そしてそのベルスタッフ。
ミニバーのチェックを
していただきたいのですけれど‥‥、と、
部屋の一角にしつらえられた
小さなキャビネット状の家具の扉を開く。

中には小さな冷蔵庫。
中にはビールやジュースに炭酸、ミネラルウォーター。
上の棚にはいろんな種類のお酒の
小さなボトルがズラッと並んでる。
ナッツやキャンディー、チョコレートなども揃ってて、
とはいえどこにでもあるミニバーだった。
ところが彼。
それをボクに見せながら、こう言うのです。

ミスターサカキが飲んでおられた
ヘネシーのミニチュアボトルが
あいにく在庫がございませず、
代わりにレミーマルタンのご用意になっているのです。
お好みの銘柄をご用意できない不手際を
お許しいただきたく、
それでもどうしてもとおっしゃるのであれば
大きな瓶にはなりますが、
当店のレストランよりお持ちいたしますが
いかがされますか? と。




ブランデーであれば
どれでも良いという訳ではない世界がココにはあるんだ。
銘柄にこだわる食文化。
それまでボクがお酒の世界に
あまり関心を持たなかったというコトもあり、
あまりに新鮮。
洋酒というのは、造り手によって
それほど味が異なるモノなの? と、聞いてみた。

お酒というモノは料理と違ってプライベートな存在。
お客様がいつも飲み慣れているモノが
ミニバーに揃っていれば、
「家に帰ってきた」と感じていただける。
旅先のもう一つのわが家。
そうなってはじめて、もう一度、
私どものホテルを利用していただけると信じております。
ここにあるスコッチもジンもウォッカも、
もしお好みのモノでなければ
客室係のお申し付けいただければ、
即座に、それからこれからずっと、
ミスターサカキのご自宅のバーと
同じにさせていただきますので、お教え下さい‥‥、と。

旅先での安心を実感するためのホテルのミニバー。
外出先での、安心を味わうためのバーの酒。
なるほど、そうした考え方もあるのだなぁ‥‥、
と合点しながらボクは彼に素直に告げる。

実はブランデーというモノを味わったのは
今日がはじめて。
向かいのバーのバーテンダーが薦めてくれたのが、
たまたまヘネシー。
それが他のブランデーとどれほど味が違うかを、
ボクはいまだ知らない若造。
だから今晩は、このレミーマルタンを味わって、
先ほどのヘネシーとどう違うのかを
ジックリ堪能したいと思う。
だからこれはこのままで。
どうもありがとう‥‥、
と、そういうボクに、彼はニッコリしながら答える。

よろしゅうございました。
では次回、私共をご利用の節にはマーテルの
ミニチュアボトルをご用意させていただきましょう。

部屋に落ち着き風呂に入って、最初は一生懸命、
レミーマルタンとヘネシーの
味の違いを探り当ててやろう、と
ヘネシーの味を思い出しつつ飲んでいた。
けれど、それもそのうち馬鹿らしくなる。
どちらもおいしく、しかもこの手に
ブランデーが注がれたグラスがあるというコトだけで、
気持ちがやさしく穏やかになる。
それでいいんだと、思うと
体の緊張がとけベッドがやさしくボクの体を受け止める。
豊かな気持ちで眠れる夜は、
夢を見るのも勿体ないほどココロおだやか、
ありがたかった。




次のステイで用意されたマーテルはまたおいしくて、
けれどどれかに決めてしまうほどの違いはなくて、
それで結局、それからずっとボクのミニバーには
ヘネシー、マーテル、レミーマルタンが2本づつ、
仲良く並んでボクを待ってた。
そんなコトを、思い出し、
それで自分の銘柄をまずブランデーで作ってみようか。
バーでも、ホテルのミニバーでも。
酔うためでなく、自分を向きあい
時間をおだやかに過ごす
精神安定剤としてのブランデーを、
かっこよく注文できるようになれば、
お酒を嗜む良いきっかけになるのじゃないか。

そう思って、まずブランデーの章を
読破してやろうか‥‥、と、思って読むも、
まるで一向に頭の中に入ってこない。
だって味がわからないモノ。
好きか嫌いかわからぬものを
ただひたすら暗記するように読んだところで、
オモシロクもなければ
どれか一つに決めるコトなんてできもしない。
どうしよう‥‥、と思って
それで、ボクは一計を案じます。

名ブランデーのほとんどが
フランスで出来るというコトを、まずは学んだ。
そして当然、それらの名前はフランス語読みと、
英語読みで印象がかなり異なる。
その双方の印象が最も違って、
しかも最もフランス語のように聞こえる銘柄を
自分の好みとするのもいいんじゃないかと思った。
だって、海外の日本料理店に行って
「テンプーラ」とアメリカ訛りで注文するより、
「てんぷら」とキレイな日本語アクセントで
注文するほうが、粋で格好良く聞こえるじゃないですか。
こいつアジア人のクセして、
フランスかぶれていけすかない、
と嫌われてしまうリスクもあるかもしれないけれど、
まぁ、それはそれ。
アメリカという国では
ファーストインプレッションで
ガツンと印象に残すことの方が大切だから、
とそれでボクは、朗読会を開催することにしたのです。

場所はボクの部屋。
朗読者はエマ。
それからジャン。
エマは英語で、ジャンはフランス語で、
ブランデーの銘柄の名前をひとつ、
またひとつ読み上げてもらう。

英語で読み上げられるブランデーの名前は
ボクには聞き取りやすく、
けれどおいしさや趣というものにかける、
タダ「高級な酒」の名前にしか聞こえない。
一方、フランス語で読み上げられる名前はどれも、
見知らぬ国の魔法の言葉のようでウットリしちゃう。
ただ、それを自分の口から発してキレイに聞こえるか、
というといささか不安になるモノもある。
レミーマルタンは「ヘミマフタン」
のようにしか聞こえず、
マーテルはマルテルと
面白みにかけてまるでドイツ語みたい。
カミュ、バ・アルマニャックと
次々、名前が読み上げられて、
けれどとある銘柄の名前にボクの耳は釘付け。

クルボアジェ。

エマの口からは「コーバジェ」と聞こえるそれが、
ジャンの読みでは「クゥルヴォアズィエイ」と
まるで呪文のように聞こえる。
エマも、なんだかエキゾチックでステキな言葉と
小さく「クゥルヴォアズィエイ」とジャンを真似、
ボクもそっと「クゥルヴォアズィエイ」と声にしてみる。
いいんじゃないか‥‥?
クゥルヴォアズィエイ。
クゥルヴォアズィエイと、
何度も口に出して言ううち、
もうクゥルヴォアズィエイが
どんな香りで味なんだろうと、
いてもたってもいられなくなり、
ボクらは堪らず家を出る。
目指すは近所のホテルのバー。
クゥルヴォアズィエイとは一体どんな酒だったのか。
そしてボクがそのクゥルヴォアズィエイに
魅入られた理由は来週、ごきげんよう。


2012-05-03-THU


© HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN