「志の輔らくご」のすごさ。
生島淳さん(スポーツライター)の想い。

ほぼ日のコンテンツ、
「青山学院大学が箱根駅伝を面白くする(かも)。」
名解説を繰り広げてくださった
スポーツライターの生島淳さんは、気仙沼市のご出身です。
しかも生島さんは、志の輔さんの大ファン。
1回目の「気仙沼さんま寄席」に行けなかったことを
たいへん無念に思っているとか‥‥。
そんな生島さんが、
「志の輔らくご」への熱い想いを書いてくださいました。

生島淳さんプロフィール
ひょっとしたら、そこに奇跡があるかもしれません。――気仙沼さんま寄席 生島淳

2012年3月25日、
私は気仙沼中学校の同級生からこんなメールをもらった。
「志の輔師匠、思う存分、笑わせてもらいました! 
そして‥‥涙ぐみました。
チケットプレゼントしてくれて、ありがとう!」

その日は、私の生まれ故郷にある気仙沼市民会館で、
立川志の輔師匠による
「第1回 気仙沼さんま寄席」が行われたのだった。
市民会館は私にとっても思い出の場所で、
かつてはピンクレディーのコンサートを聴きに行ったり、
『スター・ウォーズ』を観たり、自分でも学芸会や、
歌唱部のお助け部員のひとりとして
舞台に立ったこともある。

そのメールをもらって、私もうれしかった。
同級生の女性は、東日本大震災が起きた時、
私の姉が行方不明になっているのをラジオで聞き、
いろいろとヘルプしてくれた。
私は「さんま寄席」のチケットを持っていたのだが、
当日、東京で野暮用があって、どうしても行けなくなった。
だから、彼女にプレゼントしたのだ。

いい気分でいたのだが、
翌日、ほぼ日の西本さんから
ショッキングなニュースを聞いてしまった。
「生島さん、志の輔師匠の『中村仲蔵』、
 なんだかとんでもないことになってましたよ! 
 いやあ、すごかった!」
その言葉を聞いた瞬間、
私の眉間には一本、深いしわが刻まれたことだろう。
ハッキリと、
市民会館で師匠の噺を聴いた人たちに嫉妬した。
私は志の輔師匠の『中村仲蔵』をその時点では、
まだ聴いたことがなかった。

歌舞伎マニアの私にとって、
江戸時代、たたき上げで名題にまで出世した仲蔵の噺は
(松井今朝子さんの『仲蔵狂乱』を読むとイイですよ)、
古今亭志ん朝のCDなどで聴いていたが、
よりによって、
気仙沼での中村仲蔵を聴き逃してしまうとは!
やってしまった‥‥。
震えるような感動を覚える機会を、
私はみすみす逃してしまったのだ。

▲2013年「気仙沼さんま寄席」にて。
 『中村仲蔵』上演中の立川志の輔師匠。

私の人生には、何度か「大魚」を逸した経験がある。
中でも悔やまれるのは、
第2回WBCの決勝戦を見逃したこと
(成田空港で貨物機が着陸に失敗、
 滑走路が閉鎖されて、アメリカに行けずじまい)。
そしてさんま寄席での『中村仲蔵』。
これを聞けなかったことで、やはりスポーツや落語、
芝居は「一期一会」なのだと、改めて痛感した。

志の輔師匠とは、少しばかり接点があった。
私は広告代理店に勤務していて、
ハッキリ言ってダメダメな給料泥棒だった。
唯一、誇れる仕事と胸を張れるのが、
かつて北陸地区限定のビールがあり、
志の輔師匠をCMキャラクターに提案して、
それが実現にいたった仕事だ。
その仕事にかかわった人、みんなが幸せな顔をしていた。
それくらい、志の輔師匠には周りを幸せにしたり、
元気にする力が当時からあった。
その縁で、当時は草月ホールで行われていた独演会に
よく足を運んだのだ。
その後、子育て期間は
なかなか独演会に足を運ぶこともままならなかったが、
少しずつ落語に復帰していた時期だった。
そして私は「さんま寄席」を逃したことで、
ハッキリと「志の輔ハンター」になることを決心した。
一期一会を求めて。

以来、全国に足を運んだ。
大阪。
松本。
仙台。
福岡。
東京近郊でいえば、六本木、赤坂、川崎市中原区、
新富町、練馬に、地元の府中。
それに、渋谷PARCO劇場。
チケットが当たれば、万難を排して足を運んだ。
時には仕事相手に、許される範囲での嘘をついて。
いつも、聴き終えると
中編小説を読んだ時のような感慨に浸るのだった。
たくさんの噺を聴いた。
日本史の教科書で知っていた
荻生徂徠が主人公の『徂徠豆腐』。
芸術家父子の物語、『抜け雀』。
伊能忠敬を基にした新作、『大河への道』。
私はこうした「時代物」が好きなのだが、
一方で小学生の息子が大爆笑していた
『みどりの窓口』のような
肩の凝らない新作も楽しい。
志の輔が描きだす「クレーマー」は
落語界の最高峰だと思う。

しかし、ハンターとなってからは
なんといっても『中村仲蔵』だ。
私はこの噺を赤坂ACTシアターで2回、
そして松本でのさだまさし、立川談春とともに行われた
「十八世中村勘三郎 追悼の会」でも聴いた。
中でも、私も大好きだった勘三郎の追悼会では、
仲蔵と勘三郎がシンクロして、深い、深い感動を覚えた。
その夜のお酒は、たいそう美味かった。

赤坂では三階席で聴いた。
驚いたことに、噺の終盤になって後ろの席の男性が嗚咽、
といっていいほどの勢いで泣き出した。
それほど素晴らしい出来栄えだった。
芝居と落語は、
演者に近い席で観た方がいいに決まっている。
しかし、赤坂で志の輔師匠は大きな空間を支配していた。
全員の耳、そして集中力を舞台に吸い寄せていたのだ。

きっと、2012年3月、
気仙沼市民会館でも空間を支配していたのだと思う。

今回、原稿を書くにあたって音源を聴かせてもらったらーー
なんというか、もう、
その場にいなかったことが悔しいのである。
震災からさほど時間を経ていない
気仙沼と、志の輔師匠の奇跡のケミストリー。
なにも後ろ盾がなく、舞台で孤独な思いをした仲蔵が、
当時の気仙沼にぴたりとハマっている。
この噺を選んだ師匠は流石、と膝を打った。
そして私は、津波で流された姉が、
志の輔師匠を聴けなかったことが、悔しいのである。
近くの公民館まで数百メートル逃げていれば、
奇跡を体験できたのに。
やっぱり、生きて、たくさんの「いいもの」に触れないと、
せっかく生まれてきたのにもったいないじゃないか、
と私は姉に言いたい。

舞台、劇場は、
その町の歴史や使ってきた人の思いによって、
性格を変えていく。
分かりやすいのは歌舞伎座だが、
最近、閉鎖された青山円形劇場にも
そうした独特の空気感があった。

震災以降、気仙沼市民会館も私には変わったように見える。
高台にある市民会館は、安全だ。
この町で18歳までの時を過ごした私には、
安心の象徴にも思える。
同級生のお母さんは、市民会館近くに避難し、
津波が押し寄せる轟音に背を向けていた。
「暮らしていた町が壊れるのは、
 とても見ていられませんでした」
たぶん、気仙沼市民会館も
そうした思いを共有したのだと思う。

そんな場所に、志の輔師匠が毎年来てくれる。
志の輔師匠は小屋にこだわる方だから、
きっと気に入ってくれたんじゃないかと思っている。
気仙沼さんま寄席。
気仙沼生まれの私にとっては、
震災が縁を取り持った奇跡のような「会」に思える。
特別な一日を求めて、さあ、北へ行こう。

このコンテンツのトップへ
mail
home