大村憲司を知ってるかい?
2年前の冬、短い生涯を閉じた、
あるギタリストの話。

【シンガー/ピアニスト・矢野顕子さんの話】


矢野顕子 やの・あきこ

[シンガー・ソングライター&ピアニスト]

ご存じ、アメリカ生活12年目を迎える
シンガー・ソングライター&ピアニスト。
ミュージシャン同士として、
大村とは自他ともに認める特別な関係だった。



<大村憲司を聴くならこのCD>
うーん、困ったなあ。
「KENJI SHOCK」だなあ。
憲司のプレイが
かっこいいということにつきます。
楽曲にも、憲司らしさ、
憲司の好みがよく出ています。

憲司といつ知りあったか……うーん、
初めて憲司のプレイを聴いたのは、
渋谷のジァン・ジァンでした。
その昔、吉野金次さんが持ってらした
スタジオが、ジァン・ジァンの奥の奥にあったんです。
私がそこにいたときに、劇場のほうで、
たぶん、五輪真弓さんだと思うんですが
どなたかの伴奏をしている大村憲司を見ました。
赤い鳥を辞めたか、そのくらいだと思いますが、
その弾いている姿を見て、思ったのは、
まず音色のよさ。ギターの音が太くて、
つやつやとしている。格好がいい。
そして、弾いている姿が色っぽい。男らしい。
それが、非常に印象に残っています。
そのときの姿だけ焼き付いてて、
他の人の印象がまったくない(笑)というところからいって、
いかにそれが強烈だったか。

でもそのときはね、会話はしていないと思うんです。
ただわたしが一方的に見て、かっこいいなあ、
と思っていただけで。
一緒に演奏をする最初の機会は、うーん、
よくおぼえていません(笑)。いつだろう?
いつのまにか、という感じだと思います。
そうしていつのまにか、
私にとっては欠かせないギタリストになっていました。

        

いっしょにジァン・ジァンでギター教室をしたこともあります。
ジァン・ジァンというのは告知もしませんし
私はそこでは何をやってもいい、
という暗黙の了解があるんです。
お客さまも、「何かヘンなことがありそうだぞ、
面白そうだぞ」ってことで来て下さるんですね。
その日は大村憲司のギターを私が借りまして
“公衆の面前で大村憲司が
 矢野顕子にギターを弾かせるようにしよう講座”
をしたんです。
私、ギターは、中学とか高校でちょこちょこっと
弾いたことがあるくらいなんですが、それを短時間で
何か課題曲を弾けるようになってしまおう、
しかもお客さんからお金とって! というものでした。
でも結局、弾けなかったんですけれど。

        

以前、憲司との音楽家同士としての関係を
「果たし合いみたいなもの」と言ったことがあるんですが、
それは敵味方、というわけではなく、
憲司とはいつも真剣勝負だった、ということです。
まじめに音楽を作ってきた人に対して、
誠意には誠意で応える。そういうことだと思います。
ですから、たとえば向こうが命かけてきた、ってときにね、
こっちが「ん、じゃ、ま、こんなもんで!」とは、
言えないでしょ、やっぱり。
「よし、そうか、じゃ、こちらも、
 受けて立とうじゃないか!」ってなる。
一生懸命やっていることにたいしては
「よっしゃオレも一肌脱ぐか!」ってなる。
そういう、志と志、なんです。
相手に対して恥ずかしいことはできない。

向こうが「こう出すぜ」と来たら、
私は「ほほう、そう来ましたか」っていう。
それは遊びの感覚ではなくて、
心の中は非常に暖かくて、熱いものがあるんですが、
出てくるものは非常にシリアスなものです。
でもそれって、
音楽的な信頼関係がなければできないことなのね。

憲司にかぎらず、実際に会ったことがなくても、
その人のことを知っていて、
この人はこういう音楽をつくる人だ、
実際に演奏をするとこうなるに違いない、
という確信のもとに、私は音楽家として
一緒に音楽をつくるわけね。
それで、外れることは、ないですね。
文は人なり、音は人なり、なんです。

ジャズなんかの場合、切ったか切られたか、
なんて場合もあります。
即興演奏の応酬の時はそういう楽しさがありますよ。
でも憲司とは、それに近いときもありましたが、
それよりももうちょっと建設的な関係でした。

        

憲司は、スタジオで音楽つくってるときは
いつもそうですけど、非常に、非常ぉーっに真剣ですし
眠くなるとか集中できなくなるとかってことで
ゴハン一切食べないし。
その間にわたしは3回くらいゴハン食べたりするんですけど
憲司は一切、食べないのね。
そのくらい、自分で自分を高めていくことに真剣でした。

私のアルバムでは、「ごはんができたよ」
「ただいま」「オーエスオーエス」などで
弾いてもらいましたが、どれも、いいです。
私のアルバムの憲司は、ぜんぶ、いいから。


【長男・大村真司さんの話】


大村真司 おおむら・しんじ

[大村の長男、ギタリスト]

1981年生まれの大村の長男、
プロ・ギタリスト志望。
事実上の初ステージとなった
トリビュート・コンサートでの演奏は
とにかく「立派」だった。



<大村憲司を聴くならこのCD>
●「KENJI SHOCK」はもちろんなんですが
僕は、「春がいっぱい」が、
すごい、好きなんですよ。
まず「KENJI SHOCK」は、やっぱ、
若者にもアピールできるかな、と。
なんか、こう、若い親父と、
若さがほとばしる親父と、
あとは、なんか、ちょっと大人になった親父。
その両方が、聴ける。
で、「春がいっぱい」は、
こういう説明でいいかどうか
分かんないですけど、
機嫌がいいときの、家の親父。
その「春がいっぱい」って、タイトル曲、
っていうのがあるんですけど、
それの演奏とか聴いてると、
俺の中での、すごい、その、
機嫌がいいときの親父、のイメージが、
すごく出てて。でかいんですよ、
すごい、それが。
●沼澤尚さんのソロアルバム
「WINGS OF TIME」の最後に入っている
「WINGS OF TIME」という曲。
この曲は、
親父の最後のレコーディングになったもので
本当にハダカの親父の音なんです。

ギターを教わったりしたこともないんですよ。
最初、俺がすごいちっちゃいとき、
多分、小学校の、低学年のとき、
ちっちゃいギターを買ってくれたんですよ。
んで、なんか、部屋に呼ばれて、
こうやって弾くんだよ、みたいな、やられたんですけど、
その頃、ぜんぜん興味なかったんです。
で、なんか、もう、つまんなそうにしてたら、
お前はもう、ダメだ、お前は才能が無い、って言われて。

逆切れですよ。自分の、なんか、うまく教えられないな、
みたいなの、あったと思うし、
俺があまりにも、興味なさそうな態度とったのも
あったと思うし、ま、怒っちゃったらしく、
あっち行け、とかなんか。そんな感じでしたね。

        

厳しい親父でした。

俺の中学、いわゆる不良みたいなの多くて、
やっぱ俺の友だちとかも、
そういうのになるんですよ。
したら、そういう環境とかも許さないんですよ。
もっと、ちゃんと、ましな奴、
探したらいいんじゃないか、とか。
そういう感じの厳しさ、っていうか。
俺、友達を家に連れてくるじゃないですか。
したらもう、平気で返しちゃうんですよ。
挨拶しなかった、とか。
玄関入って、こんにちはなり何なり、
言わないで入る奴とかいるんですよ。
そういう奴、見つけては、部屋入ってきて、
お前、誰の家だと思ってるんだよっ、って。
俺も中学でサッカー始めるぐらいまでは、
よくぶっ飛ばされてましたよ。
手、出ますよ。バンバン出てますよ。
でもその理由は、理不尽なこともあったんです。
結果的には、俺は悪くはなかった、っていうこともあって。
うちの母に、後々聞いたんですけど、
俺は社会の矛盾を教えてやってんだ、って言ってたらしい。
ムカつくでしょ?
でも、今までほんとに、親父ほど、
本気でムカついたりとか、
本気でなんか、こう、感情を出させるような人、
っていうのは、やっぱ、親父ぐらいしか、
いないんですよね。今まで、1人も。

でも、相当イヤな奴だった、っていうの、あるけど、
でもやっぱ、なんつうのかな?
間違ったことは、してないんすよね。俺の中でも。
ま、俺の親父だったっつうのも、あると思うんですけどね。
実際に、喧嘩とかしても、ムカついたりとかするんだけど、
絶対に尊敬の念だけは消えないんですよ。
その、尊敬してるってことは、絶対だし。
不思議な感じです。

        

ミュージシャンとしては、当時は意識してなかった。
今の方が、多分、してるんじゃないかな。
それは、俺がプロになるっていうことを
決めたというよりも、
それまでは、自分の親父として見てるから、
「ギタリストとしての親父」っていうのは、
親父に含まれてる、っていうか。
結局、家では、けっこう、喧嘩したりとかね、
普通に、ま、厳しい親父なんだけど、
喧嘩したりとかしても、必ず、その次の日とか、
ライブとかあると、手紙書いてくるんですよ。
で、母に渡させたりとか。
直接は渡さないんですよ、俺に。
部屋の前に置いてあったりとか。
「今日喧嘩したけど、明日ライブあるから、見に来いよ」
とか。俺もなんか、それを見ると、
素直に行ってたんです。
だから小学校ぐらいから、もう、ずっと、
ライブ観てました。
でもまあ、その後の打ち上げの焼き肉目当てだったりとか
しましたけど、その頃は。

        

俺がギター触り始めたのは、
小学校6年ぐらい、
ちゃんとやり始めたのは中学2年ぐらいから。
「オオムラケンジとは関係なく」っていうのでも
ないですけど、何て言えばいいのかなー?
その頃、俺、何か、当時メタルが好きだったんですよ。
やっぱり、日本でその頃いちばん俺んなかで
かっこ良かったのが、X(エックス)だったんですよ。
で、けっこうライブとか、小学校の頃から観に行ってて。
そいで、それを観て、始めたんですけど……
親父には、もう、ガンガンっすよね。
そんなもん、聴いてんじゃねえ、みたいな。
だから、その頃から、洋楽、X以外はもう、
邦楽聴かなかったんですよ。
ずっと洋楽聴いてて。メタル。とにかくもう。
ガンズとか、そういう、うるさいの聴いてたんですよ。
だからやっぱ、その、自然とギターの音とかも、
うるさいのになるじゃないですか。
そういうの聞きつけると、部屋来て、
うるせんだよって言う。そこで、喧嘩になるんですよ。
でも、中学1年ぐらいかな? ビデオ、ガンズのビデオ、
俺に買ってきてくれて。スラッシュは認める、とか言って。
その、ガンズのギタリストなんですけど。

        

こないだのライブがデビューになったんですが
実感、あんま無いっていうか……俺、何て言うんだろう、
それは、何て言えばいいのか、分からないけど、
みんな、先輩ミュージシャンっていう人たちだし、
誰ひとりとっても、やっぱり、個性あって、
日本を代表する音楽家だと思って。
けど、実際に一緒にいると、
なんか、そういうイメージじゃないんですよね。
なんか、お父さんとお母さん、みたいな感じで。
ま、そういわれて、なんか、たぶん、一文句ある人は、
いっぱいいると思うんですけど、
俺の中では、そういう感じだったんです。
緊張、っていうより、僕ん中では、
もう、失礼かもしんないけど、
やりやすい、の一言につきました。

やっぱり、俺の世界から、あそこに行ったからといって
別にその、緊張とか、そういうの、
正直言ってあんまり感じなかったんですけど、
やっぱり、トップのミュージシャンであるけど、
やっぱり、一人の音楽家じゃないすか?
僕もやっぱり、その、そういうとこに入って、
何が出来んのかな、っていうのを考えてました。
僕も、すごい楽しみだった、っていうのが、すごいあって。
リハーサルは定かでなかったんですけど、
ステージに立ったら、なんていうのかな、それこそ、
大船に乗った感じ、っていうか……
すごい、気持ちよかった、っていう、一言でしか。

僕はすごい、観客って、大切だと思うんですけど、
ステージに立ってる、その立つ瞬間みたいなのが、
そこで終わっちゃってる、みたいな。
それじゃ、いけないのかも知んないんだけど。
(音楽家が)みんな、答えてくれる、っていうか。
やっぱり、コミュニケーションの達人、っていうか。
もちろん、技術的にもトップっていうこともあると思うし、
それ以外のとこでも、音楽家としても、
やっぱ、トップなんだな、って、分かったっていうか。
まさにコミュニケーション。
結局、この俺なんかでも、分かってくれる、じゃないけど、
おー、すげーなー、って。

        

ああいうトリビュートに出ることに対する、
照れくささみたいなものは、もう、ゼロです。
親父のためでしょ。僕はそのために、
親父のために、ほんとに、出たわけだし。
その、どっかで見てるだろう親父に、
俺も、同じこと、やるから、みたいな。
なんか、そういう意志表示でもあるし、
喧嘩売った、でもあるし。

もし見てたら(生きていたら)……やってないでしょうね。
俺はもっと、アンダーグラウンドで、活躍してると
思うんですよ。うん。それはあると思うんですよ。
結局、親父がメインストリームっていうか、
そういう場所にいる限り、
俺は、ほんと、アンダーグラウンド……。
そこがやっぱね、違うんですよ。
奴は、もう、凄いですね。

        

いま、俺もギター弾いてるわけだけど、
親父は凄い、っていうよりも、
やっぱり昔から、
小学校の頃から聴いてるからかも知んないけど、
聴いたらとりあえず、懐かしい。
もう、懐かしいの一言っていうか。
凄いと思い出したら、多分、キリがないと思いますよ。
やっぱり、いっぱいいるギタリストの方々から比べたら、
僕の中で、やっぱり、特別だし。
技術的に、とかいうところは、
もう、超越してるんじゃないかなー、
とは思いますよ、聴いてて。
ほんとになんか、こう、心で弾いてるのかなー、みたいな。
弾いてるんだ、とは、まだ、俺には分かんない。
聴いてて、もう、まさにそういう……
ま、もちろん技術的には、かなり凄いと思うんですけども、
けど、それよりも、やっぱり、心に響く音を、
やっぱり出してくる、と思うんですよ。

2001-03-26-MON

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