「元気でいよう。」 ──これから、うたができること。── 宮沢和史さん×糸井重里対談
 
その6 見苦しく飛び込んで行く腕の中。
糸井 ぼくが、宮沢くんのラブソングが
聴きたいという背景には、
「みんながラブソングを作らなくなったな」
ということがあるんです。
歌謡曲の人しか作らなくなったな、と。
演歌だけは残っていたんだけれど、
その演歌さえも少なくなってきた。
じゃあ若い子が作ってるかっていうと
そんなこともなくて、
なんだか「勇気を出せば」みたいな歌が多い。
百人一首からなにから全部ラブソングなのに。
宮沢 ぼくは沖縄が大好きなんですけど、
沖縄民謡のラブソングって一流なんですよ。
品があって。琉歌(りゅうか)の流れがあるんで、
昔の言葉の美しさを踏まえてるし、
こんなにラブソングの多い民謡って
無いと思うんです。
そもそも民謡にラブソングって
ほとんど無いじゃないですか。

琉歌(りゅうか)は、奄美群島・沖縄諸島・宮古諸島・
八重山諸島に伝承される歌謡。
ウタとも言われ、奄美群島においては、
主に島唄と呼ばれる。
糸井 そうだよね、働く歌が多いよね。
宮沢 “今日の仕事は”とか、“船を作る”だとか。
けれども沖縄民謡には、
“あなたにはもう一生会えないのは分かってる”
“でも、今夜一夜限り、この月の下で結ばれたい”
というような歌があるんです。
糸井 そういうのを聴きたいよ‥‥。
宮沢 “月夜の下で、あなたに会えないのは分かってて、
 今夜もあなたを思ってこの歌を歌います”
──すごく素敵だなと。
糸井 素敵なことだね。
宮沢くん、歌ってよ、それを。
宮沢 そうですね! いまのいままで
ぼくは思いつきませんでしたけど。
糸井 聴いてただけだった?
宮沢 はい。その曲は聴いていただけでした。
今度歌ってみます。
糸井 それでもいいと思う。
あるいは自分で作ってもいいし。
この民謡と天秤ばかりにかけて
こっち側に乗っけられる自分の民謡はないかな?
って考えても、面白いよね。
アッコちゃん(矢野顕子さん)と作るときは
以前ふたりで作った
『自転車でおいで』(1987年)に
勝つ歌を作りたいね、
って言いながらスタートして、
負けてます(笑)。
宮沢 (笑)負けてますか。
糸井 負けます。やっぱり瞬間風速で
勝っちゃうことってありますからね。
だから、「しょうがないなー」
と思いながら作るんだけれども。

やっぱり民謡みたいなものっていうのは、
それだけの試合をする相手ですよね。
そしてあたらしい歌が、
ちゃんと東北のおじいさん、おばあさんを
ほろりとさせたら、冥利に尽きるよ。
宮沢 そうなんですよ。ほんとそうなんです。
沖縄民謡には、例えば屋嘉村っていう村には
収容所があったんですけれど、
そこに連れてかれるときに歌った歌とか、
その戦下での恋の歌とかがあって、
リアルなんですよね。
実際にいま糸井さんがおっしゃったような情感が
沖縄には“ある”んです。
糸井 あるだろうね。それで、残したのは恋の歌だった、
っていうのが、人間の持ってる強さであり、
弱さであり素敵さであり‥‥。
宮沢 ぼくはね、年も取っていくし、
デビューしてもう23年です。
『釣りに行こう』
(1989年アルバム『サイレンのおひさま』)から
もう23年ぐらい経ってるんですが、
途中から「ウッ」と思うわけですよ。
ラブソングを作るにしても、
「いや、30には30のラブソングがある」
「35には35の、40には40の」
「いやいや60には60のラブソングがあるよ」
っていう一つの真理。
これは正しいな、と思うんです。
もう一つは「いやいや、あの頃の、
十代の、あれが恋だから、
あれをいつまでも歌い続けるんだ」と。
そういう人もいますよね。
糸井 両方ありますね。
宮沢 両方あって、
「ぼくは前者かな」っていうふうに
思ってたんです。
でも同時に
「もう一つ違うところへ行きたいな」
っていうのがあって。
糸井 突破したいですよね。
60は60なりの、
分相応のお化粧の仕方があるっていうのは、
それは分かる。
だけど、「おばちゃん、どうしちゃったの
そんな間違った服着て」っていう恋の仕方は、
あると思うんです。
宮沢 あー!
糸井 シワだらけなのに、そんなことさえ忘れて、
見苦しく飛び込んで行く腕の中っていうのは、
現実の世界としてはおかしなことかもしれないけど、
心の世界としては全然見苦しくないですよね。
そこんところは、すごく興味があるなあ。
宮沢 恋っていうこと自体、
ものすごいときめくじゃないですか。
「月の下であなたを想っています」
というようなことを、
ただ歌にすればいいんだろうな、
っていうところまで来てるんですけど、
まだ具体的にそれが
形になってない自分が歯がゆかったり。
糸井 多少でも言葉を触ってると
すぐ思いますよね、
「これは陳腐な言葉だ」と。
自分が書いても、人が言っても。
でも、その言葉をどこにはめるかで
陳腐じゃなくなるわけです。
例えば子どもが初めて発した
「好き」っていう言葉があったときに、
それは陳腐だって言えないですよね。
置く場所によって
ただのガラス玉が宝石になるわけだし、
そのガラス玉をフルに最高に
かっこよく使ってやろうっていう
超絶技巧だってあるわけです。
そう考えると、
「つまんない言葉なんて、あんまりない」
っていうふうに、
ぼくは、どんどん自分を鍛えていきたい。
宮沢 それは面白いなあ。
(つづきます)
2012-05-28-MON
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