『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

<ほぼ日読者のみなさんへ>
 ニュースを伝える仕事をしていると
 なんだか悪いニュースばかりで
 嫌になることがあります。
 実際に暗いニュースが多いのも確かですし、
 ニュースの宿命のようなところもありますが、
 我々伝え手の問題でもあります。
 いいものはいい、
 素晴らしいものは素晴らしいという話題も
 積極的に伝えようと思うのですが、
 実際にはなかなかうまくいきません。

 皆さんからいただくメールを読ませていただいても
 とっても素敵なエピソードや自分の思いを
 書いてくださってたりして、
 読みながらはっとすることも少なくありません。
 もしかしたら、突然、あなたを書かせてくださいと
 メールする事もあるかもしれませんが、 
 その時は、どうぞ相手してやってください。
 3回目のきょうは
 異国でひとりで頑張ってる17歳の物語です。



17歳

17歳による凶悪犯罪がニュースで報じられても、
今や誰も驚きはしない。
特別なことではない。
日本の子供たちはどこか壊れ始めている。
そんな論調がいつのまにか幅をきかせるようになった。
だが一方で、神戸里奈(かんべりな)のような17歳が
いることも覚えておこうと思う。

「最初のころは毎日泣いてばかりいました」
神戸は恥ずかしそうに笑った。
彼女はプロのバレリーナを目指し、
現在オランダの国立バレエ団の学校に留学している。
一時帰国した際に再会した。
未だあどけなさが残る端正な顔立ちは、
わずかにたくましさを増したように見えた。
初めてのひとり暮らし。もちろん言葉も通じない。
周りには
世界から集まった有望な若手ダンサーたちがひしめく。
女性でも170センチを超える堂々たる体格。
157センチしかない自分が、
果たしてやっていけるのだろうか。
不安とホームシックからひとりでひざを抱えた。

それでもバレエの授業は待ってくれなかった。
「日本では学校が終わってから
 バレエのレッスンを受けに行きました。
 でもここはバレエだけやってればいい。
 もう毎日毎日バレエ漬けの生活でした」
神戸はそう言って、ふうっと大きな息をした。

私たちは東京・青山のレストランで昼食を食べていた。
店は大勢のOLや主婦たちで賑わっていたが、
一見してバレリーナとわかるぴんと張った背筋が
神戸をきわだたせていた。
彼女はひとことづつ言葉を選んだ。

オランダのその学校は最長で3年間。
プロとして仕事を得たらその時点で卒業が認められ、
逆に3年たっても仕事が見つからなければ
卒業証書はもらえない。
力のあるダンサーはプロとして次々と旅立っていくが、
そうでなければ置き去りにされるのだ。
なぜそんな厳しい世界に身を投じたのか。
それは彼女のある思いからだった。



2年前のローザンヌ国際バレエコンクール。
一流ダンサーの登竜門と言われるこの大会での経験を
彼女は忘れない。
神戸は最年少の15歳で出場。
当時、彼女は日本のバレエへの疑問を抱いていた。
「やらされている」窮屈さを感じていたのだ。
先生の言うままに機械のように忠実に踊ることを求められる。
余計なことは考えるな。まだ早い。
言われたことを繰り返し練習すればいいんだ。

ところがローザンヌコンクールでは全く違った。
「主人公はどんな気持ちだと思う」
「形よりも、集中して役になりきること」
指導してくれた先生たちは口々にそうした言葉を投げる。
彼女は演じる楽しさを初めて味わった。
拍手の音も新鮮だった。
日本の舞台では観客ひとりひとりの拍手が
かすかにずれていることが多かった。
しかしローザンヌの舞台では
完全にひとつになって聞こえた。
それはここで拍手をするという決まりごとの世界ではなく、
若いダンサーが懸命にいい演技をしたとき、
それに呼応して湧き出てくるといった音だった。

さらにおじぎに対する考え方もだ。
彼女が出場した日本のコンクールでは、
踊り終わったらお辞儀をしないで
舞台の袖に入るという決まりがあった。
なぜだかわからない。お辞儀をしてはいけないのだ。
一度しそうになったことがあった。
していたら失格だったかもしれない、と彼女は笑う。
だがローザンヌでは逆だった。
コンクールとてお客さんの前で踊るのには変わりはない。
観てくれた人に感謝の気持ちを込めて
お辞儀するのはあたりまえだと教えられた。
そうした出来事は彼女を幸せな気持ちにした。
そして、思いきって日本を飛び出した。



だが、ことはそう簡単ではなかった。
オランダの学校でその厳しさを思い知ることになる。
そこではすべて、自分だけが頼りだった。
先生は決して誉めてはくれない。
人よりダンスの回転が多くできても評価されるわけではない。
先生は誰とも比較しようとしないのだ。
それどころか、隣なんて見なくていいんだよと言って、
それぞれの生徒に違うアドバイスを与えた。

日本では公演の前の日くらいになると、
やることはやったのよ、と先生が言ってくれた。
もう大丈夫だと。
直すべきところがあれば、
先生がつきっきりでレッスンしてくれた。
自信を持っていいか決めるのは先生だった。
だがオランダの学校では練習量を決めるのも自分。
やるだけやったと思えたとき、
初めて自信を持って舞台に上がることができた。
先生は「結論」は一切与えてくれない。
ただ「考える過程」を助けてくれる存在だった。

そればかりではない。
根源的な問いを常につきつけてくるのだ。
「テクニックを磨くのはあたりまえ。
 それよりもあなたは何を表現したいの。なぜ踊るの。
 自分の踊りとはなんだと思う?」
そんなことすぐには答えられないと彼女は思った。
夢中でここまでやってきただけだ。
だがじきにこんな風に考えるようになった。
自分だけの踊りとは何か。
すぐには見つからないにしても、
どれだけ本気で捜し求めたか。
それが踊り方にも舞台での表情にも出るのだと。

毎日の練習の一方で、仕事も探さなければならない。
彼女は去年、ドイツとスペインまで
ひとりでオーディションを受けに行った。
申し込みから、飛行機の手配、ホテルの予約まで
すべて自分でやる。
審査員の前に立ち、覚えたての英語で自分を売り込む。
身振り手振りも交えて悪戦苦闘する。
しょうがない。だれも助けてはくれないのだ。
結果は2度とも落ちた。

初めてのオーディションの後のことだ。
なぜ落ちたのか。
学校に戻って踊っている最中に涙がこぼれた。
何でもいってごらんと、先生が肩を抱いてくれた。
思いのたけを話すと先生は言った。
「テクニックの問題じゃないと思う。
 最終的にはバレエ団のデイレクターの好みよ。
 あなたの方向は間違ってないと思うわ。
 今はこのままやってみたらどうかしら。
 踊り方を変えようととか、誰かに合わせようとか、
 思わなくていいんじゃないかしら」
やわらかい物言いの後ろには、
自分で決めなさいという厳しさが潜んでいることが、
今の彼女にはわかるようになった。
先生はこうも言うのだ。
「でも、変えたければ変えてもいいのよ。
 人は常に変わっていくものよ」



気がつくとさっきまでの賑わいがウソのように、
レストランは静かな佇まいをみせていた。
彼女はまだ昼食にあまり手をつけていなかった。
「ごめんね。食べながらでいいからね」と私が言うと、
彼女はハイと言ってあわてたようにパンを口に入れた。
私は紅茶を頼んだ。

こうして彼女のことを書いているのは、
彼女が将来有望だからという理由ではない。
バレエの本場ヨーロッパでは、
プロのダンサーを夢見る
大勢の若者のひとりにすぎない。  
自分の頭で考えて決めること。
彼女は異国の地で、
そうすることがいかにしんどいか思い知らされた。
同時にどれほど楽しいかも。
そしてそれは今の日本の17歳にも
最も必要なことのひとつかもしれなかった。

神戸が学校にいられるのはあと1年半。
オーディションを待つだけでは
仕事は見つからないかもしれない。
これからはバレエ団を直接訪ねて売り込むつもりだ。
「つらくて日本に帰りたいと思ったことは?」
私は訊ねた。
「もちろんあります」と言って
彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。
「でも、自分で決めたことですから」

別れ際に訊いた。
10年後はどうしていると思うか、と。
彼女はしばらく考えてから答えた。
「どこどこのプリマというよりも、
 もっと精神的に強くなっていたいですね」
青山通りの信号が変わる。
彼女は、あさってオランダに帰りますと言って
丁寧に頭を下げ、横断歩道を渡っていった。
楽しそうに騒ぐ女子高校生たちとすれ違う。
彼女は振り向きもせず、
まっすぐな姿勢で歩いていった。

2001-03-13-TUE

TANUKI
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