斉吉さんと、八木澤さんと アンカーコーヒーさんと、糸井重里で 六花亭を訪問しました。
 
第3回 憧れの「十勝日誌」。
和枝 斉吉は、もともと「廻船問屋」でした。

気仙沼に入ってくる漁船の漁師さんを
いろいろとお世話する‥‥。
小田 ええ、ええ。
和枝 で、私が小さいころから、
北海道からさんま船でやって来るお客さんが
すごく多かったんです。

そのとき、みなさんがおみやげに
六花亭のお菓子の詰め合わせの「十勝日誌」を
買って来てくださって。
小田 それは「excellent」ですね(笑)。
一同 (笑)
和枝 祖母に
「このお菓子は、お客さんに出すんだから。
 子どもは食べちゃだめ」
と言われて、神様のとこに上がるんですね。

あれが、ほんとに憧れで‥‥。
小田 当時「よく売れるなあ」と思ってましたが
そのせいか‥‥(笑)。
一同 (笑)
和枝 六花亭さんの包装紙って
きれいなお花の絵柄じゃないですか。

いつか、母がていねいに取っておいた
その包装紙を
段ボール箱に貼ってくれたんです。

だから、子どものころの
「大切なものを入れる宝箱」は、
六花亭の包装紙の段ボール箱だったんです。
小田 実際、帯広の人口の割には
売り上げが大きかったんですよ、当時から。

同業他社のみなさんから
「おまえのところ、人口15万の町で、
 よくそれだけ商いあるよね」
と、よく言われてたんですけれど
父が
「おみやげで、
 よく使ってもらってるんですよ」と。

僕も子どものころ、そう感じてました。
ありがとうございます。
和枝 箱を開けると、いろんなお菓子があって
それこそ「ひとつ鍋」が2個入っていて‥‥。
小田 ああ、そんなことまで覚えてくださって。
うれしいなあ。
和枝 「ホワイトチョコレート」が2枚で、
あとは「白樺羊羹」と「大平原」と‥‥
もう、どれから食べたらいいんだろうって
ワクワクしてたまらなくなって。

本当に、ずっと憧れていたんです。
小田 舞台関係のかたに
うちの花柄の紙袋を「何十枚かくれ」って
言われたことがあってね。

何にお使いですかとお聞きしたら
あるお芝居で
北海道から帰って来たという設定のとき
「ただいま!」って
手に、うちの紙袋を持ってるんだって。

そのことが、
とてもうれしかったのを思い出しました。
ありがとうございます。
糸井 この人、本当に会いたがってたんです。
まるで、
ベルサイユ宮殿にでも行くかのような。
和枝 本当に、夢のようなんです。
その社長に「さいきっつぁん」って。
一同 (笑)
糸井 海を通じて縁が深かったということですね。
小田 どこから来たんだろう、さんま船は。
和枝 厚岸とか、釧路とか‥‥あと稚内の人も。
小田 帯広で買っていくのならわかりますけど
厚岸からの人が買っていくなら
数日前から
おみやげにしようという心持ちがあって
準備してるはずですね。

それは、もう、ますますうれしいですね。
糸井 喜ぶぞと思ってるわけですよ。
小田 斉吉さんの喜びかたも良かったんでしょう。
和枝 だって、2個ずつとか入ってるんですよ?
ほんと、たまらないんです。

これ1個食べると、
もう1個しか残っていないぞっていう‥‥。
一同 (笑)
和枝 だんだん大きくなると、
「ひとつ鍋」の名前の由来なんかを
読むようになるんです。

そうすると
開拓のころの時代にイメージが膨らんで、
本当にいちいち、たまらん‥‥。
小田 照れるなあ(笑)。

今日帰ったら
仏さんに「金のさんま」を上げときます。
一同 (笑)
糸井 創業されたのは、お父さんですか?
小田 実質的な創業者は、親父ですね。

その前に、おじさんが三年ばかりやってますけど、
説明がわずらわしくなるんで
僕が「創業者は父」と決めまして(笑)。
和枝 ここへ来る前、
八木澤さんがいろいろ調べてくださったんですが
帯広の地って
最初は「13軒」からはじまったとか。
小田 まあ、いろいろ異説もあるんだけど、
開拓使が入ったとき、
この地が「13軒の生活者からはじまった」とは
言われていますね。
和枝 でも今回、はじめて帯広にうかがって‥‥
こんなに立派に耕したんですね。

飛行機から見たら、畑が絶景でした。
小野寺 本当に、すごかったですね。

あれは「人が、手で耕したんだな」と
思いました。
和枝 だから、あの帯広のきれいな畑を見て、
気仙沼はまだ瓦礫ですけど
「大丈夫、私たちもいつか、やれる」って。
小田 うん。
和枝 そういう気が、してきたんです。
小田 やれますよ、きっと。
和枝 はい(笑)。

<つづきます>
2012-10-05-FRI
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