていた「ひとつの歌」をうたう。

物語はそこで終わる。
誰もがラーソンの姿を重ね合わせてしまう。
捜し求めていた「ひとつの歌」。
ラーソンにとってはそれが『レント』だった。
逝く前に「ひとつの歌」を残したのだ。
完成のために費やした6年という歳月を、
彼はどう過ごしていたのか。

集めた資料の中にこんな記述があった。
「バイトを週3回に減らし、
 残りの4日間を作曲にあてた。
 日曜の夜には、大きな鍋でパスタを作り、
 それを一週間分の夕食にした。
 朝食は毎日シリアル。
 何も考えず、機械に燃料を補給するような食生活。
 思考のすべてを作品に注ぎたかったのだ」

私は胸が詰まる思いがした。
創造という行為はひどく孤独なものだ。
ミュージカルの台本から詩から曲まで
ひとりで作るという作業は、
膨大なエネルギーを必要とするはずだ。
しかも作ったものが世に出るという保証は何もない。
まるで暗闇に石を投げるような日々。
どんな思いで彼は時を刻んでいたのだろう。

今となっては彼にインタビューすることはできない。
ただ、ラーソンが好きだった言葉がある。
「ケフィ」。
ギリシャ語で「欲望、衝動」を意味する。
このケフィさえあれば、
人はどこにいても何をしていても幸せに生きていける。
この考え方をラーソンはひどく気に入っていたという。

実際、どんな状況に置かれても彼は前向きで
楽天的な姿勢を失わなかったと仲間たちは口を揃える。
それは彼が作った『レント』の曲にもあらわれる。
40曲を超えるメロディーには、
ラーソンのまっすぐで透明な思いが映し出されている。

『レント』のラストシーン。
捜し求めていた「ひとつの歌」をロジャーが歌う。

  「ぼくたちが名声を失ったとして
   誰が気にするだろうか
   明日までぼくらは生きられるだろうか
   こんな悪夢を切り抜けて

   今しかない
   この場所しかない
   愛に身を任せよう
   でなきゃ恐怖に負けてしまう
   他に道はない
   他にやり方はない
 
   あるのは今日という日だけ
   あるのは今日という日だけ
   あるのは今日という日だけ
 
最後に出演者全員でもう一度声を揃える。

  「あるのは今日という日だけ」

ジョナサン・ラーソンの6年間。
もしかしたら彼にとって
それは至福の瞬間だったのかもしれない。
彼は亡くなることで人々の記憶に残った。
しかしラーソンにとって何の意味があろう。
上演を夢見て曲を書き続けた時間こそ、
何にも替えがたい
かけがえのないものだったのではないか。

そう、あるのは今日という日だけなのだ。 







『勝者もなく、敗者もなく』
著者:松原耕二
幻冬舎 2000年9月出版
本体価格:1500円


「言い残したことがあるような気がして
 口を開こうとした瞬間、
 エレベーターがゆっくりと閉まった」

「勝ち続けている時は、自分の隣を
 神様が一緒に歩いてくれてる、と感じるんです。
 ・・・たいていそういう頂点で負け始めるんです」


余韻を大切にした、9つの人間ノンフィクションですっ。
(ほぼ日編集部より)

2001-03-27-TUE

TANUKI
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