続・大村憲司を知ってるかい?
大村真司が聞く、父親のすがた。
98年冬、しし座流星群の夜に永眠した、
この、ひとりのギター弾きの遺した
4枚のソロ・アルバムが再発されます。
ギタリストになり、21歳になった長男・大村真司が
父親をよく知るひとびとのところに
大村憲司の話を聞きに行きました。

Musician's Musicianといわれる大村憲司って、
どんなことをしていたのか、何をぼくらに残したのか、
同じ仕事を選んでしまった息子が探しに行きます。


沼澤尚
×糸井重里
×大村真司

その1
アスリートであることと、
音楽家であること。

糸井 きょうは大村憲司さんの話を
聞かせていただきたいなと思うんです。
ぼくにとって大村憲司さんというのは、
舞台の上の人なんですよ。
面識はなかったけれど、
ずっと重要な場所にいる人がいるなあ、
とは思っていたんですね。
矢野顕子さんのステージにいたな、とか。
真司くんは、沼澤さんに、
憲司さんについての話を聞いたことは、
いままであんまりなかったのかな?
真司 ないんです。
沼澤 ないよね。
憲司さんと僕がいっしょに
ステージに立ったのを見たことはあるよね。
真司 ミヤさん(宮沢和史さん)のときに
家族で見に行きましたね。
沼澤 一回きりだったんだよね、
僕と憲司さんが一緒に演奏したのを
真司くんが見たのは。
糸井 そのときはまだギタリストじゃない
真司くんだったわけだよね。
真司くんは‥‥坂本美雨ちゃんと
同い年くらいだよね。
ぼくの子供とも、変わらないです。
ということは、
「タカおじさん」なわけだよね。
真司 タカ兄さん、くらいかな?
糸井 じゃあ、ギタリストになった真司くんに
ギタリスト大村憲司は
こうだったんだよ、
こういう人だったんだよ、
という話は、タカ兄さんからは、ないんだな。
真司 それを聞きたいんです。
こっぱずかしいんですけど。
糸井 いや、でも、今聞かないと
普通には、一生聞けないよ。
沼澤 そうだよ、そんな話、しないよ。
糸井 そうなんだよ、わざわざそんな話、
しなくっても、生きていけるんだから。
だから仕事って、ありがたいんだよ。
それが人を育てるの。
だから取材とか、されたほうが、
いいんだよ。
真司 されますされます。
教えてください!
沼澤さんと、オヤジの出会いから聞きたい。
沼澤 僕はね、自分が楽器をやっていない時に
一番好きだったギタリストが
大村憲司だったんですよ。
音楽を聴き出した、小学校中学校とか。
中学校で僕の親友で
音楽好きなやつが一人いて。
日本のロックをよく知ってて、
そいつんちに僕が入り浸るようになって。
サディスティック・ミカ・バンド、
四人囃子、はっぴいえんど、って、
かっこいいじゃん! って。
で、そいつがギタリストを目指しはじめて、
ギタリストで彼のアイドルだったのが
大村憲司さんだったんです。
それで、僕も見に行ったら、
「何てかっこいいんだ、この人」
って思ったんですよ。中学の時。
高円寺のJIROKICHIとかで。
糸井 うんうん。
沼澤 憲司さん、誰かのカバーをやるんですけど、
憲司さんも自分の憧れの人が
その時々で変わって行ったんですよ。
それは、憲司さんの着てるものを
見るとわかった。
着てるものと、ギターが変わるんですよ。
真司 なるほど。
沼澤 よく覚えてる。コーネル・デュプリーに
なった時代っていうのがあってね。
真司 オーバーオール着て?

76〜77年頃、渋谷ジァンジァンで
矢野顕子さんのライブに出演した憲司さんのスナップ。
沼澤 コーネル・デュプリーの音を出して、
コーネルのTシャツ着て。
70年代後半、僕が高校くらいのときかな。
そのころ、いわゆるジャズのミュージシャンが‥‥
糸井 ロックと交遊していた時期だね。
沼澤 ロックとかR&Bとか、
そういうことのできるミュージシャンを雇って、
いわゆるインスト、歌のない音楽、
ボブ・ジェームスとか、
すごく流行った時期がありますよね。
糸井 うんうん。
沼澤 そのとき、憲司さんは
「赤い鳥」のブルース云々っていう時期から
ちょっと離れて、
「ケンジ・ショック」の時期になる。
糸井 なるほどなるほど。
沼澤 それが僕がすごくよく
見に行ってたころなんです。
深町純さんのカルテットで
憲司さんが抜擢されて
ポンタ(村上秀一)さん、小原礼さんと
4人でやっていた時期なんです。
慶應の学祭まで見に行ってた。
ギター弾いてる姿がカッコイイとか、
ドラム叩く姿がカッコイイとか、
見てくれがカッコイイ人が
とても好きだったんですね。
で、日本のギタリストでは
憲司さんしか、僕にはいなかったんですよ。
弾いてるのがカッコよくて
着てるものがカッコイイのは、
憲司さんしかいなかった。
糸井 うんうん。

六本木PIT-INNでの「ケンポンバンド」。
沼澤 で、僕がアメリカに行く時に憲司さんの
「春がいっぱい」っていうアルバムが出たんです。
すごい大事に持って行ってたんです。
アメリカに行ったら学校に通って、
毎日クタクタになるでしょう。
寝る時に、必ず最後に聴いたのが、
「春がいっぱい」だったんですよ。
真司 へえ!
糸井 何がそんなによかったんですか。
沼澤 あのね、すごい安心させてくれるギターなんです。
アメリカにひとりで渡って、
焦ったり、怖くなったり、しているとき。
糸井 安心させてくれるギター。
沼澤 これを聴けば大丈夫!
っていうことに僕の中ではなってた。
あの黄色いジャケットで、
憲司さんが黒いスーツで
黒いサングラスをかけて。
真司 うん。
沼澤 僕がなぜアメリカに行ったのかっていうのは、
要するに本場なところに
行きたいっていうことなわけです。
要するに簡単に言うとまだ20代だし、
日本の音楽にたいして、何だよ!?
とか思ってるわけじゃないですか。
糸井 うん。
沼澤 俺は本場に行くんだよ、って。
でも、そう思って行ったんだけど、
何故かあれだけは持って行った。
真司 唯一「春がいっぱい」は。
沼澤 この人だけは違うって。
真司 オヤジだけはなんかこう、
日本っぽくないって言うか。
見た目からして、俺から見ても、
なんか、アメリカに溶けこんでるふうに
見えてました。
沼澤 目線が外に向いているというのは
ハッキリしていました。
簡単に言うならば、
憲司さんの音楽って、
邦楽じゃないんです。
僕らがやってることって
洋楽に影響を受けたものだし、
そもそもドラムっていう楽器だってそうだし。
で、僕も自分でやるようになって、
アメリカに住んでいたときも、
憲司さんがライブをやるときには
日本に帰って見ていました。
この人だけは見とかないと、
というのが、自分の中にあって。
糸井 出会いはそのころ?
沼澤 そうなんです。
見に行っているうちにまず
ポンタさんと知り合いになって、
憲司さんに紹介してくれて。
「ああ、キミがアメリカで
 何かやってる人?」みたいに。
真司 ああ、そういう出会いだったんですね。
沼澤 で、何度か見に行っているうちに、
ライブのアンコールで、ポンタさんが
客席にいる僕に「お前やれ」って。
糸井 えっ。客として行ったのに、
「お前やれ」なの。
沼澤 六本木ピットインでした。

六本木ピットインでのスナップ。
真司 それって何年くらい?
沼澤 90年か、91年。
それでやっと、憲司さんが、
こっちを振り向いてくれたんですよ。
こっちはもう憧れの大村憲司ですから‥‥
覚えてるのは、初めてやったとき
「一緒にバンドやろうぜ」って言われたこと。
糸井 沼澤さんは何歳くらい?
沼澤 30歳くらいですね。
憲司さんは42歳くらい。
そうか、僕の今くらいの年齢だったんだ‥‥
そのときね、
「日本人と違うよね」
って言われたんです。
「タカの場合は、
 足で作ってくドラムだよね」
って。
それからセッションに
誘われるようになりました。
糸井 真司君はまだ小学生だよね。
真司 そうか、ひょっとして、俺、
その頃すでに、タカさんとオヤジのセッション、
見てるかもしれないです。
糸井 小学生で? 家族と一緒に見てたの。
真司 オヤジがね、手を取っては教えないんだけど
ライブを見て学べ、みたいなとこがあって。
糸井 「どうだ、楽しいだろう?」
みたいなことだったんだろうね。
真司 たぶん。
糸井 あるいは単純に、
一緒にいたかったのかもしれない。
真司 そうかもしれないし‥‥
俺は、行くと、
なんかうるさいの始まったな、
でもポテト食べれるし、みたいな。
沼澤 ああ、ピットインのポテト。
糸井 ギタリストにしたかったのかな。
沼澤 どうなんだろう。
真司 その前に一回挫折してるんですよ。
2歳だったかな、
俺にギターを教えようとしたんです。
沼澤 2歳!


真司くん2歳の誕生日、ミニギターを買ってもらう。


真司くん、ギターを初めて教わる?

真司 でも、俺はわけわかってないから
「いらない!」とかってなった。
そしたらもう、オヤジ、怒って、
「あいつは才能ねえぞ!」って
母に言ってたらしい。
その時にオヤジは、
これはもう手を取って教えても
ダメだなっていうのを
早く決断しちゃったんだと思うんです。
やりたかったらやれば? みたいなので、
とりあえずライブは見に来いよっていう。
それがどういう意図かは分かんないけど。
結局、俺、ギターを弾き始めて、
本気でやりはじめたのは中学の頃だけど、
その頃には結構うれしがってたみたい。
俺が自分からやり始めたことは
うれしかったみたい。
糸井 うれしいよ、そりゃ。
沼澤 そりゃそうだろうね。
糸井 そりゃうれしいよね。
下手だとカリカリ来るんだろうね(笑)。
沼澤 お前こんなことも
分かんないのかって言い出すと
えらい喧嘩になりそうですよね。
糸井 同じ商売って大変だよ。
沼澤 スポーツでもそうだけど
親と同じことをやるのは
大変なんです。
俺は若貴って信じられなかったもん。
糸井 すごいことだよねえ。
沼澤 あり得ないもん。
若貴って驚異的なんだよ。
僕でさえも大学に入った時に、
あれが沼澤の息子かっていうので
すごい嫌だった。
糸井 沼澤さん、野球で一回挫折してるんですよね。
でも、それは、最高のいい経験ですよね。
おそらくアスリートとして
相当優秀なんだけど、
それがドラムに行っちゃった、
っていうのがおもしろい。
真司 スポーツマンからドラマーっていうのは
有名なところだと、
メタリカのドラムは
元プロのテニスプレーヤーでしたよ。
けっこういるんじゃないかな?
糸井 でも、そんなに大勢いないよ(笑)。
真司 めちゃめちゃいるわけじゃないけど。
沼澤 日本はいないんじゃないかな?
ポンタさんが剣道はすごかったけどね。
糸井 あ、そうなんだ。
糸井 ミュージシャンもアスリートとして
優秀な人っていうのは
これから出て来るかもしれないね。
沼澤 来るかもしれないですよ。
スティーブ・ジョーダンは野球ですから。
あの人は大リーグに行きたかった。
糸井 おお。
真司 俺もサッカーやってたんだけど
それを見てオヤジは
興味深いことを言ってました。
沼澤 ああ、そうだ。サッカーやってたんだよね。
糸井 やれって言ったんじゃない?
真司 そうなんです。
例えば地面を走るリズムっていうのは、
自然なリズムを鍛えるには大事だから
しっかり意識してやれよ、
みたいなことは言われたことがあります。
要するに人が走ってるリズムっていうのが、
リズムキープの基本、
みたいなことだと思うんだけど。
糸井 憲司さんはじゃあ、
真司君のことをほんっとに細かく
見てたんだね。一人っ子?
真司 妹がいます。
オヤジは、分析をする人でした。
でも分析したことを人に言わないんです。
自分の中だけにその人の
イメージっていうのを持ってて、
その人をいい方向に行かせるのが
とても上手でした。
糸井 ああ。
真司 でもタカさん、
野球やってたんだ。
初めて知ったよ。
糸井 お父さん、プロ野球なんだよ。
真司 あ、ほんとに?
沼澤 そうなんだよ。
真司 へえー。
糸井 で、ちゃんとできてたんだけど
やめたんだよね。
沼澤 オヤジは僕を
プロにしたかったみたいですけどね。
真司 へえ!!
糸井 それはやっぱり生きてると思うんだよね。
沼澤 いや、大きいですよ、実は。
あんまり言わないですけど。
大学入るくらいまでは
いわゆる方法論みたいなのをやっていて。
糸井 インサイドプレイっていうやつだな。
沼澤 それ、音楽に役立っているんですよ。
ただボール投げて打つんじゃないっていう部分。
運動能力として自分の肉体を使うとき
頭と一緒でないとできないっていうことの
基礎知識みたいなことっていうのは、
実は今僕がドラムやってるのに
ものすごい近くて。
なかなか言わないことなんですが‥‥。
糸井 言っても理解してくれる
仲間は少ないだろうな。
真司 メタリカのドラムくらい(笑)。
糸井 単純に下半身ができてるドラマーって、
すっごいいいサウンドですよねえ。
沼澤 いいっすね。
糸井 バンドマンってさあ、
下半身できてないものね。
真司 そうだ、オヤジは
ラグビーのキャプテンだったんですよ。
沼澤 えっ!?!?
嘘でしょう?
真司 ほんとです。
糸井 秘密だったの? それ(笑)。
真司 タカさんと同じで、
言う機会がなかったんだと思う。
甲南からずっとやってて。
沼澤 甲南って高校?
真司 中学2年から高校3年までだと思う。
高3でキャプテンだったんですよ。
たしか。

 
甲南高校3年生、
ラグビー部の
キャプテンをつとめる。
中列左から4番目、
腕組みをしているのが
憲司さん。
糸井 音楽は?
真司 その間音楽も。
バンドの練習もよくやってたって
母が言ってました。
「ラグビーとバンドで、
 スケジュールきつくて死ぬかと思った」
って。
母は、ラグビーの試合も見に行ってたし、
甲南のバンド、
ベルベッツっていうらしいんだけど、
ガレージでの練習を
よく見に行ってたって。
糸井 それ、ずいぶんやってたんじゃない!
真司 強えなぁと思ってたんですよ。
沼澤 憲司さん、ラグビーやってたんだ‥‥
糸井 やっぱり何か秘密があるんだよ。
沼澤 俺大学で野球部に当然そのまま行って、
六大学野球に出るつもりだったんだけど
監督のやり方が絶対これはおかしい、
だからうちの大学は弱いんだって思って
辞めちゃったわけ。
で、仲いい友達はみんなラグビー部にいたから、
そのまんまラグビー部にポンッと入っちゃったの。
真司 ラグビーやってたんだ!!
沼澤 やったうちに入んないけどね。
糸井 完全にアスリート人生だね。
沼澤 憲司さん、ポジションはどこなの?
真司 フォワードの3列目、
フランカーっていうポジション。
沼澤 足速かったのかな。
真司 でも、そんな体でっかくないから。
沼澤 そうだよねえ。
知らなかったなあ。
糸井 だってラグビーとギターの
関係みたいなことを
聞かないじゃない、人は(笑)。
全員 (笑)。
糸井 沼澤さんみたいに
野球やってた人で
ドラムを理屈で語れる人がいると
両方つながるよね。
沼澤 実は、スポーツと音楽の共通点は、
すごくあるんですよ。
糸井 実はあるよね。
だいたいスポーツを
まともにやってた人ってさ、
技術は学べるって信じてる。
真司 ああ。
糸井 まともにやってない人は、
「あれはすごい」とか言うんだけどね。
あいつと同じことを
俺はできるはずだっていう練習とか
方法がいっぱいあるんですよ、きっと。
沼澤さんは、
同じようにドラムやったんですね、きっと。
沼澤 どうやったらこういうことができるかって
頭を切り替えられるんです。
右・左・右・右とか。
ピアノだったらバイエルとかあるでしょう?
指の動かし方云々とかって。
練習と、実際の、回路を結び付けること、
こういう手の動きで云々っていうことで、
野球をやっててよかったってことは
実は、たくさん、あるんです。
糸井 アスリートとしての知恵とか、
方法論とかっていうのが、
いろんな場面でものすごく生きてるんですね。


沼澤尚
×糸井重里
×大村真司

その2
沼澤尚がしたかった、
大村憲司のプロデュース。

沼澤 憲司さんって、絶対に、
ものすごい感覚的なものだけが
こっちに残るタイプの人だったんです。
憲司さんは、ギターを弾くという
テクニックをものすごく持ち合わせていた。
たいへんな技術なんですよ。
でもそれを全く、
そんなものはあってもなくても
関係ないことだって言ってるような
ギターに聞こえちゃう人だった。
真司 それって、
普通は持ち合わせないものですよね。
糸井 真司君はどんどんそれが
分かって来ちゃったわけだよね。
ギターを始めちゃったおかげで。
真司 そう。って言うか、
音自体っていうよりは、
何なんだろうなあ‥‥。
沼澤 弾きだしたら、
オヤジが弾いたものが聞こえて、
それをどうやったらできるっていうのが
分かるじゃない?
でも自分でやると
ぜんぜんできなかったりするでしょう。
真司 できない。
糸井 (笑)。
どう弾いてるかまでは
理解できるようになっちゃったわけだ。
真司 うん。やっぱりこう、
音出てないんだけど
押さえてる部分っていうのがあるみたいな。
糸井 へえ。
真司 オヤジの音ってね、
速く弾いて全部の音を聞かせるみたいな
ギタリストとは違うものがあったんです。
グィーンっていう音の中に、
技術じゃないあやふやな、
あやふやなんだけどいい音、っていうのが、
入るんです。

1996年6月、日比谷野音で。
沼澤 こういうふうに弾くとこういう音が出る、
っていう技術を見せるために
ギターを弾いてないっていうことだよね。
糸井 そうそうそうそう。
昔俺が言ったことがあるんだけど、
原宿がファッションの街って言われてるけど
修学旅行で来た子は
裏で買うほうが喜ぶんですね。
何故かと言うと田舎に帰った時に、
特徴がハッキリしてるんですよ。
例えばの話、
何か真ん中をねじるっていうのを
センスのいい人が
「ちょっとねじる」ってやると、
裏でやってる人たちは
「もっとねじっとく」わけです。
そうすると、ほーらやっぱり
流行の「ねじってある」服だって言って、
田舎に持って行った時に
「お、ねじってあるね!」
って言われるわけ。
ところが、表通りは
あんまりねじってないんだよ。
沼澤 流行の本流から距離が離れて行くと
デフォルメされて行く。
糸井 そうなんですよ。
それはもう、
おれたちの仕事でもそうなんですよ。
でもね、デフォルメされているものは
変な顔をしてるの。
「この味を出そう」って
思ったものって必ずね、
変な顔してるんですよ。
ギターもそうじゃない?
カラオケ自慢の人の歌もそうですよね。
変な顔してるんです、その表現が。
沼澤 そうですよねえ。
糸井 表通りと裏通りと違うんです。
沼澤 やっぱり分かりますよね。
憲司さんのギターも、
いつも言ってるような話になっちゃうけど
結局練習したから弾けるものじゃないんだ、
っていうものを
ものすごく感じさせる人だったんです。
人のレコーディングに入った時に
必ず耳が行っちゃうギタリストでしたよね。
糸井 すごいなあ。つまり明晰なんですよね。
真司 頭はめちゃめちゃよかったと思う。
頭がよすぎて、
逆に不幸だったかもしれないくらい。
糸井 ああ。
沼澤 いろんなことが分かってた人だからね。
糸井 研究者タイプだったのか。とも言える。
真司 そうですね。
沼澤 だって本とかすごいもんね。
真司 書斎すごいです。
糸井 でも、憲司さんおしゃれでしょ?
沼澤 そうなんですよ。
糸井 おしゃれと頭がいいは、
両立しないんです。本当は。
真司 でも、持ち合わせていました。
ありえないよね‥‥。
糸井 僕、今、おじいさんがたと
いっぱい付き合ってるから
話いっぱい聞くんだけど、
文学なんかで天才はいるって言うんです。
それは意外と志賀直哉だったりするんだって。
沼澤 へえ。
糸井 もう、ほんとに天才なんだって。
でも、それは、
ほんとにすごいものは
作れないって言うんです。
刀で言えば、
刃こぼれしちゃうらしいんですね。
でも、刃なんかろくについてないのに、
ナタだったら切れるものって
あるじゃないですか。
家建てる時に繊細な刀で削ってっても、
だめだこりゃってなるじゃないですか。
また磨いてとかね。
沼澤 うーん。
糸井 だからそれを、
両方持つことってやっぱりできなくて。
沼澤 実用性もあって、ってことですね。
糸井 スポーツの世界でもそうだけど、
一番才能のあるやつって
金メダル取れないらしいんですよね。
真司 へえ。
糸井 一番才能のあるやつを
うらやましいと思いながら、
どうやってやるんだろうっていって。
沼澤 勝とうとしてる二番手が、
勝つ方法を見つけちゃうってことですね。
糸井 スケートの清水なんて、
ひたすらに努力してったわけでしょう?
そういうふうに乗り越えるっていうのは、
研ぎすましたものじゃないらしいんですよ。
だから大村憲司さんって
そこがぎりぎり仕事になるところまでは
できてたんだけど、
もしかしたら研ぎすましていくほうに
行っていたかもしれないですよね。
沼澤 だから晩年、
49歳で亡くなったその付近、
その時に僕が覚えてるのは
自分の居場所ってひょっとして
もうないのかな、みたいなことを
おっしゃっていた姿なんです。
糸井 ああ‥‥。
沼澤 簡単に言うと、
音楽にも流行がありますよね。
何が売れたりとか、
売れないけど何が注目されてるとか、
100万枚は売れないけど
カルトファンがついているとか。
そういうことが、
時代の流れである中で、
ひょっとして俺なんかさあ、
っていうような時期があるって
こぼしているのを、
ちょっと僕は知っていて。
何でこんな人がこんなこと言うのって。
糸井 そんなに切れる刃物作ってくれても、
使う場所がなければ。
真司 誰も使えないんですね。
糸井 刃が出てくるカッターあるじゃない。
あれ、大量生産できるじゃない。
切れなくなったら折りゃいいっていう。
あれはすごい発明だと思うんですよ。
あれで一回で全部切れるわけですよね。
その代わり研ぐ技術はもういらない。
でも、そこで生きてたら、
別の苦しさは当然あったよね。
だから新たにナタになる決意をして行く。
俺は、完全にナタになる決意ですよ。
もうボッカンボッカンナタになってやる
おもしろさを覚えちゃうわけです。
沼澤 ナタになるということと
自分のクォリティを落とすことは
同じではないですからね。
糸井 つまりチームプレイのおもしろさとかね。
監督になる人もそうですよね。
自分が打ってできないことっていうのを
他の人が違うところで
やってくれるわけだから。
そしたらその後はオーナーになるとか、
FIFAになるとか。
沼澤 うわあ、僕もそっちの方がいいなあ。
糸井 沼澤さん、そっち系統ですよね。
沼澤 パス出したいですもん。
自分で点入れなくてもいい。
糸井 大村憲司さんみたいに
書斎の充実してる人って
やっぱり辛いんですよ。
俺、それを変えるのに
2年かかりましたよ、やっぱり。
プレイを変えていくっていうか、
職人としての誇りみたいな
ものじゃないものを
おもしろがるというのが。
沼澤 要するに自分を客観的に見ないと
絶対にできないですよね。
糸井 できないですね。
居場所がない感じっていうのも
誰でも思うんですよ、40過ぎたら。
真司 俺、40過ぎなくても何か思う。
糸井 思うよね。思うんですよ。
若い時は若い時で思うんですよ。
で、おんなじ世代の人が
くじ引きに当たって
うまく行ってるのも見るし、
ボロボロになってるのも見るし、
俺危ねえところにいるなって思うんですよ、
やっぱり。
でも目の前にある
おもしろいことっていうのは
その都度、あるから、
もっと上手にやりたいだとか、
一人の人がものすごい感じてくれただとかは
全部ご飯のおかずになるわけですよ。
でも、何だろう、
「大村憲司だったら」
っていうのは想像できないんだけど、
そういうタイプの人が辛くなるのって、
掘り下げるのが
自分自身になっちゃうんですよ。
沼澤 うん。それも自分発信の時に
そういうふうになるんですよね。
糸井 だからソロアルバムとかって
毒なわけですよね? けっこう。
沼澤 でも俺、憲司さんのソロアルバムって、
ものっすごい楽しそうに
作ってるように聴こえたけどな。
糸井 でも、もう楽しそうに作ってる
「次」を待たれるんですよ、必ず。
ソロって。
そしたら、前のを超えるとかっていうのを、
例えばドラムでいったらね、
ドンチャカドンチャカだけ叩いてても
俺だって言える自信があっても、
お客さんはちょっとオカズくださいって
言いますよね。でも、そこんところで、
例えば「ザ・バンド」なんかもそうだけど
オカズくださいっていうのを、
いやあげません、今日も白いご飯ですって。
沼澤 それがいいわけじゃないですか。
糸井 そう。あれはバンドだからできたんで、
ソロアルバムで
そんなことできないんです(笑)。
沼澤 なるほどね。
だから、憲司さん、あの後、
新曲をあんなにたくさん書いてたのに、
ソロを出さなかった。
糸井 出せないよ。
沼澤 俺はね、そこで憲司さんに知り合ったのが
もうちょっと早かったらって
すっごい思ってた。
僕は憲司さんと
バンドやろうと思ってたんです。
糸井 うん。
沼澤 僕とウィル・リーと憲司さんの
トリオでやろうっていうのを決めてたの。
絶対やろうって。
僕の知っている憲司さんの好きなところ、
憲司さんのかっこいいところを前に出す、
具体的なアイデアが自分の中にあって。
憲司さんはこれをやりたいと思ってるけど、
多分そうじゃなくて
こうやったらもうちょっとこうなるのに、
みたいなこともあって。
糸井 沼澤さんはチームプレイを
経験して来てるからね。
バッティング技術を研ぎすましてる
タイプじゃなくて。
沼澤 こうやったらチームが勝つぜ、
みたいな(笑)。
糸井 プロデュースってそういうことですよね。
たとえば、
若いタレントとかをキャスティングする時に、
その子ができる精一杯のことを
やらせるっていうのは無理なんですよ。
つまり、最大限やっても
その子の範囲しか出ない。
沼澤 うーん。
糸井 もっとでかく見せるためには、
やれるぎりぎりの
その外側のことやらせると必死になるから、
違うものが出てくるんですよ。
沼澤 それはすっごい分かるな。
糸井 大昔に宮沢りえちゃんでやったんだけど、
ぬいぐるみ持たせて
りえちゃんに腹話術やらせたわけ。
ところが、腹話術ってできないから
うまく行きっこないんですよ。
でも腹話術をしなさいって目的を変えると。
沼澤 やろうとするんだ。本人がね。
糸井 そうすると、りえちゃんはりえちゃんを
精一杯出す必要がなくて、
腹話術を一生懸命やる人になればいいんですよ。
沼澤 ああ、なるほど。分かる分かる。
糸井 そうすると自然に
その子の一番いいところが出てくるんですよ。
沼澤 それプロデュースですよね。
糸井 それがプロデュースなんですよ。
でも自分で研ぎ澄ましていく人は、
そういうことをやらせないでくれって
思ってるんですよ。
せっかく分かりかけて来たところだからって
いつも思ってるんです。
沼澤 自分はこういうふうに
学んでいるんだからって。
糸井 あと1mmで見えるって
いっつも思ってるから
永遠に1mmの延長なんです。
だから、細かいところじゃなくて
違う要求を出す人が、いいんです。
それは愛情でしかないんですよね。
ほんとに愛していて、
嫌なことをやらせるっていうのが
最高なんですよね。
真司 タカさんは、晩年のオヤジと
ずいぶんつきあいがあったんですよね。
沼澤 僕はやっぱね、
自分がずっと憧れてた人なので
自分がプロデュースを任された仕事で
来ていただいたり。
憲司さんのギターを聴きたくって。
でも、一人でスタジオに座らせて
「はいこれが譜面です」ってやる
スタジオミュージシャンの作業っていうのは
絶対によくないって思ってるんで、
レコーディングは全員一遍で一つの部屋で。
糸井 乱暴なことだよね。
沼澤 それを、
「こういうレコーディングって久しぶりじゃん」
って憲司さんがその時言って。
岩崎宏美のプロデュースでした。
その時に組んだセッション、
イントロから憲司さんのギターソロですよ。
糸井 おお(笑)。
沼澤 歌も一緒に、仮歌を入れながら
みんなでワーッとやったのがあるんです。
糸井 そういうようなことなんですよね、
多分必要だったのはね。
沼澤 それをすごい楽しそうに言ってくれて。
僕も、自分が思ってたことを
ちょっとずつできるようになってきていて。
僕のソロアルバムにも
憲司さんのギターが入るっていうのを
遥か昔に決めてあって。
そのセッションの時も、
憲司さんがアコギを弾くのが
あんまり好きじゃないっていうのも
知ってたんだけど。
真司 うんうんうん。
沼澤 俺は好きだから、
エレアコを弾いてもらって。
真司 エレアコは大丈夫みたい。
沼澤 それも2発弾いてもらったのね。エレキと。
その時自由に弾いちゃっていいですからって。
コード進行がめちゃくちゃ
難しいとこなんだけど、憲司さんって、
ソロじゃないけどバッキングしながら
リフやるっていうのの天才なんですよ。
糸井 うんうんうん。
沼澤 矢野顕子さんのピアノが
そうじゃないですか。
糸井 見事にそうですよね。
沼澤 あっこさんって、伴奏、はいソロ、
じゃないんですよね。
糸井 うん。違いますね。
沼澤 これってソロ? これって伴奏?
どっちなの? っていうことを
歌と一緒にやってく人でしょう。
糸井 うんうん。
沼澤 で、憲司さんはソロイストとしても
バッキングにしてもものすごい人なんだけど、
そのどっちなの?
という場所で印象づけるんです。
それをやってもらったものがあるんだけど、
すっごい困ってたの。難しかったから。
コードばんばん変わってって。
真司 糸井さんごぞんじですか、
沼澤さんの
"the wings of time"
っていうアルバムの
タイトル曲なんです。
あの曲のオヤジはすごいと思う。
沼澤 それが最後になっちゃったんですけどね。

1998年10月24日、
沼澤さんのソロアルバムのレコーディングで。
この後約1ヵ月で憲司さんは急逝した。
↓そのアルバム“the wings of time”

糸井 そうだったんだね。
真司 俺ね、オヤジが生きてりゃ、
あれが始まりになったって思う。
沼澤 僕はそういうつもりだったんです。
真司 いわゆる年を重ねて脱皮した
すごいプレイが、
孵化した瞬間の音だったですよね。
沼澤 弾きまくってないんですよ。
弾きまくれるのに。
真司 何かね、間がすごくて、
あとすごい太いの、音が。
沼澤 早弾きとかすごいよね、実は。
真司 すごい。
「俺早弾きなんかできねえからよお」
って言っといて、
次のライブでバラバラ弾くの。
沼澤 難しい早いことをさあ、
実はすっごいできるんだよね。
真司 そう。できる。
沼澤 でもやんないっていうか、
全然そんなことを見せようとはしないよね。
真司 しないしない。
糸井 それはサーカスになっちゃうからね。
沼澤 ウワーッていう時、
容赦ない時あるもんね。
何で急にそうなの? みたいな。
うわっ、何? 今の、みたいな。ね。
突然来るんだよね。
真司 リズムを取って
譜面を見てやってる人じゃなくて
ほんとにその曲を
消化してるからできると言うか。
糸井 その技術っていうのは
絶えざる練習をしてたの?
真司 練習じゃなくてきっとね、
ステージ出た時のことだと思うんですよ。
糸井 本番が練習になっていた?
真司 本番が練習だと思います。
家で練習してたことっていうのは
ほんとに基本的なことだと思う。
糸井 家でどんな練習してたの?
真司 晩年のオヤジが練習してるところを
俺は見たことがないっすね。
ギターをずっと調整してました。
沼澤 絶対自分でやってたもんね。
真司 そうそう。そういうところはね、
タカさんとすごい共通するものがありますね。
だからオヤジが今頃生きてれば。
糸井 習いたい?
真司 うん。しっかり。
いるのといないのじゃ、
方向性が大分違うと思うから。
今やってることと違うことを
絶対やってたと思うんですよ。
沼澤 やりたいことっていうのがあるじゃん。
真司 うん。
沼澤 そうするとやりたいことを
できるようになることは知りたいでしょ?
真司 知りたい。
生きてれば間違いなく
頭下げるかどうか分かんないけど、
意識的にオヤジを解明するみたいな
そういう作業は絶対してたと思う。
沼澤 それで絶対、今生きてて
真司君がバンドやってたら、
絶対全部見に来てると思う。
僕は僕で憲司さんとバンド。
全員でスーツで登場して、
ブルーノートで思いっきり
ブルースをやるとかっていうのを
やりたいなって思ってた。
真司 見たかったなあ。
沼澤 できなかったというところが‥‥
真司 よかったのかもしれないし。
そう考えるしかないんだけど、でも。
糸井 でも、あったんだろうなっていうのを
想像して、息子がやるしかないよね。
沼澤 憲司さんが出そうとして
出せなかった新曲がいっぱいあるのを
真司くんが持ってるわけです。
僕はこの息子と、
落ち着いたらそれをやりたいって言ってるの。
一緒にやろうって。
そのうち俺もあれだよ、
もう叩けなくなるかもよ?
糸井 この憲司さんの4枚がどうなるか
わからないけれど、
少なくとも真司くんが
これから音楽やって行くには
ものすごくいいチャンスだね。
何やりたいかのルーツは全部見えるからね。

2000年冬、東京・青山劇場で行われた
大村憲司トリビュート・コンサートで
ステージに並べられた憲司さんのギター。
(撮影=沼澤尚)


宮沢和史
×大村真司

その1
俺らが切り開いて
きた道を。

宮沢 (プロフィールの写真を見て)
それ、すごくいい写真ですね。
真司 中の写真もすごい好きなんです。
座って、ギター持ってる写真です。
宮沢 これだね。
真司 そうそうそうそう。
宮沢 これね。いいね。
真司 これがね、スターウォーズの
ジャバ・ザ・ハットみたいで
ちょっと親玉っぽい感じがするんです。
「そこから動かない」みたいな(笑)、
親玉感が、すごい好きなんです。
宮沢 親玉感ね(笑)。
真司 やっぱ貫録があるっていうのかな。
宮沢 反抗して「オヤジィ!」
みたいなときって、なかったの?
真司 怒って「クッソ〜! なんだよ!」
っていう? もちろんありましたよ。
宮沢 いつですか?
真司 それはもう、常にでしたね。
オヤジがそういうのを
誘発する人だったんですよ。
宮沢 ほぉ。
真司 息子と父親の葛藤を描いた映画とか
あるじゃないですか。
たぶん、そういうのに憧れるタイプの
人だったと思うんです。
宮沢 自分の持っている
父親像みたいなのがあるのかなぁ。
真司 だから、よく、ケンカとかしてましたね。
宮沢 偉大なミュージシャンも、
家では「オヤジ」なんですよね。
チャーさんとか、清志郎さんとか、
そのくらいの年代のミュージシャンの
お子さんにしても、
父親が、日本の音楽に
影響を与えた人だということが、
わからない時期があったみたいです。
友だちから
「お前の親父、すげぇよ」
って言われて、
「そうなのかなぁ?」
と思ったって言うんですよね。
真司くんはどうなのかな?
真司 俺もたぶん、
いなくなってから意識したほうです。
「へぇー!」って思いました。
宮沢 そうなんだ。
真司 生前は、俺としては、認め‥‥
認めてるんだけど、なんか、そんなに
チヤホヤしたくないみたいな気持ちでした。
オヤジの音楽、聴かなかったし。
だけど、いなくなってから、
ちょっと考える時間とか、
あるじゃないですか。
もう何も言わないわけだから。
そこで、そう、思いました。
たぶん、これからのほうが、
年取ってきたほうが、
今よりももっと、わかるんじゃないのかな、
と思います。
宮沢 とくに同じエレキギタリストだもんね。
真司 そうですね。でも、俺としては、
なんかたまたま
そうなってしまったみたいな
ところがあるんです。
同じ楽器をやって
どうこうっていう意識は、
あんまり、ないんですよ。
どっちかっていうと、
「遺志は継いでやるけどさ!」
みたいな(笑)。
方向性的には違うし。
宮沢 うん。
真司 2年くらい前までは、
オヤジのやってることに
近づかなきゃいけない、
みたいな意識がありましたけど。
でも、自分で満足できなくなってきて、
「なんなんだよ、音楽って!」
みたいになってきたんですよ。
それで、やっぱり、
「ああ、親父と同じ道を歩くのは違う。
 自分のやりたいことをやろう」
と思ったんです。そういう感じです。
宮沢 教えてもらったこと、ある?
真司 ものごころついてから、
直接、手を取って
教えてもらったってことはないんですよ。
ライブを見に来い、
というのはありました。
それを通して、
教えるみたいなところがありました。
親父とケンカした次の日、
ちょうどチャーさんなんかが出る
ステージがあったりすると、
「すごいミュージシャンが集まるから
 見に来いよっ」みたいなふうに。
宮沢 真司くんが練習してるのを、
オヤジさんが覗きに来たりとかは?
真司 あ、そういうのはありましたよ!
俺が家で、ジミヘンのビデオ買ってきて
練習してたら、
仕事から帰ってきたんですよ。
「ただいま」って言ったら、
俺が弾いてるじゃないですか。
そしたらいきなり
ガチャって部屋に入ってきて、
「そうじゃねぇんだよおまえ、
 こうなんだよ!」
みたいなのは、ありましたよ(笑)。
でも、子どもだったから、
理解できなかった。その凄さを。
「べつにいっしょじゃん?」って、
その時は思ってました。
宮沢 こわかったでしょう。
真司 うん、めっちゃ。

90年代の憲司さん。
宮沢 僕は、1回、
憲司さんを怒らせたことがあったんです。
僕が憲司さんと一緒にやったっていうのは、
僕のソロでの、東京・大阪のコンサート。
それしかないんですよ、接点が。
真司 そうだったんですか!
宮沢 うん。レコーディングもないし。
俺はね、中学生の頃に
イエローマジックオーケストラ
(YMO)にはまって、
ツアーのギタリストが渡辺香津美さんから
大村憲司さんに変わったときに、
初めて憲司さんに触れたんです。
だから、普通の憲司さんのファンとは
違うのかもしれないですよね。
憲司さんのストラトの
世界っていうんじゃない、
YMOのデジタルな感じの中で
化粧をしてる憲司さんだったから。
後から、土臭い世界を知ったんです。
真司 じゃあ、一緒にやったのは‥‥
宮沢 やっと自分がプロになって、
10年ぐらいたって
初めてのソロツアーのギタリストに、
憲司さんっていう声が上がって。
「まさかやってくれないだろう」
って思ったら、引き受けてくださって。
何本かライブをご一緒したんですが、
それから少し経って、
お亡くなりになったんです。
実はその時に、1回だけ
怒らせたことがあった‥‥。
真司 どんな時にでしたか。
宮沢 リハーサルで、
「こういうふうに
 弾いて欲しいんですけど」
ってお願いしたんです。
憲司さんは、フィンガリングっていうよりは、
ピックで弾かれる方なんですね。
その時は、アコースティックギターで、
こういうふうに弾いてくれって
お願いしたんです。
でも、最初、俺が作ったフレーズだから、
俺の手癖があるわけです。
それがなかなかできなくって。
それを憲司さんなりに
昇華してくださってたんですね。
もちろん俺は納得したんだけど、
憲司さんはすごく怒って。
でも、俺に怒るわけにいかなくって、
思いっきりローディの方をですね(笑)、
怒鳴り散らして‥‥。
リハーサル室がシーンとなりました。
「てめぇ、なんとかなんとかじゃねぇよっ!
 ガーン!(蹴飛ばす音)」みたいな。
真司 俺、なんか、そういうとこだけ
似てるからイヤなんですよ。
宮沢 はははは!
真司 そうなんですよ。
音楽自体にムカついてるわけじゃないんです。
でも、そういうふうに当っちゃうんです。
で、そういう自分に、
やっぱりムカついてくるんですよ。
いいものが出せないっていうか、
やっぱ完璧にしたいっていうのが、
すごいあったから。
宮沢 そうなんですね。
真司 きっとその時に、宮沢さんの音を、
完璧に出したいって
いうのがあったんでしょう。
でも、自分ができないっていうのがあって、
ローディに当たってしまったんでしょう。
宮沢 うん、でも、本番、
その曲がすごくいい演奏で。
嬉しかったですね〜!
すごく、こだわってくれてるなー、
って思って。
真司 うん。
宮沢 僕にしてみたら大先輩だし、
憧れている人だし、リハーサルでは、
そんなに話すわけでもなく、
お互いにボーカルとギタリストっていう、
距離感は保ちながら、いたわけです。
でも、全部が終わって、
新宿で打ち上げをやってはじめて、
飲みながら、朝までずーっと
いろいろ話をしたんです。
すごく上機嫌で、憲司さん。
真司 わりと、そういうときは気さくに、
ね、なるんですね。
宮沢 ずーっと笑ってて。楽しそうに。
みんなが帰っても、
最後まで憲司さん残ってくださって。
でね、いろいろ言ってくれたんだけど、
「自分がやってきた道を、
 はいよ、と、バトンを渡すような感じが、
 今回、して、嬉しかった」
みたいなことを言ってくれたんですよ。
「俺らが切り開いてきた道を、
 歩んでくれよ」みたいな。
それがすんごい嬉しくて。
よしっ! 頑張るぞ!
っていった矢先に、
憲司さんの訃報が入ってきたんです。
‥‥すごいショックで。
でも、なんか、最後に、
そういう話をもらえて、
すごい励みになった。うん。
憲司さんのプライベートなスナップから。
真司 そっか‥‥。
俺も、一応ね、
ちゃんと死ぬ前に話したんです。
そのとき、俺も、だいぶ、
楽になったっていうか‥‥。
そういうパワーって、
親父、やっぱりありました。
宮沢 うん‥‥。
真司 俺ね、親父には、
ちゃんと音楽をやりたいっていうことを、
ちゃんと伝えたかったんです。
伝われば、すごい力をくれる存在で
あるかもしれないなと思って。
で、そう言ったんです。そしたらね、
‥‥こういうふうに言われたんです。
「おまえは俺で、俺はおまえだ」
って。
ちょっと意味、
わかんないかもしれないけど。
そう言われたんですよ。
宮沢 ‥‥。
真司 で、それが、どういうことなのか、
その時は、ぜんぜんわかんなくて。
だけどやっぱ、最近、
‥‥なんか、なんていうのかな、
自分が‥‥あー、
なんて言えばいいのかなぁ‥‥
んーと、俺が‥‥
ちょっとわかんなくなってきたな‥‥。
── それって、憲司さんが、
まだ健康でいらっしゃったときですか?
真司 いや、もうそれはね、
死ぬ、ほんとに2時間くらい前かな?
そのときにそういう言葉くれて。
結局、こうかな、
「俺が、生きてくうえで、
 音楽やってくうえで、
 親父の意見がほしいって思うような、
 わかんないことに出くわしたら、
 素直に俺が感じることが、
 きっと、親父が感じたことと
 同じだろう」っていう、
そういうことじゃないかな‥‥。
── その言葉は、わかんないときもあるし、
フッとわかったような気になる瞬間も
あるって感じですか?
真司 そうっすね、いろんなことが、
感覚的に、わかんなくなったり
するじゃないですか。
そういうときに、
ああ、オヤジがあの時に
こうしてたな、みたいなふうに
思うときって、あるじゃないですか。
そのときに、その言葉を
思い出すんですよ。
それで「あ、なるほどな」
って思ったんですよ。
それまでは、何言ってんのか
わかんなかったんだけど。
宮沢 ‥‥。
真司 「おまえは俺で、俺はおまえだ」。
それが一番、ほんと、
心に残ってる言葉です。
でも、やっぱりミュージシャンの方々、
みんなたぶん、ひとりひとりね、
親父と仲良かった人とか、
認めあってた人っていうのは、
きっとそういうのが、
あるんじゃないかなって思う。
俺は、ぜんぜん、ミュージシャンなんて
言えない時期だったから、
最後の最後に、あれを、
言葉を貰わなかったまま、
親父がいなくなってたら、
どうなってたかな、って思って。
そういうことを、
言える人だったなって、
いま、思いますね。
俺もそういう言葉を貰って、
だいぶ自信がついたんです。
宮沢 俺も息子が2人いて、
まだ小っちゃいんですけど、
どういうふうに接していいのか、
時々わからないんだよね。
いいことばっかり言ってたって、
自分がそんな人間かっていうと、
完璧に違うわけだから。
とはいえ、自分がやって
うまくいかなかったこととか、
そっちいくとヤバイぞみたいなことは、
先に言いたい気持ちがやっぱりあるし。
いいとこばっか見せる
っていうのも無理だしね。
どっかでやっぱり、汚いとことか、
半分ぐらい、人間、あるわけだから、
そっちもやっぱり見せなきゃ
いかんなって思うけど、
見せたくない部分もあるし。
すごく、どう接していいのかって、
まだ小っちゃいのに、何回かあるんです。
だから、まあ、無心に歌ってるときとか、
回数をなるべく見てもらうっていう
ことでしかないんだけどね。
真司 うん。でも、そういうとこが、
親父と、宮沢さん、
けっこう共通だったんじゃないかなと
思いますね。
この話、こないだも
タカさんにしたんですけど
俺、2歳ぐらいのときに、
1回教えてもらってるんですよ、ギター。
親父が、小っちゃいギター、買ってきて、
部屋に来い、みたいなこと言われたんです。
ギターを弾かせようとしたんだそうです。
でも俺が「いやだ」みたいな
感じだったらしいんですよ。
そしたらもう、ウチの母さんに、
「あいつは才能ねぇよ」みたいに言って、
パタリとその行為が
終わったみたいな(笑)。
── 2歳で(笑)。

2歳の誕生日、ミニギターがプレゼントだった。
弾いているのは憲司さん。ひざの上が真司くん。
真司 そう、2歳で
才能ないって言われちゃって。
だから、そっからたぶん、
教えようとしてもだめなんだったら
自分でやってることを見せよう、
みたいな感じで、
ライブにたぶん呼んでたんでしょうね。
でも、やっぱ、それが、
いちばん俺の中での、
音楽の糧になってるんです。
俺の中でも、オヤジのライブを
いっぱい見てきたっていうのが、
デカイんですね。
やっぱりいいもんだったと思うし。
今、考えても、やっぱ、
オヤジがいたライブっていうのは、
今、見る、どんなライブよりも、
しっかりしてるライブだったんだって
いうのがあって。だから、そういうものを、
俺も目指してやればいいのかな、
っていうのもあるし。
でも、いいことだと思いますね、
息子にね、自分のライブを
見せるっていうのは。
── 宮沢さんも見せてるんですね。
宮沢 東京で、だけですけどもね。
── 真司さん、何年か前にお会いして、
そのときはまだ、憲司さんが、
亡くなられてちょっとは経ってたけど、
真司さんはミュージシャンとして
活動を始めたばかりでしたよね。
真司 そうっすね。
── その頃と比べて、何年か経って、
お父さんの存在、
大村憲司の存在っていうのは、
どんな感じがするようになりましたか?
言い方悪いですけど、
音楽をやればやるほど、
重くなったとか?
真司 うーん、そう、なんか、
そう感じるときもあれば、
ないときもあるっていうか。
やっぱ、自分の活動
してるときっていうのは、
いちばん関係ない、ほんともう
関係がないぐらいなんですけど、
親父の息のかかったところに行くと、
ものすごいなんかこう、
何か、を、感じるっていうか。
── どこに行っても?
真司 そうですね。
やっぱりオヤジのことを知ってる人は、
どこに行っても、いらっしゃるんです。
親父と年代が近かったりする人には、
俺、ちゃんとやんなきゃいけないんだな、
みたいなことを感じさせる人が、
やっぱ、いますね。
プレッシャーを感じます。
けど、普段ずっと
感じてるかっていったら、
重いということじゃなくて、
力になってるところもやっぱあるから、
宮沢 父親がそういう存在だっていうこと、
すごく人々に影響を与えて、
名プレーヤーだったってこと、
‥‥想像できないですよね。
くどいようだけど同じ楽器だし。
真司 まあ、でも、逆に言ったら、
こういう言い方したら、なんだけれど、
ある意味、もう、その時点で、
俺が大村憲司の
息子であるっていう時点で、
終わってるっていうか、俺の存在。
そっから、逆に新しく始められるっていうか。
そういう気は、やっぱ、ありますよね。
なんかもう、越えるとか越えないとかいう、
次元じゃないじゃないっすか。
越えられないし、逆に言ったら、
越えてる部分もあるし、
なんかそういう、自分の中に自信があって、
でも自信がない部分もあって、っていう。
宮沢 やっぱり親父さんがやらなかったこと、
やれなかったことみたいなところを
俺はやるぞ、みたいなの、あるでしょ?
真司 そうですね、それはやっぱありますね。
ひとつは、自分のバンドを
持つっていうことですよね。
親父は、そういうバンドは、なかったから。
パーマネント(永久)に持続するような
バンドを持つっていうことは‥‥。
宮沢 ん‥‥。
真司 だから何年かかっても、結局、
そういう戦いだと思うんですよ。
やっぱり自分の人生っていうのは。
‥‥結局、最初は、
俺は親父の息子だから、
すぐデビューして、
何かをしなきゃいけないとかっていう、
そういう気持ちがすごいあったんですよ。
自分的にはそれで
いっぱいいっぱいのとこもあったりして。
でも結局、今は、何年かかっても、
オヤジに恥じないというか、
俺が死ぬときに、
「あー、親父、ゴメン」
みたいなふうになんないように、
それをもうとにかく、
何年かかっても探したい。
大変なんですよね、ほんと。
だけど、それを探して、見つけて。
もう見つけたらそれを極めてって。
うん。
だからやっぱ恥じないという意味では、
そういうレールっていうのは、
ありますよね、親父のレール。
ギターをやってかなきゃ
いけないっていうことも、
自分がギタリストとして
一生やってくんだっていう気持ちよりも、
親父に対するそういう気持ちが、
やっぱ、デカイっていうか、
親父の名に恥じないというか。うん。
宮沢 名に恥じない、か。
真司 というの、あります。
宮沢 そうか。
背負うっていう言い方は
良くないのかもしれないけど、
それも、一応背負わないと
いけないわけですよね。
真司 いや、そうっすね。
そういうことですね。
ほんとこう、家元、じゃないけど、
どんな不良な家元なんだよ、
と思いますけど(笑)。
でもやっぱり、ちゃんとしてるんですよ、
暖簾が。大村憲司の暖簾が。
音楽の大村家のものというのは。
やっぱり俺は、やっぱり男で、
長男でっていうのは、
ひしひしと感じるし。
家族からも、それは感じるからね(笑)。
逆に言うと、妹いるんですけど、
妹の方が、まだ、
自由にできてるかなっていうの、
感じますよね。
宮沢 父親であり、師匠であり、
ライバルであり、
そんなものも
同居してますよね、きっと。
真司 そうっすね。
宮沢 憲司さんのお通夜、
参列者は、そうそうたる
ミュージシャンの人たちだったんです。
ポンタさんが、
「ここにいる人間が
 みんないなくなったら、
 日本の音楽は、寂しくなるな」
みたいなことを言ったのが、
すごく象徴的で。
憲司さんの存在っていうのを言い表す、
ひとつの言い方だなって思って。
真司 そうっすね。
そういうものを継いでるんであれば、
やっぱり、頑張んなきゃいけないだろうし。

宮沢和史オフィシャルウエブサイト
http://www.five-d.co.jp/miyazawa/





宮沢和史
×大村真司

その2
先輩たちの姿が、
免疫みたいに
体に入ってる。

宮沢 CD、「First Step」が、
新鮮に聞こえましたね。
真司 俺も、いちばん最初に
聴いたんですけどね。
なんか若い感じがしますよね。
若いころのオヤジって感じが、
いちばんするんです。
「KENJI-SHOCK」は、
俺が聴くと、
かっこつけてる感じが、なんかある。
宮沢 ん。
真司 なんかいい意味でかっこつけてるかな、
っていうのがすごくあるんです。
「First Step」は、
同じ曲が入ってるんだけど、
なんか、もっとこう、なんていうの、
若いころの親父が
そのまま出てるかなっていう感じが
すごくするんです。
だから「KENJI-SHOCK」は
たとえば何かしながら聴く、
っていう感じじゃないですけど、
「First Step」は、聴けますよね。
宮沢さん、「春がいっぱい」とか、
どうですか? その頃のYMOを
聴いてらっしゃったんですよね。
俺はやっぱりリアルタイムじゃないので。
俺の感じでは、
陽気な感じがするんです。
宮沢 「春がいっぱい」は
やっぱ「実験」だったんだろうなって
思うけどね。YMO自体もそうですし。
アメリカの音楽に影響されて、
どっぷりやって。
でも何か、誰もやってない、
誰も行ったことない境地に
行きたいっていうような思いが
きっと、あったんだと思うんです。
細野晴臣さんなんかは、
「さよならアメリカ、さよならニッポン」
なんてメッセージを言ったり、
矢野顕子さんは独自の世界に行った、
みたいな感じがありました。
みんなそれぞれのところへ、
飛びだしちゃったみたいな‥‥。
その中できっと、
もしかしたら大村さんも、
自分なりに、ギターでできる、
誰も行ったことのないとこへ、
扉をこう開けたのかなって
いうふうに思ったけどね。
真司 けっこう切ない感じの曲が多いです。
宮沢 意外とそうだね、聞き直してみたら。
真司 メローなんだけど、
すごい、こう、にこやかな、
感じもするなっていう。
これが、YMOが?
宮沢 全面バックですよね。
ギターっていうのはやっぱり、
それまでは、人間臭くて、泥臭くて、
っていうイメージがあったから、
それとコンピューターの、
無機質な世界と同居するっていうのが、
すごく斬新に見えましたけどね。
真司 そっかー。
宮沢 なんにもお手本のない
世界だったんだよね。
真司 そうですよね、
それは俺もほんとに思います。
コンピューターって、
その頃、デカかったんですよね。
タンスみたいなのを使って
やるわけじゃないすか。
本気度が違うんですよね。
今やってる、俺らみたいな若いのと。
昔みたいに、楽器を極めて、
いい音を出したいっていうよりは、
自分を表現するぜ、みたいなほうに
行ってる気がするんです。
宮沢 日本の音楽シーンで、ちょっと寂しいなと
常々思っているのは、
アーティストとかプレーヤーの人が、
何か商標、商品みたいになってることなんです。
人間自体の評価っていうものが、
希薄な気がするんですよね。
たとえばアメリカでとか、
ジャズプレーヤーでもなんでもいいけど、
リトナーだったら
「あ、リー・リトナーね」
っていうものがあって。
彼のCDがどうのとかっていうよりも、
彼の存在自体にスポットライトが当って、
みんな評価してる。
いや、俺は好きじゃないよっていう人も
もちろんいるけども、
そういう部分が日本には
すごく少ないなと思ってて。
ですから、ギタープレーヤーっていうことで、
食える人って、昔に比べたら、
今、すごく少ないじゃないですか。
バンドの中のギタリスト
っていう場合もあるけど。
大村憲司さん、チャーさん、
鮎川誠さんとか、
名前出しただけでもう、
音も聞こえるっていう人が。
真司 今は、ミュージシャンを町中で見ても、
なんか普通なんですよ。
「キャーッ!」ってなる存在の人が、
少なくなったんじゃないかな。
宮沢 日本のポップスの歴史、まだ短いんで、
全然まだ始まったばっかりだと
思うんだけれども、
音楽ファンの人にも言いたいんです。
商標に目が行くっていうことじゃなくて、
プレーヤー自体に目を向けて、
評価していく時代になって欲しいなと思うし。
で、憲司さんのアルバム、発売になるんで、
すごいいいチャンスだと思うんですよね。
日本の歴史の中で誇るギタリストのCDが
再発になるって、
すごい良いことだなと思って。
これだけいっぱい色んなものが
CDで発売されていく中で、
ちゃんとこの素晴しいものが、
また、みんなの目にとまるチャンスです。
これはすごいことですよね。
真司 俺が聴いても、
斬新だなと思う部分もあるくらいだから。
古いのに新しい部分って
やっぱりありますよね。確かに。
── 宮沢さんが、大村憲司さんと
一緒にツアーをやられる前に
感じていたことと、
一緒にやってみて、実際にプレーヤーとして
おんなじ舞台に立ったときとっていうので、
何か変化ががありましたか?
ほんとにこの人こうだったんだ、
って感じたことって、ありましたか?
宮沢 あのね、いくらファンだといっても、
それまでは生の音を聴くことは
なかったんです。
── そうですよね。
宮沢 コンサートでも、
会場のスピーカーを通して聞くでしょう。
アンプから出てくる生の音なんて、
聴けないわけですよ。
だから、ビックリしましたね、音の良さに。
リハーサルでもう、
バンザーイっていうくらい
この音はすげぇな! と思って。
そして、ライブだと、
もっとすごいわけですよ。
ビックリしましたね。
これだっ! これがエレキの音だ、
っていうぐらい。
そのときのツアーメンバーは、
すごいミュージシャンばっかりでね。
小原礼さんがベースで、
沼澤尚さんがドラムで、
憲司さんがいて、っていう。
そういう後ろからのサウンドがもう、
ヴォーカリストの僕は
気持ち良くって気持ち良くって。
真司 いまだにすごいと思うのは、
親父の機材って、
ほんっとにスタンダードなもので。
宮沢 そうだよね。
真司 ほんと、誰でも買えるもので。
ケーブルもね、さしていいものを
使ってるわけでもないし。
でも、ほんとに、
「その人が出す音」っていうのがあった。
まさに、大村憲司の音
なんだなっていうのがあって。
ほんとに心からね、出てる音っていうか。
宮沢 そうだよね、今はほんとに、
シミュレートすることが多いというか
言い方変えれば
バーチャルなサウンドが多いわけですよね、
ギターにしても。
アンプもシミュレートできるし。
誰でも、けっこうどんな音でも
出せるっていう世界だけど、
逆ですよね。
もう大村さんしかできない。
だけど、そんなに、
なんか秘密があんのかっていうもんじゃない。
真司 なんにもないですよ。
宮沢 人間が出ちゃうっていうのがね。
── そんなに違うんだ。
真司 ほんと、まさに、真似できないとこですよね。
ほんとに。大村憲司のサウンドっていうのが、
チョーキングのタイム感とか、
ピッキングもぜんぶ含めて、
「音っていうのは、すごいな」
っていうのがあって。
宮沢 憲司さんのソロで盛り上がって
終わるっていう曲があったんだけど、
メインボーカルの僕が
客になってるっていうぐらいに
背中で聴いてました。
背中で聴いてんのに、
ゾクゾクってするんです。
── 本番も、また違う感じですか。
宮沢 ライブだからって
デカくなったり派手になったりする
わけじゃないんだよね。
すごい冷静だし。
より、濃密になってくんですよ、音が。
やってることは、
リハといっしょなんですけど、
濃密なんですよ、音が。
説明しづらいんですけどね。
── それって、今、何かで、
見れたり聴けたりしないんですか?
宮沢 あ、DVDになってますよ。
真司 俺も、たまに見ますよ。
すごいです、あれは。
宮沢 あ、そうね。それ、見て欲しいですね。
そっか、あれが残ってるんだよね。
真司 かっこいいっすね。
あれで初めて俺はタカさん
(沼澤尚さん)を見たんです。
もともとTHE BOOMは聴いてたんですよ。
宮沢 え、真司君、いくつだったの?
真司 小学校か中学か。
宮沢 今いくつ?
真司 今、21です。
宮沢 当時、ウチの息子ぐらいの
歳だったんだね。
真司 あんときのライブ、
かっこよかった。
いま映像で見ても、なんか力がある、
伝わってくるっていうか。
宮沢 僕が最初に憧れた
日本人のミュージシャンっていうのは、
やっぱ憲司さん世代なんですよ。
矢野顕子さん、
坂本龍一さん、
細野晴臣さん‥‥
すごい層じゃないですか。
あの、数年に凝縮された人たちって。
あの層には、すごい影響されたんです。
たとえば矢野さんは
リトル・フィートと
『Japanese Girl』を作った。
そして、そのリトル・フィートから、
ギャラいらないよって言わせた。
これ、すごいことですよね。
佐野元春さんは
ひとりでニューヨークに行って、
『VISITORS』っていうアルバムを
作りましたね。
あの時代に、向こうで
ミュージシャン集めて。
俺、ラジオで、山梨の田舎で
ラジオしか情報源のないところで、
そういうの聞いてて、
すげぇな、みんな、と思ってた。
真司 なんか、昔のほうが、
ほんとにアメリカの人とかね、
対等にやってたっていう
イメージがありますね。
── 「はっぴいえんど」の写真集
『SNAPSHOT DIARY:TOKYO 1968-1971』
『SNAPSHOT DIARY:TOKYO 1971-1973』
を見ました? 顔が違うんですよ。
すんごい鋭い顔してるんです。
真司 俺はね、親父の「赤い鳥」時代の写真で
そういう印象がある。
あの人たち、なんか、
野人みたいだね(笑)。
ほんっとに。
宮沢 かかってこい、
みたいな感じなんですよね。
みんなそうだったじゃないですか、
あの時代って。
俺はそれを田舎で見てて、
俺が好きな人、みんなそうなんだから、
俺もいつかはそうしよう、
っていうのがどっかにあったんです。
だから、この歳になって、
ヨーロッパで勝負をしたりとか、
ブラジルでもまれたりとかしていますが
先輩たちのそういう姿があったから
免疫みたいに、体に入っているわけですよ。
その先輩たちを、
自分の父親みたいなもんだと考えると、
親にはできないことを俺はやるぞと思って。
そういうことでしか
「追い越した感」がないわけです。
いつまでたっても、みんな一線だし。
── わかります、すっごくよくわかります。
宮沢 矢野さんにはできなかったこと、
教授(坂本さん)には
できなかったことを、
やりたいなっていうのが、ありますよね。
だから、真司君を見てると、
そういう人が身近にいたっていうことが
すごく羨ましいんです。
お手本であり、
越える、ひとつのハードルであり、
金字塔であり。
真司 知らないでいたらもったいないし、
でも、知っているからツラくもあります。
でも、幸せだっていったら
幸せかもしれないです。
これは、俺に限らず、
同世代の人に言いたいです。
── 知ったほうが、
面白いんじゃないかな?
宮沢 大村憲司さんみたいなプレーヤーは。
そんなに音楽をコアに知らない、
一般の人にも、知っていてほしいんです。
知らないと、おかしい!
ぐらいに思うわけですよ。
誰も知らない境地を作って、
自分で切り開いていった人って、
何人もいるわけじゃないじゃ、ない。
そういう人を、
みんなが知ってるっていうほうが
健全だと思うし。だけど、
作られたスポットライトの当る人間にしか、
みんな興味がいかない。
それは、売るほうの
システムもあるでしょうけど、
そうじゃない! と思うんですよね。
真司 でも、今なんかは、
けっこう動いているほうだと思います。
やっぱりそういう商標的なとこって、
いつでもあるんだけど、
そうじゃない部分っていうのが、
活発になってきてる部分が、
自分が音楽をやっていても思うんです。
若者は若者で、やっぱ考えていて。
宮沢 そうかもね。フジ・ロックなんかで、
井上陽水さんなんか出ると、
若い人なんかが、すげぇ、って。
大拍手だっていうんですよね。
── 本来、その人目当てじゃないのに、
その人に持ってかれる
っていう感じですよね。
宮沢 俺ら(30代後半)の井上陽水像っていうの、
あるじゃない?
で、10、20下の、
たぶんそんなのがない人たちが純粋に、
すげぇ、この人は、っていうの、
すごい面白いことだと思うんです。
日本のポップスも、
どんどん面白くなる気はしますよね。
そういうなかで、大村憲司さんのCDが
バッと出るっていうのは、
いいチャンスだなと思います。
── これから、真司君に、
大貫妙子さんと高橋幸宏さんに
会ってもらうんですよ(笑)。
びびってる?
真司 ‥‥早く終わらせたいくらい(笑)。
宮沢 もう、あのお二方は、
憲司さんがいなかったら、
たぶん音楽人生、
ぜんぜん違うほうへ
行ってたかも知れないぐらい、
憲司さんと密接でしたよね。
で、すごく不謹慎な言い方なんだけど、
亡くなってね、大貫さんとも話したし、
いろんな人たちと会ったときに、
みんな口々に同じことを言ってたのが、
「どうしよう」、
「代わりがいない」って。
真司 うん‥‥。
宮沢 憲司さんの代わりがどこにもいない、
どうしよう?
そう、みんな思ったっていうんですよね。
そういうアーティストだったんだな、
そういうプレーヤーだったんだな、
っていうのを、改めて感じましたね。
‥‥真司くん、いま何してるの?
真司

LightFoot(ライトフット)っていう
バンドやって、ギターやって、
曲つくってます。

宮沢 お、こんど聞かせて。
真司 まだ宮沢さんに聞かせるほどじゃ‥‥
宮沢 いや、聞きたい。
送ってね。がんばって。
真司 ハイッ、わかりました。
ありがとうございました!

宮沢和史オフィシャルウエブサイト
http://www.five-d.co.jp/miyazawa/

 



高橋幸宏
×大村真司
その1
毎日一緒にいた。
兄弟みたいだった。


高橋 (4枚のCDジャケットを見て)
お〜!(笑) 懐かしい!
オリジナルジャケットで
出るんだよね。
First Step
1978年
Kenji Shock
1978年
春がいっぱい
1981年
外人天国
1983年
── ソニーの3枚()は紙ジャケです。

*First Stepが東芝EMIから、
 Kenji Shock、春がいっぱい、
 外人天国がソニーから発売されます。
 ちなみにソニーの3枚は
 紙ジャケット完全生産限定となります。

真司 YMOのベストアルバムと同時に
復刻されるYMOシャツって
オヤジも着てましたよね。
あるのかな? ウチに。
高橋 あったとしてもね、
小っちゃくて着れないよ。
復刻版を作るということになって、
オリジナルのサイズを
チェックしてみたんだけど、
胴まわりなんて、めちゃくちゃ細い。
みんなガリガリだったからね。
真司 もうみんなすごいもんね(笑)。
すごいスレンダーなの。
高橋 さすがに“忠実な復刻”といっても、
多少直しました。これじゃあ、
女の子しか着れないからね。
── 憲司さんも、大柄では
なかったんですか?
高橋 当時は、憲司も痩せてましたよ。
真司 晩年は太っちゃったけど。
高橋 (憲司さんの若い頃の写真を見ながら)
こうですからね。

YMOのワールドツアー、ロンドンでのスナップ。1980年。


「春がいっぱい」の頃、軽井沢でのスナップ。
真司 そっからだんだん
サルの進化みたいに
変わってった(笑)。
高橋 誰でもそうだよ。
‥‥ということで、
(姿勢をのばして)はい、真司くん、
今日は何でもお答えしますよ。
真司 わっ、何から話したらいいのか、
いっぱいあって、わかんないくらいです。
とりあえずは、まず、YMOのころの、
ツアーの話とか聞きたいです。


高橋

うん。えっとね、
YMOのツアー、いちばん最初は、
ご存知のように、
ギタリストは渡辺香津美くんだったんです。
でも僕たちがYMOを始めて
2年目のツアーのときには、
もう、かなりロック色が強くなっていたのと、
その頃僕は憲司と一緒に
「春がいっぱい」をつくっていたりして()、
YMOにも、ぜひ、
もうちょっとロックっぽいギターを
入れたいなと思っていたんです。
もちろん香津美も香津美なりに
すごい良かったんだけれど、
フュージョン系の受け取られ方を
したところもあったりして。

*「春がいっぱい」は高橋幸宏さんが
 共同プロデューサーをつとめた。


真司 なるほど。
高橋 そんなときだったから、
憲司だったら、もうちょっとロックっぽく
できるよね、やりたいな、って
僕の希望を二人
(細野晴臣さん、坂本龍一さん)に
聞いてもらって、
みんなも納得してくれて。
真司 それで参加することになったんだ。
その前とかから、やっぱり、
面識があったっていうか、
一緒にやっていたんですか?
高橋 憲司との初めての出会いは、
野音でした。
真司 日比谷野外音楽堂。
高橋 ええと、憲司がやってたの、
何だっけ? 「赤い鳥」の後の‥‥。
真司 「バンブー」とか「カミーノ」の頃?
「エントランス」あたりかな?
高橋 そうだ、僕が会ったのは
「バンブー」の頃だね。
だけど、その前から、
憲司の存在は知っていて、
プレイも見てるの。
すっげーうまいギタリストが
いるって聞いてて、
どういうタイプなのかって
見に行ったんです。
フュージョン系なのかな、
って思ってたら、そうでもなくて。
あんまり必要以上のものを弾かない人で。
昔っから。
初めて見たとき、今でも憶えてるけど、
リー(Lee)のオーバーオールを着てて。

77年頃の憲司さん。
Leeのオーバーオールがトレードマークだった。
真司 あのころ、アフロだった
こともあるんですよ。
写真で見たことあります。
高橋 そうだったんだ?
そのころの髪形は憶えてないけど、
リーのオーバーオールを着てて、
メガネをかけてた。
それで、ドラムが林立夫と
ポンタ(村上秀一さん)のダブルで、
今井裕がいて。
Blackbirdとか、
カバーでやってたんだ。
それが、憲司を見た最初だった。
真司 そんときはロックっぽかったんですか?
高橋 すごくロックっぽいって
いうのとも違うんだけど、
けっこうロックっぽい曲も、
やっていたんだよ。
真司 新しい感じだったのかな。
高橋 新しいっていってもね、
聞いたこともない新しさじゃなくて、
日本人でこれだけ
上手い人たちがいっぱい集まってるんだ、
っていう意味での、新しさのイメージだった。
真司 うーん、なるほど。
高橋 で、僕がミカバンド
(サディスティック・ミカ・バンド)
だったでしょ。
憲司とやってた小原(小原礼さん)は
ミカバンドから見ると裏切り者で(笑)。
ミカバンドを飛び出してった
人間だったから。
でも、なんか、すっごい伸び伸びと
やってたのを憶えてるよ。
真司 で、YMOに、つながるの?
高橋 いや、そのときはね、
挨拶したぐらいで。
ええと、だんだん‥‥。
憲司に最初に頼んだのは
何だったかなぁ‥‥。
そうだ、まずね、僕のソロアルバム
「Saravah!(サラヴァ!)」でね、
ギター弾いてもらってるんだよ。



それは教授(坂本龍一さん)からの、
推薦だったと思うんだけど、
妙に、意気投合して。
その後、僕がプロデュースするものには、
たくさん参加してもらうようになった。
いちばん思い出深いのは、
Susan(スーザン)って女の子の
プロデュースで。
真司 それは母さんからも
聞いたことがあります。
高橋 合宿レコーディングをしたりね。
1枚目は1980年の
「Do You Believe In Mazik
 〜魔法を信じるかい」
っていうアルバムだったんだ。
ジョン・セバスチャンの
曲のカバーをやったんだけど。
憲司にはもう、喋ってもらったり、
歌詞を一緒に考えたり()とか、
もういろいろやってもらってる。

*大村憲司作詞の曲は
 「It's No Time For You To Cry」で
 作曲は鈴木慶一さん。
 また、佐藤奈々子作詞の
 「24000回のKiss」、
 クリス・モスデル作詞の
 「Screamer」では、
 憲司さんが補作詞をしている。


で、2枚目の「The Girl Can't Help It
〜恋せよおとめ」っていうアルバムも
ほんと憲司とべったりやってもらって。
その頃と、「春がいっぱい」の時期って、
わりとくっついてんの。
真司 幸宏さんとオヤジが、
一緒に作ったんですか。
高橋 うん。80年、81年頃。
合宿、伊豆あたりでやったなあ。
もう毎日、憲司がふだん
やらないようなことばっかお願いして、
弾いてもらって。
そんなことがあって、81年に、僕が
「Neuromantic(ロマン神経症)」
っていうアルバムを、
ロンドンでレコーディングしたときに
憲司にもロンドンに
一緒に来てもらったんです。
だから1年間、
もうほとんど一緒だったんだよね。。


真司 1年間、ずっと!
一緒にスタジオワークしたりとか?
高橋 スタジオワークもしたし、
YMOのワールドツアーもあったしね。
ロンドン・レコーディングのときは、
結局7ヶ月ロンドンにいたんだけど、
憲司には最初から来てもらって
3ヶ月ぐらいはずっと一緒だった。
合間に加藤和彦のアルバムの
レコーディングがフランスであって、
それもロンドンから一緒に行って。
で、またロンドンに戻って、って、
そんな感じでずっとやってた。
ほんとにそのときは
兄弟のように一緒にいました。

81年、フランスの田舎のスタジオで、
加藤和彦さんのレコーディング。


パリで、教授と。
── 伊豆合宿で、憲司さんに、
やったことのないことを、
いっぱいやってもらったって、
たとえばどんなことだったんですか。
高橋 もうグシャグシャな
エフェクティブな音で。
ほとんどギターだって
わかんないようなのとかね。
まあ、今思えば、
それも音楽的なことなんだけど、
フレーズじゃなくていいとか、
ノイズだけとかね。
「Neuromantic」の中の、
僕の「Glass」って曲があるんだけど、
その曲のソロはすごいですよ。
でも、まあ、
エイドリアン・ブリュー()とか、
そのへんが頭にあったんですね。

*Adrian Belew
 元キング・クリムゾンのギタリスト。


憲司はエイドリアンに
すごく興味があって、
そういう音の出し方とかを、
研究してましたよ。
かなり新しいタイプの
ギタリストの一面を、
出してたと思うな。
フレーズを弾くソロではないソロとかね。
で、その「Glass」っていう
曲のレコーディングでは、
エンジニアのスティーブ・ナイ()が、
憲司のソロを聴いてね、
「実は自分はあんまり
 ギターソロとか好きじゃないんだけど、
 このソロは最高だ」
って言ってたのを憶えてる。

*Steve Nye
 イギリス人のエンジニア。
 JAPANのプロデューサーもつとめた。
 ブライアン・フェリーや
 ペンギン・カフェ・オーケストラも手がけている。

真司 へぇー。
高橋 3テイクぐらいでOKだったよ。
ただウィーン! って
いってるだけなんだけど(笑)。
だけどかっこいいんですよ、それ。
真司 オヤジと幸宏さんは、
衝突とかはなかったの?
ずっと仲良く?
高橋 憲司とはね、衝突しなかったですね。
僕が、新しいことやるってことに対して
一緒に面白がってくれたし、
尊重してくれた。
憲司は、かっちりとした
自分のスタイルを持っていながら、
新しいことにも
どんどん挑戦してくれたんだよね。

── そのころ真司くんって、いくつぐらい?
真司 いや、俺、生まれてないと思う。
高橋 何年生まれ?
真司 俺81年生まれっすよ。
高橋 じゃ、生まれた年ぐらい。
真司 お腹ん中で、ずっとテクノを聞いてたから。
高橋 胎教はテクノだね。
真司 うん。テクノ聞くと落着く。
高橋 ははははは。
その当時、ニューウェーブ系とか、
新しいグループで
新しいギターワークのバンドがあると、
憲司に聞かせて、
どう? って訊くんだよ。
憲司はもちろん好き嫌いはあるから、
好きなものは、
ものすごい面白いって言うし、
これ、こういうことやってるんだよって、
分析もできるわけ。
で、当時の連中は
憲司みたいにテクニックがなくて
自分のスタイルだけを出してくる
連中が多くてね。
憲司は、テクニックを持ってるから、
それを分析して、
これね、5弦となんとかで、
こういうふうにやってるんだよとか
教えてくれて。
真司 YMOと一緒にツアーしたときのこと、
もうすこし聞かせてください。
高橋 憲司は最後まで、僕に会うたびに、
「あれで自分の人生の方向性が変わった」
って、よく言ってたね。
真司 でも、ほんとそうだよね。
表の舞台にバッと出て、
ロックスターっぽい時期だったと、
俺の中ではそう見える。

80年、YMOのワールドツアーでの憲司さん。
高橋 ワールドツアーでは歌ってたしね。
あと、僕の80年の
「音楽殺人」ていうアルバムの中の
憲司のギター、すごいよ。
「Bijin-Kyoshi At The Swimming School
 スイミングスクールの美人教師」
っていう曲では、
憲司にシャドウズみたいな音で
弾いてもらってるし。
「The Core of Eden」
っていう曲のギターソロも、最高ですよ。
それは、イギリスの
プロコル・ハルムっていうバンドの
ロビン・トロワーみたいに弾いて、
って言ったら、
もう一発でその感じになってたし(笑)。


── かなり蜜月時代があったんですね。
高橋 うん。
真司 「春がいっぱい」に至る経緯を、
もうちょっと聞かせてください。
高橋 ずっと毎日毎日一緒にいて
いろいろなトライをしてきたわけでね、
その感じを、
次の憲司のアルバムではやってみようよ、
っていうことだったんです。
そのころの憲司のポップな感じとか、
ニューウェーブから影響受けたとか、
僕たちがそのころ好きだったものを
やってみたっていう曲が多かったですね。
だから、すごいイギリス的なアルバム。
ジャケットもイギリスで撮ったんですよ。

真司 1曲目の
「Intensive Love Course」
って曲がすごい好きで。なんか‥‥。
高橋 あのアルバムはね、
途中から教授も参加してくれて、
コ・プロデュースで名前が入ってるでしょ。
教授は、ミキシングに対する
アイデアとかも出してくれて、
それでまたさらに広がった。
でも「Kenji Shock」とは対極だよね。
「Kenji Shock」をプロデュースした
ハービー・メイソンが
「春がいっぱい」を聞いて、
俺がせっかくいいアルバム作ってやったのに、
こんなにしやがってって
言ったらしいから(笑)。
真司 「Kenji Shock」のほうは
すごいかっこつけてる
オヤジのイメージがあります。
高橋 フュージョンの波に
ロックギタリストが入ってって、
キチッとした教則本みたいな
アルバムを作ったっていう
感じなんですよね。
みんな上手くて、完成度高くて。
真司 うん、でも「春がいっぱい」は、
すごい、なんていうの、
ほんとに優しい感じというか、
肩の力抜けててね。みんなで‥‥。

六本木のソニースタジオでの
「春がいっぱい」の録音風景。
高橋 たとえば、
セイコ(憲司さんの奥さん)に
対する思いとかが、
ちゃんと曲になってたり。
真司 内面的なところがありますよね。
高橋 「Seiko Is Always On Time」
セイコさんがいっつも遅刻するっていう
内容なんだけど。
真司 ははははは。
高橋 それ、時計のSEIKOとセイコとかけてるんだよ。
なかなかそのへんの憲司の、
シニカルな感じもあったんですよ、
歌詞の作り方に。

YMOのワールドツアーはセイコさんも同行した。
真司 死ぬ直前に作ってた曲とかに、
共通するものがあるのかなぁ。
内面が出てくるっていうか、
タイトルで語るんですよね、
オヤジって。
高橋 あと、憲司はボーカリストとしても、
すごい魅力的だったからね。
「Far East Man」なんか聞くとね、
かっこいいですよね。
うん、ロックギタリストが
歌ってるっていう感じがして。
真司 いぶし銀な感じっすよね。
声が、太くて、低くて。
幸宏さんは、4枚のアルバムで
やっぱり好きなのは
「春がいっぱい」?
高橋 「春がいっぱい」がいちばん好きだね。
だけど、「Kenji Shock」も、
いちばん最初に聞いたときは、
やっぱりびっくりした。
その完成度の高さにね。
でも、僕たちが一緒につくるときは、
心がそっちになかったよね(笑)。
── じゃあ、わりと、
「春がいっぱい」みたいな
ポップな感じをやろうっていうのは、
お2人の中ではすごく
自然な方向だったんですね。
高橋 自然でしたね。
やってたことをそのままアルバムにして。
しかも憲司が、
ちゃんとリーダーシップを
とれる人だったんで、
自分の思いをちゃんと文章化してくれて、
歌詞も書いて。
すごい頑固なとこあるし、
こうだって決めたら、
絶対にそれはやる人だけど、
人の意見ももちろん、
うまく聞くんですよ。
── 参ったな、っていう瞬間はなかったですか?
高橋 憲司に関してはなかったけど
ふたりして「参ったな〜」はありました。
「Under Heavy Hands and Hammers」
っていう、すごい重い曲があるの。
すーごい、いい曲なんですよ、今聞いても。
憲司が歌ってるんだけど、それもいいし。
それを僕と憲司でほとんどミックスし終えて、
教授に聞かせたら、
「これ、すごくね、上手にミックスしすぎてる」
って言われて。
僕たちはそのままで
絶対いいと思ってたんだけど、教授から
「頼むから僕に、もう1回やらせてくれ」
って言われて、ミックスし直してもらったの。
それを聞いたらさ……、
そっちのほうがいいわけ(笑)。
バランスは、悪いんだよね、
教授のミックスは。
だけど、なんか魅力的なんだよ。
こういうのもあるんだねって
憲司と言ったのを憶えてますよ。
真司 嬉しいような悲しいような瞬間ですよね。
高橋 今思うと、教授、その頃けっこう
荒れてるっていうか、
今みたいに安定していなかったから(笑)、
その、やや荒れた感じが、
うまく曲と合ってたんじゃないかな。
すごく暗い曲なんでね、実はね。
音楽っていうのは、
安全な部分とか平均点で作ることが
ベストじゃないんで。
かえって壊しちゃったことで、
すごくいいっていうふうに
なることもあるという、
ひとつのいい例だと思いますよ。


これはミラノのホテルで、
細野さんの陰にかくれてふざける憲司さん。

 



高橋幸宏
×大村真司
その2
憲司がいないからね、
憲司が必要な曲は、
もう、作らないんだ。

真司 YMOとかのツアーをしてるときの、
ステージ降りたときのオヤジって
どんなでした?
いちばん俺は興味あるところなんです。
やっぱり舞台の前とか、
ナイーブなこと、してましたか?
高橋 いや、いつも淡々としてたな。
マイペースで。
真司 へぇ。楽しんでたんだね。
高橋 もうSoul Train()まで
一緒に出てるしね。

*Soul Train:
 アメリカNBCのTV番組。
 1980年、YMOは日本人初の出演となった。
 演奏した曲は"Tighten Up!"と
 "Computer Game"。


日本でTV出演した時のYMO。
左から、坂本龍一さん、憲司さん、幸宏さん、
松武秀樹さん、細野晴臣さん。
右端の女性は橋本一子さん。


リハーサル中の憲司さん。手前の足は教授。
真司 ワールドツアーって、うちの母さんも
いっしょに行ってたんですよね。
どっかで踊りに行っちゃったとかで、
ウチのオヤジに後でもう、
こっぴどく怒られたっていう。
母さん酔っぱらったときに
俺、聞き出してるんだ。
高橋 そうそうそう。
どこだっけな? ドイツだよ。
ハンブルグか、どっかで、夜、
「セイコがいない!」って大騒ぎして(笑)。
真司 みんなで探しに行ったの?
高橋 僕が彼女をたしなめたの。
憲司に心配かけちゃダメだよ、
って(笑)。
真司 あはははは。

セイコさんと一緒の写真は、
憲司さんの顔が、とても、やさしい。
高橋 加藤和彦氏の三部作()には、
僕、全部関わってるんだけど、
海外録音、かならず憲司も同行してたものね。
「パパ・ヘミングウェイ」では、
バハマに一緒に行って。
同じように参加してた教授と
小原(小原礼さん)は別荘を借りて、
僕と憲司がホテル住まい。
その次が、ベルリンで。
なんか楽しかったなあ。

*加藤和彦氏のアルバム
 79年バハマ録音
 「パパ・ヘミングウエイ」
 80年ベルリン録音
 「うたかたのオペラ」
 81年パリ録音
 「ベル・エキセントリック」のこと。


加藤和彦さんのバハマ録音でのスナップ。右は教授。


バハマ録音の打ち上げで。右は“ズズ”こと、故・安井かずみさん。


↑↓どちらもベルリンで。左から加藤和彦さん、幸宏さん、
憲司さん、細野晴臣さん、矢野顕子さん。

真司 いいっすねー。
高橋 うん、面白かったよ。
ベルリン行ったときに、
「FACE」っていう雑誌の取材があってね、
ロンドンで今も続いている当時からすごい
ファッショナブルな
ポップカルチャーマガジンなんだけど。
その撮影に憲司にも来てもらったんだ。
そのときのカメラマンが
シーラ・ロックっていう女性で。
それが縁で「春がいっぱい」のジャケット
を撮ってもらったという。

左がシーラ・ロック。
真司 このジャケットのオヤジですね!
すごいファッションですね。
高橋 それ、スタイリストも「FACE」を
やってた女の子で。
いわゆるモッズとかルードボーイ系の
古着で、上から下まで全部揃えてね。



真司 へぇー。そうなんだ。
俺の世代からすると、
当時の先端のファッションかと
思ってた。
高橋 このパンツの丈と、
白いソックスが絶対重要なの。
黒のスーツでも白いソックスを
履くっていうのがかっこいいわけ。
そういえばワールドツアーのときに
憲司が着てたスーツは、
「音楽殺人」で僕が着てたスーツと
同じものを作ったんだよ。
憲司がまた似合うんだ。
真司 へぇー。
それは、幸宏さんのデザイン?
高橋 そうです、「Bricks」。
真司 あの頃のオヤジ、すごくシックで
かっこ良かった。
なんか晩年はラフだったから。
俺のジャケット着てったりしてさ。
高橋 晩年は昔に戻ってたよね。
80年頃は、オシャレも徹底してたんだ。
買い物もよく一緒に行ったりしてたしね。
80年、81年、
ニューウェーブがいちばん
盛り上がってたとき、
ほんとに憲司と、いちばん楽しく
過ごした時期だった。
いっつも一緒だったし、
ウチへご飯も、
しょっちゅう食べに来てたし。
真司 ニューウェーブって、
なんか楽しそうっすね。
ポップな感じで。
高橋 うん、何でもありだもん。
下手なことがかっこいい時代だったから。
その意味では、憲司も苦労したと思うよ(笑)。
うまく弾きすぎると、
違うんだよねって言われるから(笑)。
でもね、上手いからこそ
できることって、いっぱいある。
当時、矢野アッコ(顕子)ちゃんが
言ってたようにね。
下手なものって、彼女は認めないのね。
上手い人がそれをやるなら認めるけど。
真司 下手なやつが
かっこ良くやってもダメ‥‥。
高橋 それはただの下手なんだよね。

真司 当時のなんかのラジオに出てる録音を
聞いたんですけど、
それもすごい楽しそうだった。
── 真司君は、今わりとお父さんの、
そういう録音したものとかを聞いてるんだ。
真司 うん、なんか、
見つかったら聞いたりとかします。
幸宏さんはYMO以後も、
オヤジといっしょにやってたんですよね。
高橋 そうだな、なんだかんだで、
何回か違うときもあったけど、
僕のソロのツアーでは、ほとんど
ギター弾いてもらってる。
真司 うんうんうん。
高橋 ほとんどのツアーに来てもらって。
でも、ローディーやスタッフにとっては
怖い存在だったみたいだね。
誰も憲司のギターには
触れられなかったんだよ。
真司 ピリピリしてたんだ。
高橋 リハーサルの空き時間や楽屋の中でも、
ずっとひとりでただ黙々と
ギターの調整していてね。
真司 家でもずっとやってた。
こうやって(刀を見るように)
ネック見てるオヤジしか、
イメージないですもん。
家にいるオヤジのイメージって。
高橋 でも、ああいうのがあって、
憲司のギターの音、太いんだと思う。
あの太さは異常だ(笑)。
3人ぐらいでギターのソロをやると、
もう他の人のギターの音が、細い、細い。
真司 そう、一発で決まるよね。
誰かが弾いた後に、
ウィンてやったらもう拍手が来る‥‥
すごいっ! って終わらせちゃうの。
今、いろんな録音を聴いても思う。
なんでそんなに違うのかな?
息子としては、
もうちょっとバカにしたいのに、
できないからね、やっぱり。うーん。
高橋 もちろん憲司っていうと、
クラプトンの影が必ず感じられるのね。
随所に出てくるんだけど、
あとになってくると、
それがほとんど影を潜めてて。
でも、昔のYMOのビデオを見ると、
憲司のソロのところで
いきなりクラプトンの
フレーズが出てくるんだよね(笑)。
それがまた面白くて。
真司 YMOの頃の音が、
いちばんロックだったんじゃないのかな。
高橋 強力でした。
真司 めちゃめちゃヘビー。

80年のYMOワールドツアー、パリ公演。ル・パラスにて。


ロンドン、ハマー・スミス公演。
高橋 憲司の「春がいっぱい」はもちろん
最高だと思う。でも、僕の作品群、
「Neuromantic」の「Glass」や
「音楽殺人」の「The Core of Eden」での
大村憲司の仕事っていうのもまた、
すごいと思う。
真司 俺も聞いてみよう、家帰って。
高橋 あとね、今でも思い出深いのは、
憲司が亡くなる2年ぐらい前かな?
「A Sigh of Ghost」っていう
アルバムを出したんだけど、
そのギターソロ、すごいいいんですよ、
ロックっぽくて。なんか荒々しくて。
その曲、僕はユーレイっていう、
いつの間にか死んじゃったんだけど僕、
っていう歌なのね。
歌詞、聞いたら
泣いちゃうかもしんない。
そのギターソロ、すごいよ。


真司 へぇ‥‥。
高橋 あんまり弾いてないんだけど、
やっぱりああいう太いギター、
ロビン・トロワーみたいな
ギターが欲しいなと思うと、
憲司しかいなかった。
だから、今はもう、憲司がいなくなって、
弾く人が、いないんですよ。
── 今、どうなさってるんですか?
高橋 そういう曲、作らないです。
まあ、今、細野さんとやっているのは、
違う傾向の音楽ですからね。
そっちを必要とする曲は
あんまりないんだけど、
もし作ったら、
どうしようかなと悩むところですね。
真司 そっか。
高橋 憲司とはね、面白いこと、
いっぱいあったな。
一緒にパリのシャトーホテルに
泊まったときに、
夜中、オバケが怖くて
寝れなかったこととかね(笑)。
田舎の、お城を改造したホテルの
おんなじ部屋に細野さんと3人で泊まって。
あまりに怖くて
次の日からホテルに引っ越したとかね。
真司 え、やっぱ何かあったんですか?
高橋 僕がね、鎖付けてね、
夜中歩き回ってたのね(笑)。
おどかそうと思って。
そしたらほんとに怖くなっちゃって。
真司 俺も、イギリスに行ったときに、
誰もいないはずの階下で
ずーっとカチャカチャって、
メシ食うような音がしてて怖かった。
高橋 はっはっは。それ怖いな。
先月、久しぶりにロンドン行ったら、
ほんとに憲司といたころを思い出した。
細野さんとの、小ちゃなツアーだったけど、
なんか、やっぱり外国で演奏すると
思い出すね、あの頃のこと。
真司 オヤジも、やっぱ、
思い深い時期だったと思う。
ツアーで、いちばん印象に残ってる
時期とか、公演とか、あります?
高橋 あるね。いっぱいある。
真司 いっぱいあります?
高橋 うん。
YMOのコンサートはさ、
とにかく機械がよく止まるんだよ。
真司 当時のコンピューター、
デカイんですよね。
ビックリしたもん、俺、あれ見て。
高橋 そう。さらに、熱に弱くてさ。
あのコンピューター自体がね。
MC−8。
真司 そういうときって、
もう完全に止まっちゃうんですか?
高橋 シーケンサー止まっちゃうの。
当時はそれでも手弾き系の曲が
多かったから大丈夫なんだけど、
大丈夫じゃない曲もあって(笑)。
真司 機械ものっていっても、
今よりぜんぜん
生っぽいってことですよね。
機械がもうちょっと
生き物っぽいっていうか。
今はほんとに、
打ち込みは打ち込みだもの。

高橋 あと、思い出すのは、
憲司とよく飲んだことだな。
だいたい、レコーディングでもツアーでも、
終わったら夜は一緒に酒を飲む。
真司 楽しそうだな、それも。
── どういうお話を、
よくされていたんですか?
高橋 下らないことです(笑)。
ほんっとに下らないこと。
真司 音楽のことは?
高橋 音楽のことはもちろん話すよ。
ウチにご飯を食べに来たときなんかも、
新しいレコード聴いたりなんかして。
このソロは、このギターは、って、
いろいろやってたけど。
ジャパンのスティーブ・ジャンセンも、
憲司と仲良かったですよ。
あとね、憲司はね、語学の天才でね。
「インド人の英語」とかができるの。
最高に笑えるんだ。
真司 それ得意技だ!
高橋 憲司はもう完璧なの。
インド人の英語で
インドの料理番組をマネしたりして。
もうバッチリなんですよ、それ。
── そういう姿は、真司君、知ってるの?
真司 有名な話なんですけど、
じつは見たことないんですよ。
イギリス人の英語はこうだ、
とか、そういうのはある。
高橋 訛り系とかね。
真司 そうそう。訛り系、プロかも。
あと、俺が印象的な瞬間は、
近藤房之助さんのライブのとき、
楽屋に行ったら、ベースとドラムの
黒人の兄弟を、
オヤジが大笑いさせてたんですよ!
── ギャグで?(笑)
真司 そうそう。そういう現場見ると、
ああ、こいつすげぇ! って。
やっぱユーモアもあるんだろうって。
高橋 いやー、めちゃくちゃ面白かったよ。

近藤房之助さんのツアーで。左端が憲司さん。
真司 そういうの見て、
トータルな意味で
すごいミュージシャンなんだな、
って思ったんです。
やっぱ家にいても面白かったし。
機嫌が悪いときは最悪だけど。
高橋 機嫌が悪いときっていうのがね、
当時はなかったの。
真司 えーっ!?
しょっちゅうだったよ。
家帰ってきて、例えば俺が
練習してるところへ入ってきて、
そうじゃねぇんだよって、
嬉しそうにやってくれるときもあれば、
うるせぇんだよ、このやろう!
ガチャーン、みたいなときもあって。
なんだ? この人は、みたいな。
高橋 それは理不尽だね(笑)。
真司 だけど、オヤジは
これが社会勉強なんだよ、
って言ってたみたい。
そのオヤジが、
機嫌悪くない時期があったの!
すごいことだなぁ‥‥。
高橋 なかったね、80年、81年頃は。
真司 へぇー。
高橋 なんか、いっつも楽しくしてた記憶がある。
憲司の中では、
何かあったのかも知れないけど、
出さなかった、僕たちの前では。
真司 幸宏さんといるのが
楽しかったっていうの、あると思う。
高橋 僕も楽しかったしね。
真司 衝突する要素がなかったんじゃないですか?
それ、すごいことですよ。
オヤジと衝突しないで1年2年
過ごせる人っていうのは。すごいと思う。
扱いにくいとかっていうのは、
ぜんぜんなかったですか?
高橋 全然無いといったらうそになるけど……。
あるときからわかったんだね。
どうやれば憲司は機嫌が悪くなるかとか。
多分向こうも僕に対して
同じように思ってたんじゃないかな。
気遣ってくれてたと思うし。
僕も、いつも機嫌良いわけじゃないんで。
真司 オヤジは、自分のことを
わかってくれようとしたり、
気を遣ってくれる人に対しては、
自分もちゃんとするタイプだから。
高橋 そうだね。だから、
知りあってから憲司が亡くなるまで、
ケンカしたこと、1度もないですね。
真司 へぇー。素晴しい!
高橋 真剣な話をして、っていうときは、
あったかもしんないけど、
でも、べつに、それは
ケンカとかじゃなかったしね。

六本木のソニースタジオでのスナップ。
真司 俺ももうちょっとね、
今ごろ生きていれば、
まだ、話せたかな?
最後のほうとかは、
一緒に酒飲みながら、
とかいう日もあったんです。
MTV見ながら大笑いしたり。
高橋 憲司のギターとか弾かしてくれたの?
あんまり触らせてくれなかった?
真司 めちゃめちゃ機嫌がいいときは、
たまーに弾かしてくれた。
高橋 たまになんだ。
真司 ほんとたまに。
高橋 あとはダメなんだ、触っちゃ。
真司 というか、触れない。
高橋 そういうもんなんだ。
真司 だけど俺も、隠れて部屋に
持ってったりとか、してたけどね。
意外とそういうのとかも、
気づいてるんだろうけど。
オヤジのギター、
やっぱりオーラがあるから、
物自体がどうこうじゃなくて、
オヤジが大事に扱ってるっていうオーラが。
俺も持ってきて弾こうとするんだけど、
ちょっとこう、コツッとか当ると、
わっ! やべぇ! とか。
置く位置とかまで、
キッチリしてましたからね。
クローゼットに入れて、除湿機かけて、
きちんと揃ってるんですよ。
ピンキーとか、ブラッキーとか、
ブロンディとか、名前がついててね。
その並べ方を間違えたりしたら、
たぶんヤバかったなぁ。
高橋 いい話だなあ。
ああ、そうだ、思い出した。
80年の国内ツアーかな?
凱旋してたんだから81年かな?
仙台で、憲司、
耳の具合が悪くなっちゃって、
倒れたんですよ。
ツアーの初日ぐらいだったんだけど、
その後、もうめっちゃくちゃ僕、
落ち込んでね。
よっぽど憲司のこと好きだったのかなぁ、
と思うけど。
酔っぱらってね、その日、
ホテルの部屋で吐きまくった(笑)。
今は申し訳ないと思うけど、
そのまま朝、出て来ちゃった(笑)。
もうどうしようもないんだもん。
真司 オヤジもグルグルして、
幸宏さんもグルグルして。
高橋 もうグルグル。僕は酒で。
真司 でもね、ほんと、その時も
治ったから良かった。
高橋 治ったときも、すごい喜んだ記憶がある。
どっか途中から、また復帰したんだよね。
なんかね、すごい運が良かったの。
その時に運ばれた病院の医者が、
その病気のすっごい権威で。
真司 そんとき、運、強かったんだね。
幸宏さんありがとう。
今日はけっこう、
俺の知らないオヤジの話が聞けました。
怒ったことがない、
ケンカしたことがなっていうのは、
すごいな。
高橋 ないなー。憲司とは、ほんとにない。
真司 誰に聞いても、絶対、なんか
1コぐらいは怒らしたことや、
怒られたとか、あるもん。
高橋 憲司との思い出は
いっぱいあるんだけど、
あとはみんな細かいことだよ。
でも、言えることは、
ほんと楽しかった、あの頃。
真司 オヤジの気持ちを踏まえて、
「春がいっぱい」聞き直します。
ありがとうございました。

↑「春がいっぱい」の頃、軽井沢でのスナップ。

 



大貫妙子
×大村真司
その1
彼には彼の、確固とした、
ゆずれない何かがあった。

司くんと初めて会ったのは、
憲司さんが真司くんをまだ、
膝に抱っこできるくらい、前のことです。
どこかのライブハウスでのことでした。
まだ、ファミコンの時代で、
わたしはドラクエ1を真司くんにあげました。
あの頃は、楽屋をいつも
小さな子供が走りまわっていて
保育園のようでした。
ステージに共に上がる
ミュージシャン同士というのは
ほんとの家族以上に、また別な家族な関係になる。
と。。。わたしは感じています。
ですから、真司くんもわたしにとっては、
家族のようなものです。
そして、ある日、六本木のピットインで
すっかり、かっこいい青年になった
真司くんに会ったときは、
タケノコが雨あがりに、
みるみるしなやかな竹になって、
その成長の早さに目をみはるっていうのは
こういうこと?!!
と、ほんとにびっくりしました。
この対談で、わたしは真司くんには
ずいぶんストレートな質問をしていますが、
それは、それまでの歴史
(ちょっと大袈裟ですが・・)
があったうえでのこと。
と、言外にとめおいて読んでいただけたら
さいわいです。

大貫妙子


淡路島「おのころアイランド」での家族写真。
奥の水色のTシャツが真司君。
大貫 (憲司さんのギターの写真を見ながら)
なつかしいよね。
‥‥うーん、すっごいねぇ。
宝物だね、このギターは。
真司 そうなんですよ。
大貫 何本あるの?
真司 23本とか4本ぐらいじゃないかな。
こんど、イシバシ楽器で
展覧会()やるんです。

*展覧会については
 本文の最後をごらんください。

── 何本かオークションに出すことに
なったんですよね。
真司 そうなんです。5本だけ。
母さんや、いろんな人と相談して。
大貫 早いんじゃないの? 売るの。
もうちょっと先でいいんじゃないの?
真司 だけど、俺も思ったのは、
パーツがね、やっぱり弾かないと、
サビたり‥‥。
大貫 ああ、ダメになるの?
真司 そうそうそう。
でもパーツを変えたら、結局、
オヤジが変えたわけじゃないから、
オリジナルじゃなくなるから。
持っていて、直し続けていると、
パーツもオリジナルじゃ
なくなっちゃうし。
大貫 なるほど。
憲司さん言ってた。
「きゅうにギター触りたくなってさ、
 いろんなとこ直しはじめるんだよね、
 夜中に。なんか不気味だよね〜」
って、にまにましながら・・・
真司 それで、5本、
手放すことにしたんです。
俺が弾いたりするのもあるんだけど、
やっぱ限界があるから。
自分のギターもあるし。
俺と合わないものが、
いっぱいあるから。
大貫 そうよね。
わたしも持ってるよ。
憲司さんが
「たー坊にはこれが似合うと思うよ」
って探してきてくれた
リッケンバッカーのショートスケール。
この前のBeautiful Songsツアーで
ちょっと弾いてみた。
真司 だけど、ほんっとにこう、
思い出のものっていうのは、
手放さないですよ。
たとえばテレキャス()とか。

*米フェンダー社の
エレクトリック・ギターでの1モデル、
テレキャスターTelecasterのこと。

大貫 うんうん。
お宝ですよね。
真司 ギターはすべて、
しっかりちゃんと
メンテも出してます。
ちゃんとした部屋の、
クローゼットに置いてあるんです。
除湿機をかけてしっかり保管して。
大貫 弾く?
真司 ま、たまに出して弾いたりとか。
だけど、さすがに
テレキャスは弾けない。
怖くて。
ちょっと、なんか、カツッとでも
ぶつけようものなら‥‥。
── あ、未だに怖いんだ。
真司 怖いです!
大貫 (笑)。

真司 たー坊(大貫さんのこと)が
いちばん最初にオヤジに会ったのって、
どれぐらいの年なの?
大貫 すっごい前。
真司 すごい前(笑)。
大貫 「赤い鳥」を見に行ったことある(笑)。
あのステージを。
私はお客さんでしたけど。

「赤い鳥」。憲司さんは右から2番目。
真司 そうなんだ! へぇー。
いっしょに音楽を
するようになったのは‥‥
大貫 いつかなぁ‥‥
私のセカンドアルバムって、
彼がぜんぶ弾いてるよ。
真司 あ、ほんとに?
大貫 77年のセカンドアルバムの
「サンシャワー」。



彼の写真も入ってる。
最近、クラウンから
「大貫妙子セレクション
 1976ー1977
 PANAMイヤーズ」っていうので、
マスタリングし直して出てます。
渡辺香津美さんが弾いてる曲も
あるんだけど、
メインは憲司さん。
真司 ちょっと聴いてみよう。
俺、そういうのって、ぜんぜんね、
わかんないからね。なんかこう‥‥。
(サンシャワーのジャケットを見て)
たー坊も若い!
オヤジも若いけど。

1977年「サンシャワー」のころのスナップ。
大貫 若いわよ。
ン十年も前だもん。
真司 CD、ウチにあるかな?
あ、でもね、母さん、
たまにたー坊のCD聴いてる。
俺はね、「プリッシマ」聴いてるよ。
大貫 ありがと。
いいんですけど、
聴いてくれなくても。
真司 なんで!?(笑)
大貫 あ、いやいや、
なんか、真司くんが聴いてると思うと
はずかしいな・・・(笑)。
真司 あれ、いいよ。朝、聴くんだ。
大貫 「サンシャワー」の演奏は
すっごいですよ。
もうみんな20代だったと思えない。
ほんっと。
この前、マスタリングしてて、
驚いたもの。自分で。
なんでこんなに
みんな、上手かったんだろう?
と思って。
今の20代、こんな弾けないもん。
真司 弾けないね。弾けないっす。
チョーキング1回ぐらいだったら、
100回に1回ぐらいだったら、
オヤジのプレイに、
ちょっと似てるかな? と思うけど。
大貫 真司がどうっていうのでは
ないのだけれどね。
おしなべて、ということですけど・・・
真司 でも、そうそう、
全体的に、いないんですよ。
宮沢(和史)さんとも、
話してたんだけどね、
オヤジみたいに、
ギターで目指したいっていう人が、
やっぱいない。
大貫 憲司さん別格ですけど
私たち世代を目標にしちゃダメよ。
他に目標なんていっぱい、
もっとすごいの、いるんだから。
真司 うーん、でも、やっぱ、
確実にやってることっていうのが
変わってるからね。僕らの世代、
ギターソロが入って、歌があって、
メロディーがあって、ていう
「音楽」が、希薄なんです。
たー坊、オヤジの20代の頃って
全部が、いっしょになってた
時代だったかな?
と思うの、俺は。
大貫 だって、誰かがプレイしなければ、
音楽が成立しない時代だったんですよ。
今みたいにコンピューターで、
音楽ができる時代じゃなかったんだもん。
真司 うん、うん。
大貫 楽器を持って、
ちゃんとプレイしなければ、
音楽として成り立たなかった。
今は便利になりすぎたんじゃない?
真司 俺、それ、すごい羨ましい。
昔だったら、エフェクターいっこでも、
新しいの、出たらしいよ、
っていうのでね、買って、
こういう音するんだ! ってなるけど、
今は全部、入ってるから、フルセットで。
大貫 でもね、私、若い人がそういうのね、
言い訳だと思うよ。
真司 いや、だけど、
もちろんいい音楽を作りたいっていう
気持ちも絶対あるし。
あるんだけど、あの時代だったら、
もっと面白かったかな?
っていうのが、べつに、後悔じゃなくて。
行ってみたいんだ。
大貫 みんな言うよね(笑)。
真司 ほんとに?
大貫 うん、この時代だったら良かったな、
っていうこと。
でも、つまらない! その発言は。
もう聞き飽きました、私。
真司 あっはっはっはっは!
いや、だけど、
この時代に対しての愛情が
あるっていうことだから。
その時代へのリスペクトっていう意味では、
いいと思うんだけどね。
大貫 (笑)。
真司 だって、関係ねぇよって
言ってるワカモノは、
ほんとにもっとひどいから。
関係ねぇよって言っても、
関係あるんだから。
大貫 もう‥‥(笑)。
真司 そういうこと言わないで
いい音を出して欲しい、
ってことでしょ?
そういうことですよね。
大貫 いや、いい音なんてさ、
死ぬまで出るかどうか
わかんないんですよ、そんなことは。
真司 ‥‥はいッ。
大貫 そういうことではなくて、
その発言が聞き飽きた(笑)。
それは、何の前向きな発言ではないし。
なんかこう、
幸運を呼ばない発言だよね(笑)。
真司 うっ。

── 真司くん、お父さんのこと、
もっと訊いて下さい(笑)。
真司 ハイッ。う〜ん。何があるかなぁ。
難しいな、なんか。
やっぱオヤジのことを
人に質問すんのって、
なんか、難しいな、うん。
抽象的な質問しか‥‥
ギタリストとして、
どんなところが良かったんですか?
大貫 そうね(笑)‥‥
憲司さんみたいな人、いないの。
世界中探したって、
大村憲司さんは大村憲司さん。
そして、世界に通用する人だった。
プレイヤーとして。
真司 ああ、なるほど。
大貫 音もプレイも、
抜群に素晴らしかった。
私のツアーを前にして
亡くなっちゃいましたけど。
真司 うん、そうだよね。
俺も、見に行くはずだったのに。
大貫 その時私はNYで訃報を聞いたんです。
NYに着いて3日目。
日本を発つ前の日に
憲司さんと電話で話したの。
「よろしくね〜」って言ったら
「まかしといて〜」って。
でも、今思えば、憲司さんていっつも、
なんか、気の利いた冗談とか、
必ず言うのに、
その時は言葉少なだったなあって・・・。
で、その知らせを聞いたその場で、
マネージャーに
「このコンサート、キャンセルしてほしい」
って頼んだの。
憲司さんがギターを弾くことを
想定して全部選曲してあったし
たとえ、他の人を呼んで
コンサートをしても、
もう、ステージに立ったとたん、
歌えないのはわかっていたし。
なんか・・・
ずっと胸が金縛り状態のままで。
レコーディングしながら、
鉛を背負っているようだった。
お通夜も行けなかったから、
NYから帰って
箱に入っちゃった憲司さんに会った時。
ただ・・・呆然となっちゃって。
でも、ひとりで訪ねて行ったから、
聖子さんとうんといっぱい
話しできてよかった。
でも・・・大損害!(笑)
LAとニューヨークのメンバー、
ぜんぶ決まっていたしね。
もう大キャンセルの大損害!
冗談です(笑)
真司 大損害(笑)。

1997年の憲司さん。大貫さんの「サンシャワー」から20年。
大貫 クリス・パーカーやドン・グルーシンや
生前、憲司さんと交流のあったメンバーは
みんな手紙、くれました。
憲司さんの思い出や、
ほんっとに残念だってことを。
その半年ぐらい前かなぁ?
ごはん食べたときに、
なんかつまんなそうでさ。
真司 うーん。
大貫 なんか、つまんなそうなのよ。
でもね、よくわかるのよ、
その気持ち‥‥。
それで、こう言ったの。
「つまんないんだったらもう、いっそ、
 憲司さんぐらいの
 素晴しいプレイヤーは、
 海外とかで、好きな人と好きなだけ、
 やったら?」
真司 そしたら何て?
大貫 「いやー‥‥」って言ってたね。
真司 日本好きなんですよ、オヤジは。
大貫 そうみたい。
そこにこだわってた。その時も。
真司 日本が好きじゃなければ、
もっとほんとに凄いことに
なってたんじゃないかな‥‥。
大貫 そうね。だって、彼、
海外にも住んでたしね。
真司 そうそう。
大貫 でも、日本好きだってことが、
その時にわかった。
サクセスとか、
そういうことを求めてたわけじゃなくて、
ほんとの音楽家だったんですよね、
憲司さんという人は。
真司 教授(坂本龍一さん)が
「もともとイギリスかアメリカで
 生まれるべき人だった。
 日本で生まれてしまったことが残念」
って言ってて。
大貫 でも、日本で生まれたから、
こういう音が出せるわけなのよ。
真司 そうそう。そうなんです。
でも、意識はほんとに、
日本にあるんだけど、日本になかった。
イギリスのものだったり
アメリカのものだったりがすごい好きで。
クラプトンとか聴いて。
そういう人たちと肩を並べてやるべき、
っていうか、そっちのほうがたぶん、
精神的には良かったんだろうけど。
けどやっぱ日本人に
生まれたっていうのもあって‥‥。
大貫 でもね、べつに、人種とか、
そういうの関係なく、
彼には彼の、確固とした、
ゆずれない何かがあったよね。
生き方も。
‥‥あったと思うんですよ。
真司 うーん。なるほど‥‥。
大貫 だから、国は関係ないっていえば、
関係ないんだよね。
真司 うん(笑)。

大貫 じゃあ、いったい
どうしたかったのかというと、
それがわからなかったのよ、彼も。
真司 というか、「こうしたい」っていうの、
頭には、あったと思うんです。
それをどうやって実現するか、
というところで、
実現ができなかった。
タカさん(沼澤尚さん)から
聞いたんだけど、オヤジ、
一緒にバンドやろうって
言ってたらしくって。
タカさんはオヤジが自分でやりたいと
思うようなことを、
オヤジが考えるやり方じゃない
やり方でできる気がしてた、って。
そういう人がもっといて、
オヤジを、オヤジだけの世界から
ひっぱりだすというか、
こんな世界楽しいんじゃないの? って
言ってくれてたら、って思うんだけど。
大貫 憲司さんを見てて、
沼澤さんが一緒に
バンドやろうって思った気持ちも
わたしがコンサートで
思いっきり楽しく弾いてもらいたい
と思った気持ちも、同じだと思う。
ん。でもきっとね、
ちょっとやったらまたすぐ飽きちゃって、
ああ、やっぱりもうやめるわ、
って言ったと思うよ。憲司さん。
真司 うん‥‥いや、それでもいいんだけど、
だから、そういうのが何回もなきゃ
ダメな人だったんですよ。
自分でそういうの決断してやるより、
誰かがいたほうがよかった、
みたいな人じゃないかなって
俺は思うんです。
大貫 うん。
なんかね、やっぱり、
理想に思う社会とか、
理想に思う人間関係とか、
理想に思う仕事とか、
そういうの、わりと、きちんと、
イメージできてる人だったんですよね。
真司 そうそう。
大貫 だから、何かを夢見て、
やり始めるんだけど、
あ、やっぱり違うなって思うと、
すぐ、やめたくなっちゃうの。
そういう人だったから、
あれもこれもやってみたけど、
結局長続きしないっていう。
真司 そうだね、うん。そうだね。
大貫 それはでも、わかるな。
我儘っていえば我儘だけど。
でも、当然じゃないかなと思う。
真司 そうだね‥‥。
大貫 だいたい、やりたくないことを、
我慢してやるなんて、できない人だし。
真司 そう、できないし、イヤでやるのは、
やっぱ音楽じゃないと俺は思うから。
正直に、その時その時が出てる。
ソロアルバム、全部そうだし。


大貫妙子
×大村真司
その2
「あ、憲司さん呼ぼう」って、
いまだに、思うんだ。


2000年、大村憲司追悼コンサートで。
手前いちばん右が真司くん、その左が大貫さん。

真司 そうそう、どれが好き?
オヤジの4枚のアルバム。
たー坊は、この中で選ぶとしたら。
どれが一番、心に残ってますか?
大貫 「春がいっぱい」かな。


真司 やっぱ「春がいっぱい」だね。
うん。やっぱりね‥‥というより、
この中っていうんじゃないよね。
たー坊なんかは、
自分のアルバムも、
オヤジの参加したもの、
いろいろあるしね。
大貫 とくに86年、7年ぐらいは、
もうツアーなんかも
ずっと一緒だったの。
中村哲さんと憲司さんと私で、
3人で毎晩、毎晩飲みに行ってた。
朝まで!
その3人っていうのがさ、
微妙なのよ(笑)。
ほら、2人でずっと飲んでると、
男の人と女の人と、恋愛関係とか、
いろいろと面倒臭いことに
なったりもするじゃない?
面倒臭いなんて
言っちゃいけないんだ(笑)。
でも、3人だと、これが、微妙にね、
そういうことにならずに、
だけどむちゃくちゃ仲いい、
っていう関係になっていくのよ。
真司 なるほど。へー。
なんか、面白そうだね、それ、なんか。
大貫 すごい楽しかったよ。
もう忘れられないもん。あの頃。
いろんな話し、いっぱいしたな〜。
── 大貫さんのアルバムでいうと、
どのあたりですか?
大貫 「スライス・オブ・ライフ」、
「Comin' Soon」とかですね。

 
── 大貫さんのアルバムの中の曲で、
憲司さんのプレイを、
これはぜひ、っていうのを
挙げていただくことできますか?
大貫 「サンシャワー」の頃もいいけど
やっぱり「スライス・オブ・ライフ」かな。
この前CD買いに行ったら、
Jennifer WarnesがCD化されてたの。
当時は勿論LPで聴いてたけど、
それ、手に取った時、
憲司さんのこと、いっぱい思い出して、
時間がぐるぐるもどっちゃった。
真司 懐かしいな。
小学生のときにね、
朝起きるときに
たー坊のCD、かけてたんだよ。
大貫 ふーん。小学生にしてはずいぶん、
マセたもの聴いてたんだね。
真司 俺、かっこつけたがり屋だったんだけど、
これはほんとに聴いてたな。
今もほんとに、たまに聴く。
オヤジが弾いてるやつは‥‥。
大貫 私のアルバム、いろんなのに、
ほとんど入ってますよ、
憲司さんは。
坂本龍一さんと作ってきたアルバムには、
必ず入ってる。

87年「アフリカ動物パズル」のコンサートでの憲司さん。
真司 オヤジって、
いいときはいい。でも、
ダメなときダメでしょ?
大貫 はい。
真司 ダメなときって、
なんでダメだったんだろう?
俺は、一緒に仕事したわけじゃないから、
わからないんです。
家に帰ってきて
機嫌悪いのはあるけど、
なぜそうなったのかっていうのは、
わかんなかったから。
大貫 ダメなときって、
いろいろあるんですよ。
ツアーの間でも
ダメになっちゃうときもあるし。
レコーディングの最中でも、
ダメになっちゃうときがあるし。
そういうのって、
本人しかわからないんだと思うよ。
真司 そうか。
大貫 あの‥‥すごく迷惑なんですけどね(笑)。
だって、ほんとにね、
脂汗とか出てきちゃうのよ、楽屋で。
具合悪いの? とか訊くと、
いや、大丈夫、とか言ってるんだけど、
もう脂汗でちゃって、
間違えまくっちゃうし。
ステージとかでも。
精神的なものだと思うんですけどね。
真司 そこらへんは、謎な一面だよね。
大貫 レコーディングでも、
延々、音、作ってるんだけど、
ほんとに作りたくて作ってるときと、
出かけてくるときから
虫の居所悪かったのかな?
っていうぐらいのときとあってね(笑)。
いつまでたっても、
ちゃんとプレイしないって
いうときもあったし。
真司 悪い演奏のときって、
俺がケンカした後とかだったり、
あるんだろうな、やっぱ、じゃあ。
大貫 ええ、人だから、
やっぱりあると思いますよ。
真司 ね。うん‥‥。
大貫 如実に出るしね。
でもねぇ、
いいときはいいんですよねぇ。
むっちゃくちゃ。
もう、おねがいします!!
っていうくらいよくて(笑)。
それ、憲司さんもわかってるから、
彼って、鼻とか唇とか
指でちょんちょんさわるクセあるじゃない。
それ、しながら、もう顔は満面の笑み!
忘れられない笑顔ですよねえ。
真司 印象に残ってる演奏とか、
ありますか?
これは凄かったって。
大貫 ツアーのときって、
やっぱり歌のバックだから
ソロ冥利に尽きる、
みたいな演奏の出番は、
あまりないんですよね。
また、歌、出てきちゃうから。
だから、いわゆる憲司さんの、
カクトウギセッションとか。
ああいうときに、凄かったね。


89年、神戸バンドの里帰りコンサートで。

真司 じゃあたー坊のライブとかでは、
名サポートというか。
大貫 うん、紳士な感じでね。
憲司さんってね、
女性にとても紳士なんですよ。
だけど、男の人には、
もう体育会系なのよ、
むちゃくちゃ体育会系なの。
乱暴なぐらいだよね。
真司 うん、それは知ってる。
なんか、そういう意味では、
二面性があるのかなと思う。
俺にはほんと体育会系だった。
でもやっぱ、そうだな、
女性には確かに紳士だった。
外面は絶対いいんですよ。
大貫 カクトウギのあたりのは、
若かったから、やっぱり
「これから」が真骨頂っていうか・・
真司 これから、って感じ?
大貫 やっぱり、ギターって、
弾く楽器なんだけど、
明らかに「歌」なんです。
真司 うん、うん。
大貫 ギターって、
歌ってるんだと思うんですよね。
でも、ギターで「歌う」っていうことが
できるようになるには、
やっぱり、時間がすごく必要だと思うし。
重ねていく時間が‥‥
経験や、いろんなことに対する愛情や
深い思いを重ねていく時間がね。
それは、絶対若いときは
無理だと思うのよね。
勿論、若いときにしか
出来ないこともありますけど。
真司 うーん‥‥うん。
大貫 だから、いま、
それが聴けないっていうのは、
ほんとに残念だけど。
‥‥っていうか、話してて思うんだけど、
ぜんっぜん、まだそこにいるような
気がしてしょうがなくて。
いっつもね、レコーディングに
呼んじゃおうかって思っちゃうのよね、
いまだに。ほんとに!
「あ、憲司さん呼ぼう」って、
ほんっとに思っちゃう時、
あるんですよね。
真司 そっか。
大貫 ‥‥でも、長生きすることが
目的ではないから、人間は。
どういうふうに生きたかって
いうことだから。
要するに中身だからね。
真司 誰が言ったかわかんないけど、
「サムライだった」って。
サムライってやっぱ、
志を大切にするから。
大貫 そうね。
真司 うん、それがこう、
認められないじゃないけど、
こう‥‥。
大貫 もう全くその通りだと思う!
うん。だから、やっぱり憲司さんは
自分の中に描いてるものがあったけれど、
憲司さんのそういうものを、
社会が認知してなかったと思うの。
必要にしてたのかどうかもわからない。
必要にしてた人は確実にいたけれど。
そうすると、我慢してまで、
やりたくないことをやるのは、
死んでるのと同じじゃない?
生きてたって。
だから、死んじゃったのかなと思う。
もうわかるもん。
もう私も死にたくなっちゃうもん、ほんと。
真司 だめだよ!
大貫 いや、ほんと(笑)。
いや、でも、すごい元気だから、
ぜんぜん死なない(笑)。
お酒いっぱい飲んでも死なない。
ぜんぜん肝臓悪くなんないしさ(笑)。
でもね、消えてなくなりたくなる時もあるよ。
真司 俺、若いけど、
べつに何をできてるわけじゃないけど、
そういうのがね、やっぱあるんだよ。
自分は降りたくないんだけど、
認められないから、
やっぱりそうやって認められる方向に、
行かなきゃいけないのかな? とか。
オヤジは多分、
考え方が決まってたぶん、
なおさら、そうやって自分が、
必要ないって思うような状況が
つらかったんだと思う。
大貫 若いときは、
模索してたと思うんですよ、
憲司さんだって。
でも、だんだんだんだん、
自分のほんとにいいと思うものって、
やっぱり洗練されてきちゃうの、
自分の中で。そうすると、ますます、
自分を殺してまで、
何かできないよっていうふうに、
どんどんなっていったと思うのよね。
そういう時期だったと思うんだ、やっぱり。
真司 うん‥‥そうだよなー。

大貫 ちょうど私のツアーの前に
死んじゃったじゃない?
だからさ、チッ(舌打)、
あーあ、外人となんか、
やりたくなかったのかなぁ、
とか思っちゃったりして(笑)。
真司 でもね、みんなそう言うんだけど、
そういうことではないんじゃないかな、
と思う。タカさんもそう言うし、
ミヤさんも、みんなそう言うんだけど。

*聖子さんから大貫さんに来たメール

「外人とやることを
 本当に楽しみにしていたし、
 ウチでは自慢していました。
 それに向けて、
 自分を調整しすぎたのでしょう。
 綺麗な心で弾きたいから
 「今のうちに心のシュクベン」を
 出しておかないとって
 ホントに言ってました。
 私だけに。
 ターボーのオーチャードには
 3週間ありましたから・・・
 彼はフとしたなにか
 狭間にはまったんだと・・
 しか思えません。
 いつも生還してきたのに」

大貫 結局何だったの?
肝臓で、飲みすぎたんでしょう?
で、心臓が苦しく
なっちゃったんでしょう?
真司 そうそうそう。
大貫 飲まずにいられなかったんでしょう?
真司 そうそうそう。
だから、あの、多分、こう、
なんだろう、そこまでいかなくても、
なんか自虐的に‥‥。
大貫 飲んでたの?
真司 いや、精神がもう。
たぶん音楽のことを考えて、
家族のこともいろいろ考えただろうし、
自分の仲間のこともいっぱい考えて。
なんかそういうのでもう、
飲まずにはいられなくなっちゃって、
気づいたら、肝臓が悪くなってた。
大貫 そうなの。
真司 でも最後はね、俺が、説得して。
わかった病院行くよって言って。
俺が肩組みして、母さん運転して
病院まで連れてって。
ま、結局、でも、そこで、
助かんなかった。
大貫 そう‥‥。
真司 だけど俺、オヤジ、
そのまま逝きたかったのかなというのと
ほんとうは生きたかったのかな、
どっちだろう、っていうのを思うんだ。
一時的な、精神的なことを
乗り越えてたら‥‥。
大貫 外国のミュージシャンってさ、
クスリとかお酒とかさんざんやって、
ボロボロになっちゃって、
死んだようになっても
復活してるでしょ?
すごく有名なプレーヤーでも。
すごく健康そうになって(笑)。
真司 うん、うん。
大貫 憲司さんって、そういう意味じゃ、
外人っぽいよね。
なんか変な言い方だけど。
真司 そうそう、だから、
アメリカだったら助かったのかなとか
‥‥ま、後悔になってくるけど、
もし乗り越えてたらね、
きっとまた復活して、
すごいことになってたんだろうし。
だけど、逆にそこで
逝ってしまったっていうのは、
ひとつのまた、運命なんだと思う。
それでもまだやっぱり、
こうやって忘れられずに
いるっていうのは‥‥。
大貫 忘れられないどころか、
ずっと存在し続ける(笑)。
ふと・・ギタリストは大村憲司にしよう、
なんて思っちゃう(笑)。
それだけ存在感が大きいんですよ。
真司 大っきいですね。
大貫 憲司さんの‥‥代わりはいない。

80年代、どこかのバーで。右は日笠雅子さん。
── 高橋幸宏さんは、
もう、大村憲司が必要な音楽は
作らないんだって
おっしゃってましたね。
大貫さん、「大村さんを」って
思ったときに、どうするんですか?
大貫 うーん‥‥そうね。
オグちゃん(山弦の小倉博和さん)
なんかとやってるのは、
また別なアプローチですから。
それは、憲司さんの代わり、ということでは
まったくないです。
真司 音楽面から、
やっぱりかっこいいなって思うしね。
たとえばオヤジが、
人から見てカッコ悪いことを
してましたっていうのを、
ぜんぜん俺は聞かないし。
大貫 カッコ悪いとこ見せなかったよね、
あの人はずっと。
でも、自分の中では、
カッコ悪い自分というのも
あったんじゃないかなあ。
真司 うーん(笑)。
そっか‥‥。
大貫 ただ見せなかっただけで。
真司 でも、こういう人が、
今、いてほしいなって、
俺、ほんとに思う。
大貫 どこに?
真司 たとえば俺ぐらいの世代から出てもいいし、
俺が、もちろんこれから
頑張ってなるにしても‥‥。
やっぱり、ほんとにカッコいい、
どこを切ってもカッコいい存在に。
音楽好きの人も、
音楽ぜんぜん聴いてない人も、
聴いて感動するような。
オヤジのギターの音ってね、
何も感じない人もいるんだろうけど、
悪いと思う人は絶対いないと思うし。
大貫 うん‥‥。
真司 もっと聴いてもらいたい。
大貫 そうね‥‥。
でも、ま、真司君は真司君だ
‥‥って言われるだろうけど。
真司 言われる(笑)。超言われる。ほんとに。

追悼コンサートでの、大貫さんと矢野顕子さん。
大貫 べつにギター、弾かなくてもいいんだよ?
真司 そうそう、それも、
俺は思ってるし、ほんとに‥‥。
大貫 だから、オヤジはオヤジ。
真司 うん、そういう気持ちもあるし。
オヤジはオヤジで、
俺が、何をどこまで考えて、
どこまで考えないでやるか、
死んでから何年も経つと、
やっとそういうのも
わかるようになってきたし。
死んで、年があんまり
経たないうちっていうのは、
無意識のうちに意識してるし。
それが、嫌なふうに
作用することがやっぱりあったから。
どうしても。
だから、俺が今オヤジにいちばん
持ってる強い気持ちは、
いい意味でオヤジに、
怒られないというか
恥じない生き方っていうこと。
真司 ほんと最後まで、
殴られたり殴ったり、
いろいろしたけど‥‥。
── 殴ってたの?(笑)
真司 いや、もう、ガンガンに。
でもそれを自慢するらしいんですよ。
スタジオに行ってアザ見せて、
俺、息子にやられたんだよね、みたいに。
俺のほうがもっと
すごいことになってるっつうの(笑)。
そういうのも全部、やっぱ、
死んでから考えると、
愛情だったんだなっていうのが
すごいわかるし。
俺が成長してきて。
あ、なるほど、
あんときああしなかったら、
俺はこうなってたな、とか。
怒らないでそのままいられたら、
逆に愛情を感じなくなったかもしれないし。
オヤジは、俺の、
真面目な部分っていうのを、
ちゃんとわかってたから、
そうやって叱ったんだろうし。
うるせぇなとか思ってたけど、
今では思わない。
だから、恥じない生き方をしたいなって。
それが俺の生き方になってるっていうかね。
でも、父親に対するそういう気持ちって
みんなあるのかなと思うんですよ。
タカさんもそう言ってたし。
父親に恥じない生き方をしたいって。
ま、ある意味、
制限でもあるんだろうし。
大貫 そうだね、沼澤さんも
同じようなこと言ってました。
思い出した(笑)。
自分に対する、戒めというか。
そういうことを言うってことは、
やっぱりお父さんのこと
尊敬してるからでしょう?
真司 うん、うん。
だから、ほんとにムカツクやつだった、
っていったら、もうそれで
終わっちゃう部分もあるけど。
でも、やっぱギターやってて、
いろんなところに行って、
俺がいて、みたいな、
そういう位置関係でいったら、
やっぱり尊敬できる人。
大貫 いまどき、ホンキで殴ってくれるオヤジなんていないよ?
真司はシアワセだよね。
‥‥お母さん元気?
真司 元気です。そう、だけどね‥‥。
大貫 飲みすぎてない?
真司 うん、大丈夫。
大貫 ほんと?
真司 おとといね、
タマちゃんが死んじゃって。
大貫 タマちゃんってなあに?
真司 ウチのね、
オヤジがいちばんかわいがってた猫。
大貫 ああそう。
そのはなし、あんまり聞いたことなかった。
・・・やっぱりね。
年、で?
真司 そう。年。老衰。
オヤジのところへ逝きました。
俺も悲しかった。
大貫 そう。それはショックよね。
わかっててもね。
真司 でも、オヤジのところに。
オヤジがいちばんかわいがってたし。
オヤジは、タマちゃん、
大好きだったからねぇ。
ウチは4匹いるんだけど、
その内の、いちばん、長老。
今日、火葬します。
ま、きっとでも、
オヤジのところで、こう‥‥。
大貫 膝に乗ってる?(笑)
真司 乗ってるね。間違いないね。
やっぱ結びつきが強い猫だったから。
オヤジがいなくなった後は‥‥
大貫 寂しかっただろうね、ニャンコも。
タマちゃん。
真司 そう、俺にすごいなついてて。
俺とね、オヤジが、
タマを取り合いしてたの、ずーっと。
で、オヤジはもう逝ったから、
タマはもう、しょうがないから
俺のところに来て。
おかしいんだよ、
タマと俺が一緒に寝てると‥‥。
大貫 憲司さんが取りに来るの?
真司 取りに来るんだったらまだね、
素直なんだけど、
これ、ほんとの話なんだけど、
部屋の前に、煮干しを並べて。
大貫 あっははっ!
真司 自分の部屋までこう、
煮干しで誘導するの。
大貫 うっそ!
真司 ドアをカチャッと開けとくのね。
大貫 なんでそんな、
面倒臭いことするわけ?
真司 わかんないんだけど、
ギャグなんだか何だか(笑)。
母さんも未だにね、
それは謎だったって言ってたけど。
大貫 ほぉんと?
まあ、それはギャグでしょう、ほとんど。
真司 酔ってるときはもう、
俺が部屋に入れて
かわいがったりしてるのを
ガチャーン入ってきて、
「返せ、返せ!」だもん。
「酒臭いあんたのとこ行くのが
 かわいそうだろ!」とか言って。
すごいケンカしてたな。うん。
大貫 ほんと。そうか、
じゃあタマちゃんに
インタビューできたら
いちばん良かったんじゃない?
真司 ねーっ!? そうなんですよ。
ほんと、母さんと同等かそれ以上に、
多分、オヤジのプライベートなこと知ってる。
精神的に、すごい落ちてるときに
タマがずっと一緒にいてあげてたから。
すごい関係が良かったんだなって。
大貫 そうだよね。
真司 だから、オヤジの愛人って
呼ばれてたからね‥‥。
たー坊、今日はありがとう。
写真撮らせて。緊張するけど。
大貫 (笑)。

 



野口広之
ギター・マガジン編集長)

大村憲司さんの遺した
4枚のアルバムを
すべて解説します。

大村憲司以外の何者でもない。

98年の11月、憲司さんが亡くなった当時、
この4枚のアルバムは、実質的には全て廃盤でした。
そのうち3枚、「Kenji Shock」以外のものは、
その当時でもCD化はされていたんですけど、
ほとんど入手困難な状況で、
運良く店頭在庫に巡り会えれば、
手に入ったかもしれませんが、
レコード会社にも再プレスの話はなかったんです。



その時に、これほどまでの業績を残されて、
素晴しいギターを弾く人のソロアルバムが
手に入らないっていうのは、
すごく悲しい状況だなと思っていました。
それがようやく、4枚とも出る。
これ、ひじょうに画期的な話なんです。
大村憲司っていう名前は、亡くなったあと、
独り歩きをしていたような感じがあるんですよ。
偉大なギタリスト。素晴しい名手。職人的ギター弾き。
ですけど、実際にソロ・アルバムを聴こうと思っても、
聴けなかったんですよね。



渋谷のタワーレコードでアンケートをとったそうですが、
憲司さんのことをリアルタイムで知らない
若い世代の人からも、
すごくリクエストが多かったらしいです
大村憲司っていうのは、ほんとはどうなんだろう?
っていうことを思ってる人が
ジワジワと、増えてるんじゃないかなと思います。



もう、ほんとに、このタイミングを逃すと、
聞くことが難しくなるかもしれません。
大村憲司っていうギタリストを知る上で
こういう機会はもう、ないかもしれません。
だから、ぜひともこの機会に聴いてみてもらいたいな、
という思いが、まずあります。



憲司さんのギターには、品があるんです。
とにかく音に品がある。
たぶんギターって、結局人格とか、
その人の生まれもった、環境とか境遇とか、
何をしてきたかとか、
そういうのが出ちゃうんですよね。
細野晴臣さんもおっしゃってましたけど。
上手いだけじゃなくて品格があるギターでした。
音を出した瞬間にわかる、品です。

4枚のアルバム、ぜんぶ違います。
1枚ずつ、解説をしていきましょう。


1978年作品
First Step
TOTC-10925
東芝EMI
1.BOSTON FLIGHT
2.TYPHOON
3.BETTER MAKE IT THROUGH TODAY
4.HERE'S THAT RAINY DAY
5.RHYTHM ROAD
(BONUS TRUCKS)
6.BOSTON FLIGHT(TJ-85019 VERSION)
7.LEFT HANDED WOMAN

村憲司のファーストアルバムです。
当時の、クロスオーバーあるいは
フュージョンっていう流行が
下敷きにあるアルバムです。
スタジオ・ミュージシャンの世界でも、
当時実力ナンバーワンって言われていた大村憲司が、
初めて出した個人名義のアルバムです。
ポンタさん(村上秀一さん)や林立夫さんであるとか、
高水健司さんであるとか、
ほんとに旧知のメンバーと演奏しているアルバムです。
深町純さんがプロデュースです。
聴いていて、すごく、
「何かが始まる感じ」
のするアルバムなんですね。
すごく、こう、何かをやりたい気持ちっていうのが、
いまでも、伝わってきます。
未完成な部分もあるんですけど、
そこがね、逆にすごくいいんです。
完璧じゃないがゆえの良さ、もろさ。
そのときの憲司さんの感情とか、やりたいこと、
何かを始めるっていう意欲のようなものが、
すごく伝わってきます。
すでにキャリアがかなりありますから、
「初々しい」という言葉は当てはまらないかもしれませんが
でも、やっぱり「初々しい感じ」がするんですよ。
リズムが強力で、すごくグルーブ感があります。
人力グルーブですね。
演奏者全員が一致団結して向かってくる感じ。
パワフルですよね。

憲司さん、エリック・クラプトンが大好きで、
クラプトンのカバーを1曲入れています。
“Better Make It Through Today”
そこでボーカルを披露してるんですけど、
これがすごくいい味なんです。
ほんとに好きなクラプトンの曲を、伸び伸びと歌っている。
ギターも、すごく「歌う」ギターを弾いてます。
気負わない、ゆったりとした、
とてもいい感じなんですよね。
レイド・バック(ゆったり)した感じの曲なんですよ。
この曲自体は、クラプトンの中でも、
そんなに有名な曲じゃないんですよ。
よっぽどのファンでなければ
知らないような曲なんですけど、
憲司さんはこの曲がすごくお気に入りだったみたいで。
この曲は、次作の「Kenji Shock」にも入ってます。
アレンジはもちろん違うんですけど、
聴き比べてみるのも面白いんですよ。
僕は、ファーストに入っているほうが、
なんていうんだろう、初々しさがあるというか、
1発目の衝動みたいなのがあると思います。

このアルバムは
フュージョンが下敷きにあると言いましたが、
ジャズの匂いもかなりあります。
ジャズは、憲司さんの下敷きに、
すごく大きいものとしてあるんですけど、ここには
ウェス・モンゴメリー(ジャズ・ギターの名手)にも、
匹敵するような曲もあるんです。
“Here's That Rainy Day”という、
フュージョンでもないしロックでもなく、
大村憲司以外の何者でもなく、
ほんとにウェスとかに匹敵するぐらい、
素晴しい空気感のあるジャズのインストが入ってます。
5曲だけのコンパクトなサイズではありますが、
この当時の憲司さんがやりたかったこと、
作品を作ってみたいって衝動が、
すごく詰ってる感じがします。
今回の再発では
ボーナストラックが2曲追加されています。
このアルバムはアナログ時代に再発されたことがあり、
それに入っていた別バージョンの
「Boston Flight」という曲、
そして深町純のアルバムに入っていた
「Left-Handed Woman」ですね。
全7曲。「完全版」という意味でも、
聞く価値があると思います。


1978年作品
Kenji Shock
MHCL299
Sony Music Direct
1.LEFT-HANDED WOMAN
2.BETTER MAKE IT THROUGH TODAY
3.YUMEDONO
4.SHOCK
5.RHYTHM ROAD
6.BOSTON FLIGHT
7.BAMBOO BONG
8.THE MASE

い鳥やYMOと同じ
アルファレコードから出たアルバムで、
当時のアルファの社長だった村井邦彦さん、
赤い鳥は言うまでもなく、
ユーミンとかYMOの育ての親ですけれど、
村井さんが憲司さんのギターを、
すごく高く評価していたんです。
「赤い鳥」の時代からもちろんそうだったんですけど、
とにかく、大村憲司は世界に通用するギタリストであると、
見込んでつくったアルバムです。

アメリカで、その当時セッションドラマーとして
ナンバーワンだったハービー・メイソンの
プロデュースで作ったアルバムですね。
で、ロスアンジェルスでの録音です。
バックのメンバーっていうのは、
後にTOTOになるスティーブ・ルカサーだとか、
ポーカロー兄弟(ドラム、ベース)だとか、
デビット・ペイチ(キーボード)だとかがつとめています。
そういったそうそうたるメンバーを従えて作った
リーダーアルバムです。

この当時、どうしてこういう内容で作ったのかを
インタビューで憲司さんに聞いたことがあるんですけど、
ソロアルバムだからといって、
マニアックなものにはしたくない、
多くの人に聞いてもらいたいので
こういう方向にしたんだ
というようなことを言っていましたね。

内容は、フュージョン色のひじょうに強いアルバムです。
当時のラリー・カールトン、リー・リトナーなどの
フュージョンのアルバムの
影響の大きいアルバムですね。
ですが、憲司さんは、やっぱり、
フュージョン一色には絶対に染めないんですよ。
クラプトンのカバーを入れたりしていて。
このクラプトンのカバーは、
ファーストに入っていたものと同じ曲ですけども、
ファーストで練習したことを、
ここで完成させたという感じがあります。
バックの面子が全く違うっていうこともあるんですけども、
歌も格段に上手くなってますし、
やっぱりその、空気が違うのか、
アメリカって空気がそうさせるのか、
より、日本人がやってる感じには聞こえないんですよね。
アメリカなりイギリスのミュージシャンが
やってるふうに聞こえるというような曲です。

「BAMBOO BONG」という曲は
むかし憲司さんが組んでいた
「バンブー」っていうバンドでやっていた曲です。
あと、矢野顕子さんも大好きだという
「YUMEDONO」っていう曲が入っています。
両方とも憲司さんが作った曲で。
憲司さんが亡くなって
僕が矢野さんにインタビューしたときに、
わたしは今でも「YUMEDONO」が弾けると
おっしゃってました。
「すごく一生懸命練習したのよ」って。
ここにはほんとに、この当時、
70年代終わりまでの憲司さんの代表曲といえるものが
全部入ってますね。
「LEFT HANDED WOMAN」も。

この時代の大村憲司っていうのは、
ある世代にとっては、ほんとにもう、
これが大村憲司だよっていう世界なんです。
今聴いても、もちろん色褪せないですし、
フュージョンという言葉ではくくりきれない、
とにかく「大村憲司」なんです。
ギターが歌っている。

結局、歌心なんですよね。
表面的に上手い人っていくらでもいるんですよ。
早弾きがすごいとか、正確に弾くっていうことは、
練習すれば、誰でもあるところまでは行く。
憲司さんは、もちろん、誰にも負けないぐらい
テクニカルな人なんですね。
テクニックをひけらかそうと思ったら、
簡単なことなんですけど、
このアルバムの頃から、そういう方向を外れていく。
「そういうことじゃないんだ」っていうか。
ギターを演奏する能力っていうのは、
テクニックよりも、実は歌心なんだっていうことが、
このアルバムを聴くとよくわかるんですよ。

例えば美空ひばりの歌を聴いて、テクニック的にすごいとか、
そんなことはどうでもいいわけですよね。
そういうことを考える前に、人は何かを感じているわけで、
テクニックを聴いてるわけじゃない。
だから、結局、歌もギターも、変わらないんですよ。
表面的にボーカルのテクニックがあって、
歌える人はいっぱいいるんだけど、
何の感動もしない歌ってあるじゃないですか。
要するに練習とか鍛練では習得できないものが
あるということでしょうね。

才能というか、生まれ持ったものもあるんでしょうし、
どれだけ何を吸収してきたかっていう経歴とか、
そういうことにもよると思うんですけど、
憲司さんの場合は、そういうものが、
とにかくあるんですよね。
そういうことがすごくわかるアルバムです。

基本はインストアルバムで
1曲だけ憲司さんが歌を歌ってますけど、
もう全部含めて、ギターで歌っているアルバムです。

ここまでが「YMO以前」です。
YMO以前の憲司さんのギターは、
最初の2枚を聴くとわかります。
憲司さんがどういうルーツを辿ってきたか、
ブルース、ジャズ、ロック、フュージョン、
とにかくいろんなものを吸収して、
自分のギターとして放出してるっていうことが、
この2枚でわかると思うんですね。


1981年作品
春がいっぱい
MHCL300
Sony Music Direct
1.INTENSIVE LOVE COURSE
2.UNDER HEAVY HANDS AND HAMMERS
3.SEIKO IS ALWAYS ON TIME
4.FAR EAST MAN
5.KNIFE LIFE
6.春がいっぱい (SPRING IS NEARLY HERE)
7.THE DEFECTOR
8.INAUDIBLE
9.MARS
10.THE PRINCE OF SHABA

ょっと個人的な話をしますと、
僕がいちばん好きなのはこれなんですよ。
「春がいっぱい」。
当時、実を言いますと、
僕は大村憲司っていう人を、YMOに参加するまでは、
知らなかったんです。
ある日、YMOが頻繁に
テレビに出るようになったんですよ。
1980年だと思うんですけどね。
「パブリック・プレッシャー」っていうアルバムが
オリコンチャートで1位になって、
それからYMOがすごいブームになって。
それからテレビで、たとえばロスアンジェルスだとか、
いろんなところのライブを中継するようになったんですよ。
僕はYMOがすごく好きだったので(笑)、
いつも見てたんですが、
そのライブにね、ギタリストがいたんです。
なんか弾きまくっているギタリストがいる。
かっこいいなー、と思ったんですよね。
大袈裟な言い方をするとね、腰が抜けるぐらいショックで。
それまでいろんなギタリストは聴いていたし、
僕もギターを弾いていたんで、
いろんな人をコピーしてきましたが、
このYMOっていう、
ギターとはあんまり縁のなさそうな
バンドにギタリストがいて、
左後ろのほうに仁王立ちして、
のけ反ってギターを弾いてる人がいたんですよ。
で、あの、え!? こんな人いたのか、と思って。
で、名前は何ていうの? 大村憲司!
初めて大村憲司っていう人を知ったんです。

YMOでの憲司さんは、
ご自分の役割をきちんと心得ていて、
大半の曲ではタイトなリズムを刻むことに
徹しているんですが、
1曲だけ、必ず憲司さんを
フィーチャーするコーナーがあって、
そこだけは憲司さんが主役になる。
そこでやっていた曲が「Maps」っていう、
「春がいっぱい」にも入ってる曲です。
歌いながらギターを弾くんだけど、
このギターがですね、何とも言いがたい、
クラプトンをもっとこうエモーショナルにしたような、
すっごい太い、よく伸びる音で。
完全に世界観を一変させるんですよ、YMOの世界を。
テクノだったステージが、ふつうのロックバンドが、
ドラムとベースとギターだけで演奏してるような、
ものすごいロック感のある演奏に、
パッと変わっちゃうんですよね。
憲司さん、その曲だけはギターソロを弾きまくるんですよ。
といっても早弾きをするわけじゃなく、
口をへの字に結んだあの顔で
ここぞという音に強烈なビブラートをかけて、
まるで自分の心の中を放出するように
感情を入れて弾くんですね。
それにとにかくショックを受けて。
あの時の音は未だに耳に残っています。

そういう時期があって、
YMOとの関わりが詰ったアルバムが
ここにできたわけです。
81年の発表なんですけど、
YMOとのコラボレーションが生んだ、
すごく幸運なアルバムだと思います。
でもね、やっぱり大村憲司なんですよ。
ここがまた難しいところなんですけど、
この頃は、フュージョンの時代の要素が、
ひとつもないんですね。ひとつもなくて、
ひとことで言うとポップで、
カラフルなギターです。
ギターを別の方向で歌わせることに、
考えをシフトしているようなところがあります。
それは何かって言いますとね、
憲司さんのルーツである、
シャドウズとか、ベンチャーズだとか、
60年代のギターインストを、
81年の自分がやったらどうなるか、
っていうようなことを、考えてたんじゃないかなぁ、
と思うんですよ。
「春がいっぱい」って曲自体が、
シャドウズのカバーなんですね。
で、これも大村憲司以外の何者でもないんですけど、
透き通るようなストラトのすっごいいい音で。
テクニックなんかは一切ひけらかさない。
ただそのギターで音楽を追求する。
追求するっていうのもちょっと変なんですけど、
やっぱりこの当時に憲司さんがいちばん
やりたかったことをやってるんですよね。
当時、ニューウエーブ、
イギリス系のギターっていうのに
すごく関心があったみたいで、
その感じもすごく詰っています。
幸宏さんと坂本龍一さんの共同プロデュースで、
プロデュース自体は憲司さんなんですよね。
YMOの手助けもいっぱいあったと思いますけど、
全体としては、この時期の大村憲司、
YMO期の大村憲司っていうのが、
この1枚に見事に集約されていると言えます。

これは今聴いてもね、
ぜんぜん色褪せないと思います。
YMOが好きじゃなくても、
ふつうにポップなものが好きな人であれば。
それどころか、日本のポップス史に残る
名盤だと僕は思っています。

音楽的なんですよね。
ギタリストがソロアルバムを作ると、
テクニックを見せたりだとか、
すごくギターギターしたアルバムになることが多いんですが、
「春がいっぱい」はギターギターしてるわけでもない。
ここ一発で聴かせるギターっていうのは当然あるんですが、
全体を音楽として、大村憲司のギターではなく、
大村憲司の音楽として作っているような感じがあるんですね。
音楽家のアルバムっていう感じがしますね。
これはすごく。

これが出た当時僕は、高校2年の終わり頃で、
その後の大学受験時代の1年間、
これをずっと聴いてたんですよ。
ほんとに、どれだけこのアルバムに
救われたかわかんないぐらいです。
僕が生きている中でベスト5を挙げろって言われたら、
絶対入ります。

いちばん最後の「The Prince Of Shaba」って曲は、
憲司さん曰く、
ウエスタンとかの映画を意識して作った曲らしいんですけど、
これがね、またね、すごいいい曲で。
クリーンなトーンで、もうギターの音色として
これ以上美しい音色はないんじゃないかって
いうぐらい、すっごいきれいな音なんですよ。
で、いいメロディーで、ほんとに映画音楽の情景が、
映画の情景が浮かんでくるような、
そういう雄大な感じの曲なんですよね。
この曲を聴くと、今でも僕は涙が出ることがあります。
ギターを弾くっていうのは、こういうことなんだ、
ギターというのはこういう風に弾くもんなんだ、
っていうことが、わかりますね。


1983年作品
外人天国
MHCL301
Sony Music Direct
1.SLEEP SONG
2.RIKKI DON'T LOSE THAT NUMBER
3.BOTTOM OF THE BOTTLES
4.DANCE YOUR WAY TO GOD
5.TI VOGLID BENE
6.GAIJIN HEAVEN
7.AT LAST I AM FREE
8.CRAZY LOVE
9.THE MAN IN WHITE
10.THE RING

「外人天国」。
これがまた、ぜんぜん違うんですよ。
結果的にはこれが最後のソロアルバムになってしまいました。

このアルバムは、明らかにYMOを経てきたものです。
YMOとやって付けた自信とか、
自分がどこまでできるかっていうことの可能性とかを、
試しているというか。

全体としては、すごくAORの影響が強いんですよ。
AORっていうのは、具体的には
スティーリー・ダンとか、
ドナルド・フェイゲンとかですよね。
シンセドラムとかシンセベースとかっていうような
感じの音作りもあったりするんですけど、
ドナルド・フェイゲンの影響が、とくに強いかな、
という気がします。それから、
ブライアン・フェリーとか、
あとはイギリスのニューロマンチック系とかですね、
そのへんの影響がある感じがします。

歌を、何曲も歌っていて、
その歌の成熟の度合いっていうか、
上手さの度合いが格段にアップしています。
ボーカリスト憲司っていう意味でも、
すごく楽しめるアルバムじゃないかなと思います。

ギターに関して言うと、
たぶん、ソロアルバムをこれ以降出さずに
亡くなった憲司さんが、
ギターで何をやりたかったかに関しての
ヒントがあるんじゃないかと思うところがあるんですよ。
というのは、ギターがですね、
むしろ昔に戻ってるんですよね。
昔っていうのはね、たとえば「赤い鳥」とか、
フュージョンとかに邂逅する前の、
クラプトンをもうほんとにアイドルとしていた
憲司さんにちょっと戻ってるような感じがあって。

それは、ブルースなんですよね。
ひとことで言うとブルースなんです。
わざとゆっくり弾いてるっていうか、
間(ま)のあるギターを弾いてるんですよ。
間とか溜めとか、チョーキングだけで表現するとか、
気迫とかですね。
たとえばB.B.キングのギターを
譜面で表すことができないように、
この時期の憲司さんのギターっていうのは、
ほんとに譜面では表せない感じがあります。
ブルースなんですよ。
山下達郎さんも言ってましたけど、
日本人でブルースギタリストっていったら、
憲司の名前が一番先に挙がる、って。
ブルースっていうのは情念であって、
憲司っていうのは、情念の、
ブルースのギタリストなんだよ、
っていうふうにおっしゃてました。
そういうことが、これを聴くとわかります。

これまでのソロ・アルバムでは、
確かにブルースっぽいとこもあるんだけど、
それは、ほんと一部分っていうような感じなんですね。
けど、これを聴くと、憲司さんっていうのは、
ほんとにブルースにすごく影響を受けていて、
自身、その、ブルースギタリストっていうことを、
ここで言われても、
たぶん否定はしなかっただろうなと思うような
ところがありますね。
ここまでブルースギター色の強いアルバムはないんです。

とにかく、ギターの音が立ってるんですよ。
ギターを、できるだけ音数少なく
歌わせようとしてるっていう感じがしますね。
ギターが、指先から音を出すものだとすれば、
その指先のコントロールが、
もう、本人にしかわからない、
微妙な加減でコントロールしてる。
やっぱり、職人の世界にいっちゃうんですかね‥‥。
心でギターを弾いてる感じがします。

その後憲司さんのギターは
その方向がすごく強まっていくんですよ。
ブルースのセッションとかも多いですし。
このアルバムって、その後の憲司さんのギターの
方向性を決めたんじゃないかな、と、
ちょっと思うんですけど。
フュージョンっぽいプレイもありましたけど、
たぶん憲司さんの弾きたかったギターっていうのは、
こういう方向だったのかなと思うようなところが
ちょっとありますね。


松下久(松下工房*代表)
×大村真司
その1
憲司さんには、
たくさんのことを教わりました。

*松下工房‥‥東京・原宿にある
ギターのリペア/メンテナンス・ショップ。



自宅で憲司さんが撮影した、愛用ギターのポラロイド。
── 真司くんが、ちょっと遅れるそうです。
先にお話、聞かせていただきますね。
松下さんと憲司さんとの出会いから
教えてくださいますか。
松下 僕が憲司さんに出会ってから
もう27、8年ほどになりますね。
憲司さんが、まだ東京に出て来てないころ‥‥
演奏には出て来てるけども、
まだ自宅は神戸にあった時代からです。
僕も、ちょうどその頃、渋谷のYAMAHAが
まだ、いまよりもプロフェッショナルな
店だった頃、リペアルームという、
20畳ほどのガラス張りのコーナーをつくって
そこで楽器のリペアやメンテナンスをする、
というので、僕に来ないかという話があって、
関西から、東京に出てきた時期でした。
何をするのかっていうと、
プロの人の対処と、お店に来るお客さんの、
楽器の修理なりアドバイスをするんです。
アフターケアと、今持ってる楽器のケア、
というふうな感じで。
僕がそこに勤め始めたとき、
50本ぐらいのギターが、ケースに入って
修理を待っていたんですが、
その中に1本、憲司さんのギターがありました。
それは、いちばん大事にされていた
オールドのテレキャスターでした。
のちに憲司さんは、細かな改造を重ねて
自分のオリジナルのテレキャスターを
つくられていくのですけれど、
それはまだ、なにも加工されていない
オールドのテレキャスターのままでした。
しかも、誰も手をつけずに置かれていて。
聞くと
「いやー、大村憲司っていう人に
 頼まれてるんだけど、
 なんかちょっと難しそうで、
 手がなかなか付けらんないんだ」って。
── ほって置いてあったんですか(笑)。
松下 で、僕も大村憲司って聞いて、
えっ? あの「赤い鳥」の
大村憲司かな? って訊いたら、
そうだっていう。
だけど、東京にいるんですか?
いや、ときたま来るんだよ、
っていう話で。それで、
「だったら僕がやりましょうか?」
っていって、僕がいちばん最初に
YAMAHAでした仕事が、
憲司さんのギターの
メンテナンスだったんです。
憲司さんの、今も大事にされている
テレキャスターの仕事が
初めての対面だったんです。
── なるほど。
松下 27、8年前のことですから、
僕もまだ関西弁が抜けてなくて、
憲司さんもぜんぜん抜けてなくて。
えっ? 関西かい?
っていう話になって。
僕が和歌山なんですが、
大阪を中心にして
憲司さんの育った神戸、
僕の育った和歌山というかたちの、
大阪からちょっと離れた感覚、
生活圏が似てる感じがあって、
年代も、ほぼ僕に近い感じだったもので、
いろんな話をしていくほどに、
親しくなっていったんです。

憲司さんの地元・神戸で、
憲司さんがアマチュアバンド・フェスティバルに
出場した時の写真。右から2番目が憲司さん。
松下 手先が器用なんです、憲司さんは。
基本的にはギターのメンテナンスも
自分でやりたいみたいなんです。
自分でやれないところは、
誰か自分より長けてる人に任せるけれど、
自分のやれるところは自分でやる、
という人なんですね。
そのために、自分で楽器自体の
理論を勉強していました。
深いんですよ。
そして、著名なギタリストにもかかわらず
ギターは自分で運んでらっしゃいました。
前もって、かならず電話をくださってからね。
そして、必ず、向かい合って
いろんな話をするんです。
ここをこうしたい、ああしたい、という、
ディスカッションを必ずするんです。
楽器に対する情熱はもちろん、
人としての礼儀みたいなものも
すごくきちんとしていたかたでした。

やっぱり、育ちの良さを感じました。
ロックギタリスト、っていうと
ガンガンでイケイケみたいな感じが、
ありますけれど、
憲司さんはものすごく繊細で、
気遣いをされる方でしたね。
僕が今でも真司くんと付きあえるのは、
それがあるからです。

当時は僕、22ぐらいだったんです。
髪の毛はロン・ウッドみたいに
立ってて、赤くて、
ロンドンブーツ履いてた時代です。
そういう人間にも、憲司さんは、
ちゃんとした大人としての
対応をしてくれてました。
僕が病気をしたときも気遣ってくれましたし
僕がそれで休みがちだった時期も
僕の予定の方に合わせてくださったり。

そんなふうに、人と人のつきあいですから、
たんなる「ビジネス」以上に
憲司さんにも、憲司さんのギターにも
いまでも、無下にはできないです。
もちろん奥さんにも、息子さんにも。

僕の中でのミュージシャンの
印象っていうのは、大きく、
憲司さんによって変えられましたね。
こちらもできる限り、
誠意で接していかなきゃいけないって。
この、道しるべみたいなものっていうのは、
その22、3才の若造の頃に、
憲司さんと会ったことによって、
ぜんっぜん方向が変わりましたから。
だから、ギタリストとしての憲司さんも
もちろん尊敬するんですけど、
人間的な部分のほうが、
僕には、印象が強いんです。
実はライブとかって、
僕はこの仕事をし始めてから、
行かないんですよ。
── なぜですか?
松下 自分が調整した楽器が、
ソロを弾いているときに、
たとえば弦が切れたりとか、
そういうときって、
ものすごい心拍数が上がるんですよ。
もう死ぬ思いなんです。
もう一緒に演奏してるような。
── なるほど。見れないですね。
松下 見れないんですよ。
ただ、憲司さんのものに関しては、
過去、僕、4回行ってます。

憲司さんが使っていたギターはすべて松下さんが
リペア/メンテナンスを行っていた。
── 例外なんですね。
松下

うん、やっぱり、
来てくれるかい? って言われて。
僕がほんとうは行きたいくないっていう
気持ちは知っているんですが、
それは関係ないよ、って言ってくれて。
それで、ギターワークショップに2回、
それからバンブーのころに2回見ています。

この気持ちね、最近うちの従業員に
ようやくわかってもらえるようになって。
彼らも、自分がリペアしたり
メンテナンスをしたギターを
使ってくださるミュージシャンのステージは、
僕と同じような気持ちで、
やっぱり行けなくなってきたと言っていて。
自信を持って見に行かなくてもいいような
仕事をしようって
思うようになってるみたいです。

── 遺伝してきましたね(笑)。
素晴しいですね。
松下 ええ。
── 僕たち、こういう世界のことを
ぜんぜん知らずに来たもので、
お店見てびっくりしたんです。
昔、京都の数寄屋造りの職人さんを
訪ねたことがあるんですけど、
すごく似てました、ムードが。
ピシーッとしてて。
若い人から、たぶんベテランまで、
なんか眼差しが違うんですよね。
へーっ! こんな世界があったんだと思って。
「松下工房」を作られたのは、いつですか?
松下 僕が独立したのが、21年前です。
原宿に21年前にお店を出して、
今の場所に移って15年になります。
最初の店から憲司さんはいらっしゃってました。
今の場所ね、中庭があって、
ミュージシャンが来て、
ちょっと時間待つにもいいし、
音楽事務所や広告代理店が入ってたり、
いいムードなんですよ。
── 昔のセントラルアパートって、
こういう感じなのかな、なんて。
松下 うん、そうですね。
セントラルアパートな感じです。
もうそこに、ほんとに足しげく
憲司さんが、来てくださって。
だから、必然的に、
楽器のことだけじゃなくて、
日常の話にもなってね。
亡くなられた時は
ほんとうに信じられなくて‥‥
でも、スイッチを入れ換えて、
まだ生きてると思うようにしたんです。
── いまも、ですか?
松下 いまも、です。
時間が来れば、真司くんが
憲司さんの歳に近くなれば、
弾きたくなる楽器もあるだろうし、
真司くんのジャンルと
憲司さんのジャンルによって、
使える楽器と使えない楽器があるだろうし、
僕が生きてるかぎりは、
いつでも真司くんが使えるように
キープしといてあげようって、
思いましてね。
これが憲司さんに対する、
恩返しでしかないのかな。
僕も子ども2人いるし、
自分が先逝っちゃったときの
不安感っていうのは、
すごいもんだろうと思うし。
子どもにあれしてやりたかった、
これしてやりたかったってことも
あっただろうし。
いろんな友だちがいるから、
いろんな友だちが、これから先、
手助けしてくれるだろうけど、
楽器のケアに関しては、
僕しかいないだろうな、
って思ったんで。
だから、持ってきてくださる
奥さんには悪いんだけど、
必ず、メンテナンスを、
四季の変わりごとに、やるんです。
── そうでしたか。
松下 持ってきて下さい、っていって。
もちろん、金額はいただかずね。
憲司さんの、親たる部分を考えると、
何かやっぱり、してやれるとすると
それしかないなって思って。
みんなそう、僕みたいに
思ってるんだと思うんですが。
── そうですね、
みなさん、おっしゃいますね。
大貫妙子さんも、
亡くなったとは未だに思わないと。
松下 うん。あの、1本だけ、
憲司さんと僕とで
共同で作ったギターがありましてね。
── え、完全にオリジナルのものなんですか?
松下 完全にオリジナルです。
うん、ありまして。
それは奥さんが、
憲司の臭いがするだろうから、
っていって、
松下さん、持ってて、
っていうことで、
僕が今あずかってますけど。
── 今度、展覧会()があるんですよね。

*8月30日まで、イシバシ楽器渋谷店で開催。
 詳細はこちら
松下 ええ、それに多分、
出てくると思います。

94年頃、松下工房製オリジナルギター"Seen”を弾く憲司さん。
── 展覧会なんですけれど、
ギターのこと、ぜんぜん
知らない人もいますよね。
大村憲司さんっていう人の
すがたを伝えられて、
そこに彼の使ったギターが
並ぶっていうのは、
そこまではわかって、
その気持ちは持ってけるんですけど、
ギターの見方について、松下さんから
「こう見るんだよ」って
言っていただけないでしょうか。
松下 憲司さんのギター、
全てがそうなんですけど、
すごく全体にクオリティが高いんですね。
既製品を、もちろん買ってるわけですが、
既製品のなかで弾きくらべをしてるんです。
憲司さんが、クオリティの高いものだけ
買い集めたんです。
じゃ、おんなじモデル、
いっぱいあるじゃないか、
ということで、写真を見てると、
思われるかもしれませんが、
おんなじモデルなんだけど、
おんなじ音じゃないんです。
中には、スペアとして持っていた
同じ音のものや、
同じ形で同じ弾き心地だけれど
違う音のものもありますが、
もともと楽器に関しては、
すごく目の長けている人なんで、
憲司さんが良しというものは、
たぶん一般の人たちが良しというものだと
言えるんです。
しかも、楽器自体が全部、
憲司さんなりの調整で整ってます。
で、憲司さんなりに整ってるんですが、
一般の人が弾いて、
違和感のあるものではなく、
僕らプロが見て、
いちばん正しい位置に整っています。
たぶん憲司さんは、
正しい位置に慣れようと、
ある時期、したんだと思います。
で、慣れてきて、
それが自分のベストになったんだと思います。
だから、スタンダードを知ったうえで、
そのスタンダードを
自分のものにしていったって
いうところだと思うんですね。
── 未だに触れない楽器があるって
言ってました、真司くんは。
松下 そうでしょうね。あそこまで偉大だと、
触ることで、穢す部分って、
感じるかもしれないですね。うん。

松下 でもね、面白い話ではね、
昔、その、スタンダードを知ろうという
時代が憲司さんにあって。
それは、今から24、5年前あたりですかね。
えー、ギターによって、
弦高がバラバラだった時代があるんです、
憲司さんが。
── ゲンコウ?
松下 弦高。弦高というのは、
弦がこう、張られてますね。
その弦から下に、指盤があって、
そこに、フレットと呼ぶ
金属の棒が何本か打ってありますね。
弦とそのフレットの距離を弦高と言うんですが、 
その弦高というのは、
本来はきれいに整っていないと、
運指、要するに、弾くときに指が、
なんか突っかかったりとか。
あるいはピッキングするときも、
あるところが高かったら、
ピックがよく当たりすぎちゃったりとか。
だから、6本、ジャラーンと鳴らしたときに、
音がはみ出しちゃうようなことも
出てくるわけですね。
で、まだ、多分スタンダードが
身についてなかったんだと思うんですが、
バラバラの時期があったんですね。
それで、憲司さん、
これ全部バラバラなんで、
やっぱり楽器本来の、
標準のところにもっていきましょうか?
って、もってったんです。
それで、あ、じゃ、これが標準の弦高で、
これだと音程も良かったりするんだね、
っていう話で、そうです、と。
この楽器の弦高はこれで、
この楽器の弦高はこれなんです、
という話をしていって。
それで、ある時期にぜーんぶ
それに統一しちゃったんです。
で、慣れるという努力を、
多分かなりされたんだと思うんですね。
で、そのときには、
チェックリストがウチにありまして。
憲司さんの弦高は、
1弦が何ミリ、2弦が何ミリ、
3弦が何ミリって、
全部チェックリストがあるんです。
そのチェックリストに従って
やっていたんですが、
ある日、偶然、弦高調整だけ忘れて、
憲司さんが調整したまんま、
渡しちゃったんですね。
引き取りに来て、試奏をしたら、
弦高の間違ってる弦だけ、
んっ? んっ? って。
おんなじように弾いて、また詰って、
んっ? ってなってしまって。
あ、弦高調整やってない!
って、僕がわかったんですね。
憲司さん、ごめん、
それ、まだやってない、
それで、そのチェックリストを見て、
合わしたんですね。
ただ、それは、
人間の目で分かる単位ではなくて、
コンマ2ミリです。
── うわ‥‥。
松下 コンマ2ミリが、
ミュージシャンにとっては、
ものすごい影響なんですね。
そのときにね、
僕自身もびっくりしちゃって。
憲司さん、コンマ2ミリがわかるのって。
わかるはずないのにな、と思いつつ、
コンマ2ミリを調整したら、
スラッスラ弾けるんです。
ということは、その段階で憲司さんは、
もうスタンダードを身に付けてて、
そのスタンダードじゃないと
弾けなくなっていたんですね。
だからその違いがわかるんです。
僕の頭の中では、
コンマ2ミリというのは、
そんな大きな差じゃなかったんですよ。
── いや、そうでしょう‥‥。
松下 で、改めて、そこからは、
弦高というものを、
他の人に対しても
シビアに見るようになりました。
これは憲司さんに教わったことです。
もちろん、そういういろんな
影響を与えてくれたミュージシャン、
いらっしゃいますけど、
憲司さんは、僕にとっては、
とりわけ印象深いことばっかりです。

94年頃、池袋のSTUDIO200でのライブ。
尺八奏者の中村明一さん、パーカショニストのグレン・ヴェレスさんと。
── 真司くんの話は、
憲司さんとは?
松下 真司くんのこと、
ぜんっぜん言わなかったです。
真司くんがギターやってるっていうのも、
僕に言わなかったです。
もう晩年、ウチのもやってるんで、
ちょっと見てやってくれ、って。
え、なに? 真司くんって
ギターやってたの?
言ってくれりゃあいいのに、って。
だって松下君のとこ持ってくには、
まだあいつはさ、っていう感じで。
ひとつやっぱりその、
階段を作ってたんだと思うんですね。
で、ある程度の段階まで来たら紹介するが、
っていうとこだったんだと思うんです。
いや、でも、そういう部分では、
意外と頭ん中で、
すごく頑固なおやじのところもあったのかな、
っていう気がしますけどね。
── 真司くん自身のギターも、今、松下さんが?
松下 はい、やってます、やってます。
ぜんぜん違いますよ、憲司さんと。
憲司さんとはまったく違うロッカー。
うん、あの、まだ粗野な部分が
カッコイイと思う年齢じゃないですか。
そういうところはもう、ね、随所に感じます。
── すっごく悩んでますよね。
一緒に、今回いろんな人にお会いして、
彼を見てきているんですが、
ほんとに悩んでますね。
松下 まずは、音楽でお金を
稼がないほうがいいと思う。
ミュージシャンって、旬があるから、
旬が越えて生活を維持していくのは
すごく大変なんです。
そうするとね、嫌になっちゃうんですよ、
ギターが。
だからほんとに開放的にやらしてあげるか。
みんなが優しい目で見てもね、
本人にはプレッシャーだと思うんですよ。
だから、僕にしても、
憲司さんと比べないように
しようと思ってますよ。
憲司さんはこうだった、とか、
絶対言わないようにしてますよ。

「外人天国」のプロモーション写真。


【ここで真司くん、登場】

真司 すんません! 遅れて‥‥。
さらに甲州街道も混んでて。
も、すいません、ほんとに!
松下 はははは。いやいやいやいや、
もうぜんぜん、ぜんぜん。
── もうね、相当いろんな話、
聞いちゃったよ(笑)。
でも真司くんから聞きたいことが
あるんじゃないかと思うんだ。
真司 うん。おやじって、松下さんに
リペアやメンテナンスのとき、
自分がどうしても来れない時は
よく手紙を書いてたって本当?
松下 入院とかなんかしてたときって、
そうでしたよ。そう。手紙をね、
書いてくれてたよ。
添えてくれてるんですよ、楽器に。
さっきも言ったんだけど、
社会の礼儀みたいなのを
憲司さんに教えてもらったんですよ、僕は。
真司 へぇー。
松下 うん、ほんとに、
人とのつきあい方みたいな部分。
これからも大事にするし、
ほんとに僕の財産だと思う。
真司 それは、どういうこと?
松下 だって、毎回楽器は
憲司さんが持ってくるんだもん。
晩年、入院だのなんだのの頃には、
もうしょうがなくスタッフだけど、
必ず憲司さんだよね。
そういうこと、普通の人はしないもん。
真司 おやじの場合、
家でもね、自分で調整してたし。 
松下 職人だからね、あの人。
ギター職人でもあるけど、
気質としては全てにおいて
職人なんですよ。
実家が鉄工所だよね。
やっぱり職人の部分が、
あるんですよ。
真司 そうですね。おじいちゃんも、
すごく繊細な人だったから。
松下 だから酒飲まないと
いけなくなったりするんだけど。
僕のほうが憲司さんより年下だし、
社会に出てきても、その当時
僕はヤマハの中でしか泳いでなくて、
泳ぎ方も何もわからなくって。
でも、こうやっていくんだぞ、
っていうのを、憲司さんに見せられて
憶えさせられましたね。
電話1本するなんて、
当たり前のはずなんですよ、それが。
だけど、ミュージシャンの中では、
当たり前じゃないでしょ。
真司 でも俺もおやじと同じで
自分で持ってかないと、
自分が気が済まないみたいの、あるから。
松下 それって、絶対に必要なんだよ。
なくしちゃったらいけないんだよ。
僕も、いろんなもの壊れても、
たとえば車であったり、時計であったり、
必ず自分で持ってくことにしてるよ。
それはやっぱり、憲司さんに教わったんだ。
自分の思ってることをちゃんと伝えて、
俺はこれだけシビアに
いろんなものを見るやつだぞと。
甘いことやっちゃあ困るぞ、
っていうところも見せつつね。
真司 そうですね。
松下 だから、すごいプレッシャーもあったもん。
憲司さん本人が来るでしょう?
こっちはナットの溝を切って、
弦高の調整してると、憲司さん、
こう、じーっと見てみて、
「もうちょっと削って」とかさ。
それって、うぉー、すっごいなーって。
手を抜けないって思うじゃない?
真司 俺なんか行くと、
絶対なめられちゃうだろうなあ。
技術を知らないと、
リペアマンの個性もあるし、
そういうものがギターに
反映されたりもするじゃないですか。
松下 それが悪影響になったりする場合もある。
真司 うんうんうんうん、そうですね。
松下 調整する人がやたら個性派じゃ、
だめなんだよ。リペアマンは。
そういうことは、
憲司さんによって教えられた。
シビアな人の対応の仕方っていうものを、
かなり勉強させられた。うん。
真司 へぇー。
松下 あの、いやな意味じゃなくね。うん。
真司 ほんとそう、すごいですね。


松下久(松下工房*代表)
×大村真司
その2
いつか、ちゃんとわかる日が
やって来るからね。


*松下工房‥‥東京・原宿にある
ギターのリペア/メンテナンス・ショップ。



97年、憲司さんが自ら写したポラロイド。
左からベンチャーズの「WALK. DON'T RUN VOL.2」
シャドウズの「MEETING WITH THE SHADOWS」
同じくシャドウズの「THUNDERBIRDS ARE GO!」、
そしてそのジャケットに写っているのと同じ型のギター。
真司 松下さんに、おやじもたぶん、
教わった部分デカいと思うんですよね。
松下 教えつつ、教わりつつ、
やってましたからね。
真司 俺には、おやじに、
松下さんの心意気が
うつっちゃったんじゃないかな?
って見えました。
ほんっと、凝りましたからね。
松下 演奏スタイルによって、
調整が違う部分ってあるんですよ。
マイクから弦までの距離というのは、
その人のピッキングとか、
使い方によって違うんです。
通常ソロを取るときというのは、
ストラトでいうと、リアでソロ、
あるいはリアとミドルの
ハーフトーンでソロでしょ?
真司 です。
松下 だけど、ジャズ畑の憲司さんは、
フロントでソロを
取るときもあるんですよ。
そのときには、
ピックアップの高さって、
ほんの少し上げてあげて、
フロントのピックアップの‥‥。
真司 出力を上げないと。
松下 うん、出力と、
輪郭をハッキリさせないといけないんですね。
僕はそういう人と
つき合いが少なかったから、
憲司さんに初めて教えてもらったり。
ぎくしゃくではないですが、
お互いの探り合いの部分っていうのは、
初期段階に、けっこうありましたよ。
真司 へぇー。
松下 でも、後半は、ここまでは僕がやるから、
あと憲司さん、どうせやるんでしょ?
っていうくらいになりました。
たとえばナットとかね。
溝の幅と高さは僕が決めて、
ナットの表面の、通常、土手といってる、
表面の削り方は、憲司さん、
自分の好きな削り方があって、
それは自分で削ってたの。
真司 えぇ〜? 知らなかったな。

76年、六本木PIT INNで。


97年、神戸チキン・ジョージでの
プロ活動25周年記念ライブ。
松下 家でヤスリを持って
ごしょごしょやってたなかった?
真司 やってた。ナットを調整してたんだ。
うわぁ、そこまで詳しくなるのって、
すごいことだ。
松下 僕らの技術屋畑のことにまで入ってこれる、
知識と興味を持ってましたよ。
だからもう、下手したら自分の部屋の中に、
リペアルームみたいなものを作って、
機械なりなんなり、
ぜんぶ置いてやろうと思えば、
いつでもできた人ですよ。
真司 自分のギターをちゃんと鳴るように
できるとこまでを含めての、
音楽家でした。
松下 そうそうそうそう。
あのね、関西には多いの。
真司 自分でやる人?
松下 これはね、土壌の違い、
文化の違いからきてるんですよ。
関西ではね、意外と、与えられたものを、
自分で何とか処理するんですよ。
ところが、東京では、
与えられたもの自体を、
自分で処理するよりも、
誰かに委託してやってもらったほうが
安心できるんですね。
情報も広がってるぶんだけ、
そういうふうになるんですけどね。
関西系に似てるのは
ニューヨークあたりの、
黒人ギタリスト。
意外と、何にもやらなくて、
出ない音があっても、
他のところで出る音があるんだから、
それ使おうってなるんです。
で、それなりの変な演奏方法を
憶えちゃって。
ちょっと人と違うような
演奏ができるようなことにまでいく。
それが関西系だね。
関東系は意外と任せちゃって、
共同で何かを作っていこうっていう感じで
仕上がっちゃうっていうのが多いんです。
真司 へえ!
松下 あとは、たとえば
ブルースギタリストなんか。
憲司さんなんかも、
そこに近いんでしょうけど、
試奏する曲がばらばらなの。
4本ギターがあったら、
おんなじ曲で4本弾き比べたほうが
わかりやすいじゃないですか。
同じフレーズ弾いてみて。
ところが憲司さん、
あまりそれしないんですよ。
それだと音の違いって
あんまりわかんないんじゃないかな、
っていう気が最初してたの。
ところがね、メロディーじゃないんですね。
音を聞いてるんです。
自分で出している音自体が、
自分の思ってる音で出てるかどうか、
っていう物差しなんでしょうね。
だから、すごく、そこは
ミュージシャンなんですね。
技術屋は、同じフレーズで
調べるんですよ。そういう意味では、
すごく極端なミュージシャンの部分も持ち、
テクニシャンの部分も持っていたわけ。
真司 けっこう音色には
影響してたかもしれないですよね、
この曲ではこのギターって選ぶときに。
松下 あるんでしょうね。
真司 名前がついてるじゃないですか、
1本ずつ。たとえば、ブロンディだったら、
金髪の女みたいな音。
この曲に合うのはこのギターだ、
っていって選んでたようなところもね。
ギターを音でちゃんと理解してるっていうか。
そういうのもあったんじゃないかな。
そう思うけどな、俺は、きっと。
松下 思い出すね。うん。
真司 ピンキーだったらピンキーの音。
── みんな女性名なんですね(笑)。

ギターにはすべてニックネームをつけていた。
(すべて女性名というわけでもなかったようです)
真司 うん、そういうようなこと言ってましたよ。
ギターも、女といっしょ。
そこまで言ってなかったかもしれないけど
そういうこと言ってた。
しっかりそういう意味で見て、
弾いてくといい、みたいなことを
俺に対して言ってたのを。
松下 へぇ。え?
憲司さんって、
真司くんには女の話とか、したの?
真司 あのね、直接な女の話っていうのは、
ないんです。
松下 硬派だったの?
真司 硬派っていうか、硬派なんだけど、
かっ飛ばした下ネタ好きではありました。
でも、猥雑じゃないっていうようなタイプ。
でも、硬派でしたね。うん。
松下 あのね、あの人やっぱり‥‥硬派でしょう?
硬派で、しかもまあ、付き合い上は、
まあ、そういう話もするんだけど、
外国に暮らしていた経験もあって、
頭ん中はハイソな部分があって、
下品にはいかない。
真司 うん、そうなんですよ。
松下 下品にはいきたくないって人なんですよ。
あの、服装でもそうだし。うん。
関西人同士って、
下品なラインにもってくんだけども、
その中でも、できる限り上品なところを
残しつつ会話してる。
真司 そんな感じ。

遺影にも使われたポートレイト。
松下 ‥‥いや、ね、
BSで真司くんが
Kenji Shockを弾いてたときに、
俺もうね、涙出ちゃった。
真司 そうっすか。
松下 背中がゾクゾクするしさぁ、
もう、ほんっとにね、憲司さんが、
あの膨れっ面で弾いてる顔が目に浮かんだよ。
真司 もうあの時は、
おやじが思いっきり
肩の上にいましたからね。
松下 いたいた、いた(笑)。
真司 寒気じゃないけど、感じた。
技術もまだまだ若い俺のものなんだけど、
なんかね、指自体を動かしてたの、
俺じゃないよな、ぐらいのがありましたね。
松下 いやぁ、あれは良かったー(笑)。

トリビュート・コンサートでの真司くん。
真司 あの時に、サブとしてもう1本あったのが、
おやじが死んだ当時、
松下さんに色を変えてもらった
レスポールだったんです。
松下 あ、はいはい。アンティグラ。うんうん。
真司 そうそうそう、そのアンティグラ。
グレーの色、
もともとストラトの色なんですけど、
すごいその色が気に入って。
そのギター、常に、仕事に行くときは、
サブで持ってってます。
だけど、ピックアップとかをね、
また、変えたいんだ。
じゃ、今度は自分で変えようかな?
(笑)ちゃんとね、知識を付けてから。
松下 時間がありゃあさ、
修業においで。
── 今、おとうさんのギターは
それ以外、使ってないんだ?
真司 1本、カスタムのストラトは使ってる。
ライブでも持ってったり。
でもほかは使ってないです。
── いつかほかのギターも使いたいって思う?
真司 思うんだけど、
自分に合ったものっていうのを
使いたいっていうのもあるし。
おやじが遺したのが1本や2本であれば、
もうこれしか使わないって
いうのもあると思うんですけど、
なにしろ20何本あるんです。
それを、俺が受け継いだっていうのは、
‥‥。
松下 けっこう負担だよね。
真司 そうそう。
松下 ふふふ。わかるわかる‥‥
わかるわかる(笑)。
真司 もうほんとに考えないやつだったらね、
もう、よっしゃ、俺のだ、
っていって弾けるんだろうけど。
どうやって、これを鳴らせばいいのか、
やっぱあるんですよね、俺にも。
松下 うん、うん、わかるわかる。
真司 そうするためには、
たとえば自分でパーツを
変えたりとかっていうのも、
しなきゃいけないだろうし。
だけど、それをしてしまうと、
おやじのものではなくなるし。
松下 そうだよね。そうだよね。
真司 やっぱり、あの、ね、
ケース開けても、
おやじの臭いがやっぱしてくるんですよ。
中から。

この日も、メンテナンスのために3本のギターを松下工房に預けた。
松下 だからね、僕はね、真司くん、
もっと後で使ってもいいと思う。
そのほうがいい。
どうせ今はね、おやじさんが偉大すぎて、
開けてもプレッシャーばかりだよ。
でも、自分なりにすると、
壊すよ、ぐらいのところにまで
改造しないといけないしって。
その時期じゃないんだよ、だから。
真司 そうですね。
松下 だから、その時期まで俺が
ちゃーんと調整しとくから。
真司 ほんとに、ずっとやってくれますか。
松下 真司くん、いくつ?
真司 21です。
松下 ウチの子も21なんだ、女の子だけど。
親ってね、自分のものを買うにもね、
バッグ買うにも、時計買うにも、
将来残してやれるものをって思う。
親ってね、そういう気持ちが
いつもあるんですよ。
憲司さんもね、ギターを買う時に、
真司くんが後で使うだろうって
思ってたはずなんだ。
「後々真司も使えるだろうから、
 これ買っとこうかな」って。
真司 うん。いま使ってる1本はね、
いま、唯一わかる1本なんです。
やっぱおやじの血が流れてるから、
思惑みたいなのが、少し、
ひらめいたりするときがあるんですけど、
あのカスタムはね、入門編じゃないけど、
俺が使うのに、
いちばん最初におやじのギターに
触るんだったらこれっていう感じが
すごく、して。
自分勝手に思ってるのかもしれないんだけど、
すごく弾きやすいし。
でも生半可な感じで弾いても
いい音が出ないんです。
ピッキングのアタックも、
弦を押す瞬間もやっぱね、
ちゃんとタイミングをはかってやると、
やっぱりいい音が出るっていうギターで。
他のギターはね、まだわからないですよ。
松下 英語のわかんない人間に、
英語の本渡してもダメなんです。
英語がわかる時期になって
英語の本が来ないと。
真司 そうっすね。
松下 だからね、今やたらめったら
わからないギターを、
自分なりにいじっていったらね、
今度は、憲司さんが訴えたとこが
なくなっちゃうから。消えちゃうから。‥‥。
真司 そうっすね、
わかんなくなっちゃいますよね、うん。
松下 だから、それは、今
いじらないほうがいいんですよ。
真司 うんうん、そうですね。
松下 いじれるくらいになって、弾いてみて、
あれ? これ、すごいいい音するな、
このいい音って、
おやじもこれをいい音と思ったのかな?
っていう理解が出てこないとダメだし、
なんでこの弦高にしてるんだろう?
この弦高にしてるんだろうって
わからなきゃなんないんだけど、
わかる時代になってきて
ハイポジションまでザーッて弾くと、
あ、この弦高だったら、
このハイポジションまできれいに弾けるんだ、
あ、この弦高っていうのは、
おやじがやっぱり、
それなりに考えた弦高だったんだ、
っていうことで、ひとつひとつの箇所にね、
お父さんの考えが出てくるはずなんですよ。
真司 そうですね。
松下 だけど今、英語も何もわかってない人間に、
英語の本を渡されてる状態だから。
だからそれまでは、
いじらないほうがいいし、
お父さんの匂いも消さないほうが、
いいと思うんですよ。
真司 そうですねー。
弾く前に、待てよ、っていうのは、
おやじの匂いなんですよね。
開けたときに。そうそうそうそう。
松下 うん、うん、それで、いいんじゃない?
真司 で、いいって言うか言わないかっていうの、
やっぱり、ほんとにその、
開けたときにわかるんですよ。
もう見たときに、あ、これは‥‥、
みたいなのもあるんです。

神戸チキン・ジョージに飾ってある
憲司さんのギター「BLACKY」。
松下 僕もそうなんです。
ウチのおやじは、実は、
刀鍛冶なんですよ。
真司 もう、まさに! まさに、その世界ですね。
松下 そうなんですよ。
でね、最初はね、刀鍛冶なんて大っ嫌いで。
メジャーじゃなく、流行らなく。
戦争中に、自分の打った刀で
銃剣術とかっていう武道があったり、
戦争中に鉄砲の先に刃物が付いてて、
とか、自分の作った刀で
人を殺すのが嫌になって、
戦後は刃物問屋に
変わったっていう人なんですけどね。
真司 ふ〜ん!
松下 でも、自分の銘の入った刀とか、
あるわけですよ。
でも、その刀とかを作る意味が、
まったく僕にもわからなくて。
骨董品屋さんなんかで刀を見ても、
そんなの仁侠映画の世界を見るようで
まるっきり僕もわかってなかったんです。
でもね、それが、ある時期に、
定期的に自分の父親の刀を
見るようにしたんだよ。
すると、見ていくほどにね、
日によって見方が違ってくるんです。
だからたぶん憲司さんのケースを
開けていくほどに、日によって違ってくるよ。
握って弾いてみて、今日のこの弾いた感じと、
2ヶ月後の弾いた感じが違ってくる。
だんだんだんだん、
たぶん憲司さんの方に
歩み寄っていくと思う。
僕もね、最近、
刀がきれいに見えてきたんですよ。
あの、刃のところにこういう波打ちが、
1本1本、違う波打ちがあるでしょう。
それがだんだんだんだん、
きれいに見えてきて。
あんまり興味のない世界だったのが。
で、まだおやじは生きてるんですが、
おやじにそれを言ったんですよ。
べつに憲司さんのことも何も関係なく、
「いや、最近さ、なんか刀見るとさ、
 あー、なんか1本買おうかな?
 とか思ったりとか‥‥」
っていう話をして。そしたらおやじがね、
電話もとで泣いてるんですよ。
目がしみる、しみるって言ってんですよ。
白内障の手術してるんだけどね。
なんか鼻声になってきてて。
「俺のやつだったら、あるぞ」
って、言ってくれて。それで‥‥。
真司 俺のおやじも
そういう感じだったんだろうな。
松下 いや、たぶん俺、そうだと思うよ。
これね、真司に使わしたい、
将来的に真司にこれは
持たせられるもんだって思って
おいてきた宝物だと思うんですよ。
だから、それ考えてくと、
プレッシャーではあるけれども、
受け入れてあげないと。うん。
真司 うん。そうっすね。
今、俺が好きな音楽は
おやじのやってきたものとは違うんだけど、
おやじたちの世代のものとかに関して、
その音楽で、そのギターを使って、
その音が出てるっていうこと、
その時代時代の音がするってこと、
すごくなんか、理解できてきたんです。
だから、結局、音はね、
ああいう音を、おやじみたいな音を
いつか、出したいって、思います。
俺も知識と経験がついて、
人生の経験がついて、
そういうのが全てかっちり合ったとき、
っていうのが、きっとね‥‥。
── ギターケースの扉が開くんだね。
真司 そうそう。3日間だけでもいいから、
きっといつか、ね。うん。
松下 映画になりそうじゃないか。
父親が息子のためにさぁ、託したギターが、
わかる時期がくるだなんて、さ。
真司 じゃ、いつか俺が自作自演で!(笑)
松下 だってもう、トリビュートで
真司くんが弾いてるのも、
俺にはもう映画だったもん。
真司 そうっすか。でも、あのときもね、
あれは、おやじのためにというか、
それ以外にはもうできなくて。
だからこそ、あの場所に立てたんです。
あの真ん中で、
あんな無責任に弾かしてもらって。
でも、おやじ、おやじが死んで、
送ってやるじゃないけど、
俺がもしもギタリストじゃなかったとしても、
ギタリストになれなかったとしても、
でも絶対遺志を継ぐぞっていう
気持ちだけをね、表現するということで。
もう初めてそのときに、
それまではかっこつけてやってたんだけど、
何かのために表現するというか、
気持ちを表現するということが、わかったんです。
松下 エレキギターの歴史ってさ、
まだ日本だと40年でしょ?
やっと2世が出てきたんだよね。
真司 その期待をね、やっぱり、
プレッシャーじゃなく、
「頑張る」じゃなく、
今はもう、頑張るのは当たり前だから。
松下 あのね、ギターケース開けて
触るだけで親孝行だよ。
それだけでいいと思っといたほうがいい。
それ以外のことまで、あんまり‥‥。
真司 考えてみたらおやじだって21才のときに、
俺とおんなじときに何やってたかって‥‥。
それに、俺にだって、
はじめからおやじを超えている
部分だって、かならずあるはずなんだ。
だから、俺はもうそんなの気にしてねぇよ、
っていって。
俺をおやじと同じ物差しで見る人、
いっぱいいるんだ。
だけどそういう人たちっていうのは、
べつに俺に対して
ムカついてるとかじゃなくてね。
期待を持って言ってくれてる人もいるし
そうじゃない人ももちろんいるんだけど。
でも、やっぱり数少ない人たちで、
俺とおやじの違いを見てくれてる人もいるし。
ギターにもいろんなものがあって、
弾き方もいろいろあるし、
音楽の種類も違うし。
おなじギタリストっていう、
枠にはまったとしても、
もっと歌を歌うギタリストだったりとか、
何でもできるギタリストだったりとか
やっぱりいろんな方向性っていうのも
あると思うし。だから、今それを、
ほんっとにそれを模索しようと思うんです。
「おやじと同じ」ギタリストに
なれるっていうのは無理だし。
それこそ、なんかこう、
冒涜じゃないけど
越えられないところに向かって行くっていうか。
だから、そうじゃない部分っていうのをね、
もっとこう気楽に考えられるように、
最近やっとなってきたんです。
ほんっとに昔は、常にここ
(肩の上)にいたから。
みんな怖がるんですよ、俺のことを。
もっとフランキーなんだよっていう
レベルから、知ってほしい。
松下 そういうほうがいいんじゃない?
真司 おやじの息子っていうのが、
いちばん期待のかかるところっていうのは、
絶対あるわけだし。だけど、
とにかくそういうの関係なしに、
自分が満足できる瞬間っていうのかな、
ギターでもそうだし、
音楽で満足できる瞬間っていうのを、
必ず、こう、
人生終わるまでに1回って思ってます。
松下 ドラムで1番になってさ、
ポンタの息子かい? って言われるぐらいに
なっちゃったりしてね。
真司 あっはっはっはっは!
でもね、ほんとに、そこらへん、
やっと考えられるようになった。
もうほんっとに、おやじだったんですよ、俺。
松下 俺もほんと、もう長ーい目で見てるし、
ずっとメンテナンスするの、
ぜんぜん構わないからね。
真司 長い目で!
頑張ります。そのときには、
松下さんが調整してくれたギターを
俺が‥‥。
松下 俺が調整したところの理由を
わかったって言ってもらえたら、
ありがたいねぇ! うん。
それが80年か後かもしれないけども(笑)。
ようやくわかったって言ってくれれば‥‥。
真司 あ、松下さん、わかった、
こういうことなんでしょ?
って、俺も早く言いたいもん。
松下 そうそうそうそう。それは待つね。
2番目のお父さんとしては(笑)。
真司 ほんとに。修業します。
どうも、ありがとうございました!


この回で、大村真司くんによる、
大村憲司さんの今回の「旅」のようすは、終わりです。
これからの真司くんの活躍を、ぜひみなさん、
見ていてあげてください。
また、大村憲司さんのこと、真司くんへのメッセージなど
メールもお待ちしています。
postman@1101.comまでどうぞ。