第3回 有名になる能力はなかった。
糸井 陸上競技がある種のアートだとすると、
ひとりひとりの選手は
じぶんという素材をフルに活用して、
「その素材が劣化したら
 新しい作品はできない」
っていうアーティストですよね。
為末 そうですね。
だから、引退するときは、
老後がすごく早くきちゃった、
みたいな感覚がありました。
糸井 あー。
為末 陸上選手って、だいたい二十代中盤くらいから
「老いる」という感覚を味わっていくんですね。
体がちょっと固くなったり、
回復が遅くなったりという感じで。
そうすると、だんだん体が
思うように動かなくなる「かなしさ」と、
いましかできないことを最大限に
やっているという「よろこび」が
セットになってやってくるんですよ。
それは、まぁ、強烈な体験ですね。
糸井 強烈でしょうね。
とくに、トップクラスになればなるほど。
それは、やっぱり「死」に近いというか。
為末 いや、そう思います。
糸井 ぼくの知ってる野球選手で
田口壮さんという人がいるんですけど、
田口さんは、選手生活の晩年にケガをして、
手術をして、リハビリをしながら
ずっとオファーを待ってたんですが、
けっきょく行く道がなくて引退されたんです。
そのときに、よくない表現かもしれないけど、
やっぱり「死に近いもの」を感じました。
スポーツの選手って、二度死ぬんだな、って。
為末 たぶん、どの選手も、引退に向かうとき、
「ぼくの競技人生はいったいなんだったのか」
ということと向き合うんだと思います。
もちろん、客観的にじぶんを判断して、
「もう、現役を続けるのは厳しいな」
ということはわかるんですけど、
もしかしたら、あと一回くらい、
「あの体に戻れるんじゃないか」
という希望もかすかにあって、
それが最後まで消えないんです。
その希望の割合は、時とともに
どんどん小さくなっていくですけどね。
糸井 はーー。
為末 そのときに、やっぱり、意味を考える。
じぶんの競技人生は、
いったいなんだったのかと。
ぼくはまだ人が亡くなる局面に
はっきり直面したことがないんですが、
本の中などで、亡くなる人の遺書とか、
死ぬ間際の心理のこととかを読むと、
けっこう、競技人生の終わりと
近いものを感じます。
こう、終わりに向かって、
じぶんの整理をしていくような感じとか。
糸井 やはり、そこでひとつ、終わって、
別の人生がはじまるわけですね。
為末 はい。
糸井 それの二度目の生き方が、
別のすばらしさを得たとしたら、
競技を観ていた人もすごくうれしいでしょうね。
為末 それはそうでしょうね。
糸井 ぼくがいま、話しながら思い浮かべたのは、
被災地の人たちだったんですよ。
被災地の人たちと会っていると、
失ったつらさ、なくしてしまったかなしさ
というのはもちろん感じるんですが、
別のことに向かって歩き出している
強さみたいなものも、すごく感じるんですよ。
為末 ああーー。
糸井 あれだけのことに遭遇して、
なおかつ前を向いて、
また積み上げていくっていうのは、
すっごいんですよ、やっぱり。
それを見るときのぼくらの視線というのは、
こう、なんというか、
ありがたいんですよ。
為末 うーん。
糸井 だから、被災地の人たちに対して、
根っこのところに、
いつも尊敬の気持ちがあるんです。
それは、いま、為末さんの話を聞いていて
逆に整理ができた。
為末 なんていうんですかね、
まぁ、すごい不条理というかね、
理不尽だなって、思うことがあるんです。
たとえばあるとき、大きなケガをする。
しばらく愕然とするんですけど、
そこからまた積み上げていくしかないから、
淡々とリハビリをしていく。
でも、スポーツの現場って、
リハビリして、リハビリして、
やっと競技に復帰できた選手が、
最初の試合でまたケガをすることって
ときどき、あるんですね。
そういう選手が、次の週ぐらいに、
前と同じリハビリ室で、
また同じリハビリをやってるの見たりすると、
これは‥‥なんなんだろう?
っていうことを思うときがあって。
糸井 あああ。
為末 ぼくはそこまで激しいケガはしませんでしたが、
やっぱり、積んできたものが
なんの理由もなく、ガーッと崩されて、
崩されたあとに、またイチから積んでいく、
っていう姿を思い浮かべると、
まったく同じだとはいいませんけど、
被災地の方に通じるものがあるのかなと。
糸井 そういうふうに、
淡々と積み上げていくことって、
じぶんにはとてもできない、って思うけど、
実際にそうなったらやるしかないというか、
じぶんも淡々とそうしちゃうんじゃないか
っていう気もするんです。
為末 ええ、ええ。
糸井 もしかしたらじぶんもできるのかも、
って思う理由がひとつあって。
震災の直後に被災地に行くと、
向こうの人たちが、
ご飯をごちそうしてくださるんです。
ぼくらとしては、支援するつもりなのに、
ごちそうになっちゃいけないんじゃないか、
という思いがあるわけです。
ところが、被災地の人たちは、
「ごちそうしたいんだよ」って言うんですね。
それは、ぼくのなかで、
いろんなこと考えるときの原点になっていて。
人って、じぶんを生かすためのエネルギーを
ただただ吸収してるだけの生き物じゃなくて、
「人を生かす」ことを、やりたいんですよ。
それがもう、本能に組み込まれている気がする。
逆に、「そこはやんなくていいから」
って言われたら、すごくつらいと思う。
為末 うん、うん。
糸井 「ごちそうしたいんだよ」っていう、
その言葉に込められた「ほんとう」に、
ぼくはいろんなものを思い出させてもらった。
なんか、ちょっとね、ラクになったんですよ。
だから、それからは、
どんどんおごらせてあげるようにした(笑)。
為末 ぼくらも、震災のあと、被災地に行って、
子どもたちに陸上のことを
いろいろ教えてたりしていたんですけど、
あとから、手紙をもらったりすると、
「じぶんたちが手づくりしたストラップを
 選手の人たちが受け取ってくれて、
 身につけて『ありがとう』と
 言ってくれたのがすごくうれしかった」
って書いてる子がすごく多かったんです。
糸井 それ、「ごちそうしたい」と
同じじゃないですか。
為末 そうなんですよ。
だからなんか、人って循環するっていうか、
やっぱり、感謝して、される、
っていうふうに、ぐるっと回ってないと
きっとダメなんでしょうね。
糸井 やせ我慢じゃなくてね、
もっとやわらかい気持ち、
人はありがとうって言われたい、っていうか。
為末 うん。
糸井 歳とってくると、
ますますそうなってくるんですよ。
じぶんができることの限界は知ってますし、
あと、ほしいものが減りますから。
為末 ああ、なるほど。
糸井 じぶんがおいしいご飯を食べるのもいいけど、
ごちそうしたご飯を
おいしく食べてる人がいるほうが、
じぶんがうれしい、みたいになっていく。
でも、そういう気持ちは、
ちっちゃい子どものなかにも
ちゃんとあるような気がするなあ。
為末 2つあるのかもしれないですね、段階が。
「生物」として生きてるという段階と、
「人」として生きてるという段階と。
(つづきます)
2014-09-04-THU