【ことしのわたしは、たのしい@】 「書くこと」自体が、充足につながる。
写真は、民族学者の梅棹忠夫さんが生前に書きとめた、 膨大なメモの一部です。 梅棹さんは高校時代に読んだ本で レオナルド・ダ・ヴィンチが「メモ魔」だったと知り、 そのときから日々の発見を なんでも手帳に書きとめるようにしたそうです。  『高校生だったわたしには、この偉大な天才の全容は  とうてい理解できなかったけれど、  かれの精神の偉大さと、かれがその手帳になんでもかんでも  かきこむこととのあいだには、  たしかに関係があると、わたしは理解したのである。』(※1)  そのときに梅棹さんの生活のなかに「書くこと」が組み込まれ、 梅棹さんは一生を通じて、膨大な数のメモを残されました。 どうして梅棹さんは「書くこと」をやめなかったのでしょうか。  梅棹さんが書かれた、「情報」ということについての ある有名な一説があります。  『情報というのはコンニャクのようなもので、  情報活動というのは、コンニャクをたべる行為に似ています。  コンニャクはたべてもなんの栄養にもならないけれど、  たべればそれなりの味覚は感じられるし、満腹感もあるし、  消化器官ははたらき、腸も蠕動運動をする。  要するにこれをたべることによって、  生命の充足はえられるではないか。  情報も、それが存在すること自体が、生命活動の充足につながる。  情報活動が、べつになにかの役にたたなくても、  それはそれでよろしい。』(※2)  「ほぼ日手帳」に、なんでもいいから書きとめることが、 とくになにかの役にたつわけではないのに すごく「たのしい」のは、 この梅棹さんのコンニャクの話と似ているような気がします。  「書くこと」自体が、充足につながる。 べつになにかの役にたたなくても、それはそれでよろしい。 そんなふうにいえるのではないでしょうか。    ※1 『知的生産の技術』より(岩波新書、1969年) ※2 『情報の文明学』より(中央公論新社、1988年)
2013-08-16-FRI
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