竹籠屋 五代目 奮闘記

たけ あけび ぶどう くるみ いぐさの かごや どうぐや 市川商店たけ あけび ぶどう くるみ いぐさの かごや どうぐや 市川商店

東京・南千住にある、明治から続く
「暮らしの竹かご屋 市川商店」。
関東を中心に、日本各地の、
「あらもの」と呼ばれる
生活雑貨としてのかご製品を中心に扱うお店です。

その若き当主が、市川伴武さん。
(バンブーさんじゃありませんよ、ともたけさんです。)
市川さんは、20代から海外で
日本語を教える仕事をしていたのですが、
いまから3年前、31歳のときに、訳あって、
突然、実家のかご屋を継ぐことになりました。

100年以上続いた家業とはいえ、
その気のなかった本人は、まったくの不案内。
いざ継ぐ決意をして知ったのは、
高齢化によって廃業してしまう
竹の職人さんが多く、
だんだんと使う人も減っている、
ということでした。
「竹」にかぎらず、各地に残っている
その土地の植物を使ったいろいろなかご製品も
おなじ運命のようでした。

かつては、用途別に、
数え切れない種類のかごがありました。
(たとえば「あずきを洗う」ためだけに
うまれたかごもあったそうです。)
けれども、戦後、生活文化の変化や、
プラスチックの普及とともに、
だんだんと先細っていった、日本のあらもの。
そして少しずつ消えていくように見える、手仕事の世界。
そこに「えいやっ!」と飛び込んだ市川さんは、
体当たりで、おもしろがりながら、
「その先」を模索しています。

縁あって、市川さんの仕事を知った「ほぼ日」は、
市川さんの「いま」を伝えるとともに、
販売というかたちでお手伝いができたら、と思いました。

6月9日(金)からはじまる
TOBICHI2での展示販売会
「たけ あけび ぶどう くるみ いぐさの 
かごや どうぐや 市川商店」
に向けて、市川さんに、お話をうかがいました。

このコンテンツについて
とじる

その1創業明治40年。
食べられた時代、食べられなくなった時代。

うちは「暮らしの竹かご屋 市川商店」と言ってますが、
竹製に限っているわけではありません。
たとえば大きく「かご」と言っても、
産地や、用途によって、素材が変わるので、
木の皮や、蔓(つる)を使ったものもあります。
店では、日本全国いろいろなところで作られた
手仕事のかごやざるを中心に、
自然素材のものをあつかっています。

建物は戦後だと聞いています。
家業が始まったのは明治40年ということなんですけれど、
それは記録上ですね。
ほんとは、初代はもっと古くて、
明治の中頃にはもう始めていたらしいんですよ。
それがわかったのは最近です。

うちの三代目、私の祖父ですけど、
手記が出てきて、
それを読んだ伯父が
家系図みたいなものを作ってくれて。

最初は、足立区の舎人っていうところ、
そこで、房吉という人が
豆腐屋の裏でカゴを編んでいた。
それが初代です。

初代の頃から、こっちのほうに
商売には出てきていたみたいですね。
マーケットがあったのか、
すぐそこに隅田川駅っていう、
貨物の駅があって、
今でも毎日稼働していますから、
昔から物流の拠点だったとか、
そういうことがあったのかもしれません。
(※隅田川駅は明治29年開業)

南千住の駅から歩道橋を越えてくると、
左に見えているところが、隅田川駅。
すごいとこですよ、あそこ。
私たちも子どもの頃から見ていて、
ただ、だだっ広くて、
何やっているかは分からなかったんですけど。

道路は国道4号線があって、
日光街道や奥州街道につながっていますから、
北からの荷物が入ったり、出たりする。
ここは、おそらくそういう場所なんですよね。

自分でかごを作っていたのは、
初代から三代目までです。

三代目の頃からは、
仕入れのほうも本格的にはじめたようです。
三代目の時はもうこの場所で、
関東近郊の職人にガンガン作ってもらい、
できたものをここに集めて、
取引先に納めるっていうような。
ここでも、職人に3人ほど住んでもらって、
毎日作っていたらしいです。

三代目が私の祖父です。
その頃が一番良かったんですね、この店は。
戦後の、昭和20年代、30年代。
これは竹業界、どこもそうだと思うんですけど。

戦争でいろんなものがなくなったときに、
すぐ作れる、すぐ使えるのが竹製品でした。
竹は成長が早いし、
バンバンバンバン生えてくるし。

戦後に限らず、それ以前、
段ボールなんかがない時代には、
業務用の、物流で使うコンテナみたいなものも、
カゴだったんですよね。

うちの店の天井のほうの棚、
乗っかってるものは売り物じゃなくて、
むかし、よく使われていたものを置いてるんです。
もちろん、うちであつかっていたものです。
その中に、四角いカゴがありますよね。
角カゴっていうのんですけど、
それが、物流の業務用。
昔は、あれを、うちでボンボコ作って、
作っては出し、作っては出し、という。

写真中央から右の大きいかごが物流の業務用。
左の箱はつづらになるかご。
和紙を貼って漆を塗ると完成。

その後、段ボールやプラスチックが出てきて、
竹に取って代わられるようになると、
かかえていた職人さんたちも、
もう雇えないっていうか、仕事が減っていって、
みんなそれぞれ地元に帰ったという話は聞きました。
昭和30年代後半から40年代くらいですね。

父が継いだのは、もう少しあとです。
昭和50年代後半で、職人がどんどんいなくなる、
いちばん厳しい時代だったと思います。
私が生まれたのもそのころです。
昭和57年うまれですから。

父の時代には、仕事のバランスは
ずいぶん変わってしまってたようです。
店の脇の、お隣との間に、
ちょっとだけ竹は置いてありましたけど。

“竹を編む”っていうことじゃなくて、
いわゆる“ちょっとした仕事”ですね。
「ちょっと竹を削ってほしい」とか、
「竹のバチを作ってほしい」とか、
神社とか、お祭り道具屋さんから
そういうふうなことをたのまれたりして。
結構あるんですよね、そういう注文。

例えば、
上の棚に“亀の甲ざる”っていうのがあるんですけれど、
あれに底から縁に十字に針金をつって、もっと丈夫にする、
そういう、補強ですね。
そのやりかたを、
父は祖父についた時にまず教えられて、
それが最初の仕事だったって言ってました。

父が四代目で、
ですから私が五代目、というふうになってますね。

なんで継ぐことになったのか、ですか。
なんででしょうねぇ。

(つづきます。)

2017-06-07-WED

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