おいしい店とのつきあい方。
サカキシンイチロウの秘密のノート。
(四冊目のノート)
レセプションで予約をしている名前を告げます。
予約の名前は母の名前でした。
その日の晩餐の主役は、
あくまで母であってワタクシではありませんから。
ユカ・サカキ、エスコーテッド・バイ、
シンイチロウ・サカキ、の夜であったワケですネ。
チャーミングな案内係の女性に
こちらへどうぞ、と連れていかれたテーブル。
普通のテーブルでした。
二人が横に並んで座れるブース席のようなテーブルで、
レストランの客席ホール全体が見渡せる、といっても、
目立つような特等席ではありませんでした。
ただ、ボクたち二人が着席するのをまって、
そのテーブルを後にする案内係の彼女が、
そっと小さな声でこう言いました。
「ミセス・サカキ。今晩が特別な夜になりますように。
 ‥‥楽しんでいかれてくださいネ」
すべてはその瞬間から始まったのです。

しばらくして長身の紳士が近づいてきました。
笑顔で‥‥。
そしてボクたちのテーブルの前に立ち止まり、
小さくお辞儀をしながら静かな声でこう言いました。

「ミセス・サカキ。お誕生日、おめでとうございます。
 当店の支配人でございます。
 何か特別なご要望がございましたら、なんなりと。
 今日、奥様は当店にとって
 特別なお客様でございますから」


あら、あなた、ワタシが誕生日ってコト、
言いふらすようなことしたの?
大げさなコトは気恥ずかしくて
ワタシ、苦手だって、知ってるでしょう?

そんなこと言ったって、誕生日だからって言って
やっと予約を取ってもらったんだヨ。
この店、なかなか予約が通らないので
有名な店なんだからネ。

というようなコトを言いながら、
まったく素直じゃないよなぁ‥‥、お袋も。
なんてちょっとむくれてみせたりしていたのであります。
いつものことです。
と、テーブル担当のウェイトレスが
メニューを持ってやってきます。
ローストビーフが売り物のお店で、
メニューはとても簡単。
あとからやってくるシェフに食べたいお肉の大きさと
焼き加減を言えば、目の前でその通りにカットしてくれる。
それにいくつかのサイドディッシュと
デザートを選びさえすれば、
楽しくおなか一杯になれるというシステムで、
その説明を一通りし終わった彼女は、
こう一言付け加えました。

お好きなデザートをあとでそっと教えてくださいネ。
ワタシ達からのプレゼントに
させていただきますから‥‥、
ハッピーバースデー。

このウェイトレスさんも
ワタシの誕生日のコトを知ってるのネ‥‥、
参っちゃうわ。
と、母は言う。
ボクたちのテーブルの担当の人だからネ。
お母さんが誕生日だって知ってて当然だヨ。
へそ曲げないでヨ‥‥、お願いだから。
母が怒り出さないよう、ボクは気が気じゃありません。
放っておいてもらった方がありがたいのになぁ‥‥、
なんてお店の対応をのろうような
気持ちにさえなり始めていたのです。

ところが、しばらくしてボクらの担当じゃない
ウェイトレスが近づいてきて、こう言います。
「お誕生日なんですって‥‥、おめでとうございます」
これにはちょっとビックリしました。
へぇぇ、すごいなぁ‥‥。
誰が彼女に挨拶しなさい、って言ったのかなぁ?
担当じゃない人がやってくるなんて、
アメリカのレストランでは普通、絶対ないことだもんな。
不思議でした。
しかも、その不思議なコトは
これだけに終わらなかったのでありました。

ボクたちのテーブルの前を行き来するウェイトレスが、
必ずちょっと立ち止まって母に向かって笑顔を投げる。
おめでとう、と言葉を添える人もいれば、
陽気に手を振ってそのまま通り過ぎていく人もいて、
でも必ずテーブルの前を通る人は
必ず母に敬意を払って通り過ぎてく。

あら、ワタシってまるで有名人みたいネ。
と、母はまんざらでもない様子です。
しかも、近くを通るウェイトレスばかりでなく、
遠くでサービスをしていたウェイトレスも
その仕事が一段落すると、
一直線にボクたちのテーブルを目指して飛んできて、
それで母にお辞儀をする。
まるでその日のサービスの真ん中にボクの母がいる‥‥、
ような、そんなただならぬ雰囲気を感じながら、
食事は順調に進んでいきます。

さすがに母も、ちょっとずつごきげんになってくる。
ほっと一安心。
ローストビーフと格闘です。


それにしてもすごい繁盛店だなぁ‥‥、
と食事しながらぼんやりそんなことを思いました。
300席ほどの大きな店。
それが完璧に満席。
テーブルとテーブルの間を20人近いウェイトレスが
踊るように、泳ぐように行ったり来たりしながら
サービスしてる。
で、そのうちボクはあることに気が付きました。
ほとんどすべての従業員が、ある作業とある作業の間に、
必ず通らなくてはならない通路が
ボクたちのテーブルの前に横たわっている‥‥、
というコトに気が付いたのです。

ボクたちのテーブルのすぐ横に、
バーへの出入り口があったのですネ。
だからサービススタッフの彼女達は、
ワインやビールのお替りをもらうたびに、
ボクたちの横を通り抜ける。
当然、そのとき、彼女達は笑顔です。
だって、お酒のお替りをもらったっていうことは、
チップを余分にもらえるということで、
だから自然と彼女達の顔からは笑みがこぼれる。
そんな作業の途中に、誕生日のお客様が座ってる。
おめでとうございます‥‥、
って自然に口にでるくらいごきげんな気分で
ボクたちの前を通り過ぎて行くように仕組まれている。
感心しました。

ボクたちは、巨大なサービスの渦の
ど真ん中に座らせてもらっていたのでありました。

そしてその渦の真ん中で、母はとうとう、こう言いました。
今日は降参だわ。
まるでお店全体にお祝いされているみたいな気持ち。
すばらしいの一言ネ。

(つづきます)
 
2006-07-06-THU