吉本隆明 「ほんとうの考え」
007 自分 (糸井重里のまえがき)

吉本さんのところには、
実に個人的な質問を抱えて
おじゃますることがあります。

この日は、翌日に、ぼくが、
ある映画である役を演じることになっていまして。

できないのは目に見えているんだから
ていねいにお断りすればいいものを、
「やってみたい」という気持ちが強いものだから、
ついつい引き受けちゃうんですよね。
いままで、何度となく「演技」をする機会があって、
それはことごとく失敗してきているんです。
「でも、なんか、なんかわかればできるんじゃないか」
そういう野望が、どうしても消せないのです。
で、吉本さんにこのことを、
まるごと訊ねてみたいなぁと思ったんですよね。
どんな答えでも、よく聴いてみたかった。
で、とてもいい話がうかがえたのですが、
それを心にとめて、撮影現場に行ったぼくは、
結論として、やっぱりうまく行きませんでした‥‥。
糸井重里
糸井 今日は吉本さんに、
ちょっと相談したいことがあるんです。
ぼくは芝居が大好きなんです。
だけど、できないんです。
好きなのにいつもできない。
吉本 うん。
糸井 芝居の「できる」「できない」って、
いったい何が決めるんでしょうか。
吉本 結局、芝居というものの目的は、
見せることですよね。
いくら芝居をやっても
誰も客席に入ってなかったら
それは意味がないよ、ということになります。
だから、観客を必要とします。
糸井 うん、うん。
吉本 それに対応するのは、ドラマです。
ドラマ化があるから、演劇ができます。
糸井 はい。
吉本 見る人がいなけりゃ意味がないということは、
ドラマ化しなきゃ意味がうまく出てこない、
ということになります。
糸井 はい。
吉本 だけど、芸術の本質といえば、
「人が見る見ない」は関係ないんです。
演ずる人がその人であって、
自身を納得させることを
そのドラマでできればそれで充分、
芸術は成り立つんです。
誰も見る人がいなくても、読む人がいなくても、
芸術はそれで成り立っているのです。
つまり、自分に問いかけるものができていたら、
それがいい芸術と言えちゃうし、
悪かったら、それはどこがよくたって、
どんなに流行ってたってダメです。
根っこと幹さえあれば、
植物が自生していけるのとおなじように、
その人の根っこさえあれば完成です。
見る見ないは人の勝手、
その見方も勝手なんです。
糸井 ああ、見方って、とても勝手ですよね。
吉本 そう。こう見なくちゃいけない、
ということはないんですよ。
見る人も、その人なりに感銘すれば、
芸術の役目は終わりです。
糸井 つまり、芝居は観客を必要とする。
だけど、観客が見ているその枝や花は、
芸術にとっては二次的な問題だと。
吉本 そうです。
演劇だけじゃない、踊りもそうだし、
歌もそうです。
声をもって人を魅了できなければ、
ということがほんとうなんですが、
そこに物語性が入ったり、
見る人のそれぞれの経験とどこで出会うか、
という問題を気にします。
そこが使命だと思われがちですけども、
それはちがうんで。
糸井 役者にとっては
人がつくった台詞を言うだけのことですが、
ほんとうは、役者の存在そのものが、
根と幹ということになるわけですね。
吉本 そうなんでしょうね。
踊りなんて、
見てくれなきゃ何の意味で踊ってるんだ、
ということになっちゃうんだけど、
ほんとうに大切なのは、踊ってる人そのものです。
糸井 重要なのは、演じることじゃなくて、
その人がそこにいて、
存在してることの確かさですね。
吉本 それに近いような咲き方で
花が咲いたら、
それは芸術としては申しぶんない。
糸井 「上手下手を超えて、いいね」
と言われるのはそういうところですね。
吉本 そうなるわけです。
フッサールとかハイデッガーとか、
いわゆる現象学というのは、
それを細かくしていったんですよ。
芸術を、見ていることを主体に考えれば、
誰が見たって、花が散るところは花が散って、
風に吹かれてるところかは風に吹かれるだけ、
変わりはないよ、と言いたいところだけど、
人がおなじことを考えて見ているかどうか、
外からはわからないんです。
その人だけが納得する見方で、
「ああ、恋人と一緒に見てたよなぁ」とか、
「あんとき、子どもと一緒に遊んでたなぁ」とか、
思っているかもしれない。
それは、千差万別なんですよ。
糸井 はい。
吉本 自分のいちばん切実な思い出を
思い浮かべてるかもしれないし、
これから先のことを考えてるかもしれない。
万人ちがうわけなんだけど、
ただ、
「花が咲き、それが散ってきれいだなぁ」
と言うぶんには、
誰だっておんなじになってしまって、
しかもだいたいまちがいなんです。
そこまでつっこむ見方が
いわゆる現象学なんですよ。
糸井 すると、
芝居ができないと思っているぼくは、
葉っぱやら花やらの部分を
「できない」と思うあまりに、
根っこと幹があやふやになってるから、
ダメになっちゃってるんでしょうね。
吉本 そうだと思います。
糸井 きちんと自分自身をもって
ヘタにすれば、できる‥‥。
吉本 と思います。
糸井 吉本さん、ぼくは今日は、
人生が変わるくらい、
驚くくらい、わかりました。
吉本 いやいや(笑)。
ぼくもそうだったですからね。
そういうことにはじめて気がついたときは、
やっぱり、わーって思いました。
糸井 ああ、そうなんですね。
吉本 見方がまるで変わったと思います。
糸井 ぼくは、もう一度
「芸術言語論」に助けられたという思いです。
実は明日、あるところで
芝居しなきゃいけないんです。
いつも後悔するんですけど、
引き受けちゃったもんですから。
吉本 ああ、そうなんですか。
糸井 問題はテクニックじゃない。
肚(はら)ですよね。
肚が据わってるかどうか。
吉本 そうなんですよね、肚なんでしょうね。
糸井 「何度もやってるとできるようになる」って
よく言いますけど、きっとそういうことですね。
得意なことをしてるときには、
幹と根がしっかりしている
ということなんでしょう。
吉本 ぼくもしばしばそういうことで、
失敗してきました。
いまだって、
人の芸術は幹と根が本格なんだと言いながら
テレビ見るとき、
自然に枝ばっかり
目が行っちゃってるじゃないかって。
糸井 ああ(笑)。
吉本 いちばん気の毒だなと思うのは、
ソプラノ歌手みたいな人で、
この人は何をうなってるんだと、
思っちゃうことがあって。
糸井 はははは。
吉本 だけど、音楽をよく知ってる人は、
それを批評だと取るんですよ。
音楽の演奏家はすべてそうで、
批評という概念なんです。
糸井 うーん‥‥そうか、つまり、
クラシックの音楽家は
音楽を再現して、味わって、
批評してるんですね。
吉本 そう。それで、自分の習慣も
ちゃんと入れてるんですよ。
糸井 そうか‥‥人がつくった歌を
歌うってことは、
批評だとも言えるんですね。
吉本 そうなんです。
だから、いいソプラノ歌手ほど、
その人自身の、批評が入ってるんです。
糸井 そうですね。そうだなぁ。
吉本 ただ、声だけはソプラノが出るけど、
たいしてほかのことは出ない人が歌うと、
やっぱり、なんじゃこりゃ、となっちゃいます。
糸井 根と幹がなくなっちゃってるんですね。
吉本 ええ。それは、
もっと先のことを
歌ってるんじゃないかと
いうふうになっちゃいます。
糸井 極限的なことを言えば、
音痴でも人を感動させることはできますね。
吉本 できると思います。
糸井 きっと、役者の台詞についても
おんなじことが言えるんだなぁ。
いやぁ、ほんとうにありがとうございました。
吉本さんに何度か助けられましたけど、
また助けられました。
明日が来るのが怖かったんですけど、
生きる希望が湧いてきました。
吉本 いやいや(笑)、
ぼくも、いつもいつも、そうです。
芸事というのは何でもそうでしょうけど、
幹と根にいちばん近いところから発したものが
花になったり、風に吹かれた葉っぱになったりと、
そうやって見えるところまでいけば、
いちばん、完璧にいいんだと思います。

(月曜日に、つづきます)



2010-01-28-THU

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