格式のある街を代表するホテル。
エマもジャンの、それからボクも
何度かここに来たことはある。

それまでいたホテルから歩いて
一番近い入口がメインエントランス。
メインエントランスを入るとロビー。
ロビーの右手にニューススタンドと
ドラッグストアーがあって、
そこから続く通路の奥にバーがあったはず。
普段着とはいえ、コットンパンツに、
肩に芯は入ってないけど
ダークブラウンのジャケットを着てデッキシューズ。
ジャンもカーディガンを着ていたし、
高級とはいえバーに入って断られないであろう装い。
大丈夫だよねって互いに勇気づけあい、
エントランスの前に到着。

大理石張りの階段が7段。
その正面には重たそうなドアと
ガラスでできた回転扉があって
そこには、ドアマンがいる。
最初からここに来るつもりでやってきたときには
気にならなかった、玄関まわりのしつらえが、
来るつもりなく普段着でやってきたボクらを
拒絶する感じがする。

レストランではよくこう言います。
玄関前の階段は、非日常への階段だ‥‥、って。
よいサービスと心づくしの料理をたのしむための
ココロの準備をさせる。
ココロの準備のできてない通りすがりの人にとっては、
よそよそしさを発信もする。

例えばファミリーレストランの店づくりをしていたとき。
店の前の階段が1段増えるたびに
客単価が1割づつアップする。
それとは逆に、お店の前の階段が
お客様の数を1割づつ減らす役目も果たしてしまう。
だから「みなさんどうぞ」と言いたいお店の前に
階段は、絶対作っちゃいけないんだ‥‥、
と、言われていたコトがあったほど。
ホテルの前の階段も、同じ役目を果たすのでしょう。
ボクらの足はしばし止まります。
そして誰からともなく
「裏に回ればツアー客用の勝手口のような
 入口があったはずだよ‥‥」と。
とぼとぼ歩く。




それにしても大きな建物。
なにしろホテルの四辺をグルリと道路が囲む‥‥、
つまりワンブロックをゆうゆう占有しているワケです。
街を代表するというより、
このホテル自体がすでに一つの街のごとき存在。
ホテルの裏側には大きなバスが横付けできる、
車寄せのある入口があり
ちょうどヨーロッパからの小さなツアーが
到着したところだったのでしょう。
上等なスーツケースがズラッと並んで、
それぞれが届けられるべき部屋が決まるのを待っている。
荷物の整理にホテルスタッフは忙しく、扉も全開。
ボクらはニッコリ。
「ボンジュール」とかって挨拶しながら、
ホテルの中に入っていきます。

スーツケースをぶつけても傷まぬように
石ばりの床のレセプションを通りぬけ、
ロビーにつながる通路に出ます。
その瞬間。
革底の靴を履いてこなかったコトを、後悔します。
フッカリとした毛足の長い絨毯が、
通路の端から端までギッシリ敷き込まれている。
気が遠くなるほど長い通路を覆う、
どこにつなぎ目があるかわらかぬほどに
キレイにつながった唐草状の模様は
そのまま、ロビーの広い床へとつながって、
大きな円を描いてく。
このホテルの、このロビー、
通路のために織られた見事な絨毯で、
一足ごとにズシッと沈む。
濡れた硬い甲板の上で、
滑らぬように体を支えるためにできてる
デッキシューズのゴムの底が、
ときに長い毛足にひっかかり、
転びそうになってしまうほど。
このゴージャスな絨毯を、
すべるように優雅に歩くためには
底まで皮でできた上等な靴でなくては。
エマなんて「この時間にあいてる靴屋があったら
今すぐとびこみたい」って、べそかき声でいいながら、
ぺったんこ靴で一歩、そしてまた一歩。

客室フロアーに向かうエレベーターのホールの前を通って
間もなくロビー。
エレベーターがチンとなり、
中から普段着の宿泊客が次々でてくる。
彼らに混じって、やっとボクらも
ホテルの景色に馴染んだ気がして、ちょっとニッコリ。
気持ちが徐々に落ち着いてくる。
そしてメインロビーの向こう。
細くて暗く、しかも両側の壁には
ターナー風のイングランドの風景画が
ズラッと並ぶギャラリーのような通路のその先に、
ボクらが目指すバーがある。




驚くべきバーでした。
マホガニーの長いカウンター。
その内側の大きな壁の上から下まで
ギッシリ洋酒の瓶が並んださまは、
本の代わりに酒が並んだ図書館のような
厳粛にして壮大な景色がボクらの前にある。
カウンターの中にはバーテンダーが4人いて、
そのカウンターを囲むようにして
ソファテーブルがポツリポツリと置かれてる。
カウンターの奥の方。
3人並んで座れる場所をボクらはみつけて、腰をおろした。
鼻の下に白い髭を蓄えた、
やさしげな顔をしたバーテンダーがボクらに近づき、
ニコリとしながらこういいます。

「ようこそニューヨークへ‥‥、
 何かお作りしましょうか?」と。

ボクらは首尾よく宿泊客を装うコトに成功したよう。
ジャンがニッコリ。
おもいっきりのフランス訛りの英語で言います。

「アナタ、クゥルヴォアズィエイ、オモチですか?」と。

ユックリ、ハッキリした英語で彼はこう答えます。

「ウィ、ムッシュ。
 クゥルヴォアズィエイのご用意はございますが、
 どんなクゥルヴォアズィエイをご用意しましょう」

再びボクらは無言になります。
またバーテンダー氏が
何を言おうとしているのかわからなくって、
目を丸くして固まっっちゃった。
彼は数回。
ユックリと、同じフレーズを繰り返し、
英語が通じないと思ったのか
ボクらの前に洋酒の瓶を次々おいて、
どのクゥルヴォアズィエイにされますか? と、
ジャンの目を見てニッコリとする。
並んだ瓶のラベルをみます。
なんたること。
どのラベルにも「Courvoisier」。
つまりクゥルヴォアズィエイとかかれていて、
どれがそれぞれどう違うのか、皆目検討つかずにお手上げ。
このバーをすすめてくれた、
さっきまでいたバーテンダー氏の
「皆さんがお飲みになりたいクゥルヴォアズィエイに
 出会えますよう‥‥」
とボクらを送り出してくれた
謎の言葉の意味がやっとわかった。

そこまでしても、答えを出さぬジャンに
「Do you speak English?」
と、彼は困り果てた表情で、
コースターの裏にペンで書いてみせます。
もうしょうがない。

「英語はわかるのですけれど、
 実は問題は英語の問題ではないんです」。
しょうがないから、ボクはバーテンダー氏に声をかけます。
「おぉ、いい英語を話されますね‥‥、
 これは良かった、私が言っていることを
 お友達に通訳してはくれませんか?」
と、ホっとした表情で言ったあと、しばし沈黙。
ボクの言葉を頭の中で反芻しながら、ユックリこういう。
「英語の問題でなければ一体、何が問題なのですか?」と。

実は宿泊客ではないということ。
そして何より、「クゥルヴォアズィエイ」という飲み物を、
実は今まで一度も飲んだことなどなくて、
今日はそれを教わりに来た。
バー使いの初心者なのだということを、
ボクらは彼に白状する。

「あなた方のようなお客様に出会えたことに、
 ブランデーの神様に感謝せずにはいられませんな、
 もしワタクシでよければ皆さんに
 クゥルヴォアズィエイの極意を
 ご教授させていただけませんか‥‥」
とウレシイ申し出。
断る理由はどこにもなくて、
たのしい授業のはじまりはじまり。

たのしい授業の内容は、さて来週といたします。


2012-05-24-THU


© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN