『ラブソングを唄わない男』
 怒髪天

 
2006年(平成18年)
 アルバム
 「トーキョー・ロンリー・サムライマン」
 収録曲

 男達は本当に
 恋をするのか?
(チョコ)
愛だとか恋だなんて
人前で歌えるかよ!
馬鹿言うなィ!
照れ隠しの裏に 嗚呼 男の純情

少女漫画を読み耽り、いつかは自分も
「ぶっきらぼうだけど本当は優しい男の子」と
素敵な恋をするものと信じていました。
恋にものすごく憧れていました。

でも、実際は自分の恋愛感情めいたものは
誰にも知られたくない!
友達はもちろん、特に親兄弟には絶対知られたくない!
だって恥ずかしいもん!! 告白なんて考えられない!
女の私がこうなのだから、
男はもっと恥ずかしいんじゃないか?
それ以前に、男達は本当に恋をするのか?
まわりの幼なじみ共はロマンスとは無縁に思えてなりません。
少女漫画と実際とは違います。

なので、テレビの中で男性歌手がラブソングを、
それも自分で作詞したラブソングを
カメラ目線で歌い上げる姿を見ると
不思議でしょうがなかったのです。
この人達は、自分の恋心を
不特定多数の人間に向けて発表して平気なんだ・・・。
彼らは私にとって、漫画の中の登場人物と同じくらい
別次元の生き物だと思っていました。

あれから何年も経ち三十路を越えて数年ですが、
あまり成長していません。
しかし相手に想いを伝えることの大切さは学びました。
ラブソングもグッと来ます。
幼なじみのバカ男子も結婚してお父さんになりました。
男も女も関係無く、みんな恋をするものなんですね。

この曲は自分の事でもあるようで、
男にもこうあってほしいようで・・・。
でもお互いこの調子なら進展しませんね。
どーしよ。
(チョコ)

新しいタイプの投稿をいただきました。
テーマは「照れ」ですよね、わかります。
わかりますが、
ほんとうに照れ屋さんなんですねぇ。
「それ以前に、男達は本当に恋をするのか?」
という一行に、
失礼ながら飲んでいたコーヒーを
吹きそうになりました。

想いを伝える。
基本的にものすごく照れくさいことだと、
ぼくは思っています。
そしてその照れをちゃんと感じる人でないと、
ぼくはあまり信用ができません。
そういう場面ですこしも照れないなんて‥‥ねえ。

でも、どんなに照れくさくても、
一度はそこを乗り越えなければならないわけで。
そこがまあ、なんというか、
恋愛のすばらしいところだなぁと思うのです。

周囲にいる、ごくごくふつうの夫婦やカップル。
むずしそうな顔をしたあのおじさんも、
ロマンチックとはほど遠いあの人も、
「ここぞ!」というときには、
照れをグイッと押し込めて、愛を伝えた‥‥。
なんか‥‥いいなぁ!!

ちょっと話がずれるんですけれどもね。
私の幼少期は歌謡曲黄金時代でした。
テレビでつぎつぎに歌われる歌の詞が
あまりにも色恋沙汰ばかりなので、
父に訊いたことがあるのです。
なぜ、愛とか恋とか、このおっさんたちは
目をうるませて歌っているのか。
「歌にしやすいからや」
と、父は答えていました。

世の中の全員のおっさんが
燃えあがるような恋をしていた(る)のか、
それはわかりません。
でも、私は思う。していた(る)。

だから流行るんやな、おとうちゃん。

で、本題。
この、照れ問題。
私はハッとしました。
もしかして、これはいまの30代の女性の
少なからず共通した気持ちなのでは‥‥?
なぜ、そうなったんだろう。
はて。もう少し考えたいと思います。
次へバトン。

歌謡曲が歌ってきた、
あるいは恋愛映画が描いてきた、
めくるめく恋や愛の世界は、
われらが父や母、おじやおばたちの過ごした
戦後ニッポンの青春を
キラキラと彩ってきたんだと思います。
やっぱりスターの唄う(演じる)
その世界は憧れでしかないということは
みんな、よーくわかってて、
でも、自分なりに参考にしながら、
あるいは、背中を押されながら、
時に、同化するくらいの力を借りて、
告白したり、傷ついたり、
立ち直ったりしてきたんじゃないかな。
そういう、かわいらしい努力を、
たぶん、してきたんじゃないかなあ。
なにせ、「恋愛結婚」っていう言葉があったんだもの。
基本はお見合い。
恋をして結ばれるためには、
恋をしたというそのことを、
ちゃんと決着させなきゃダメだった。
だから滑稽でも無様でも、
そんなのどうでもいいんだよね。
なりふりかまっちゃいられない。
そのとき、スタイルなんてどうでもいい。

怒髪天を聴いたことがなく、
この歌詞も初見でしたが、
「ラブソングを唄わない男」は、
じつはものすごく熱い男で、
まるでそんな、「歌謡曲全盛期」の
おとっつぁん、おっかさんの青春か!
とすら思えるような内容でした。
商店街のおじさんおばさんって
わりとこういうノリだったですよ。

さてスガノからバトンがまわってきた
「いまの30代の女性の照れ問題」。

たしかにまわりの30代女性を見ていると、
そう思わないでもないです。
みんな仕事が楽しくて、暮らしも充実。
オシャレで、一人でいることに不自由を感じてない。
まとまった休みには気の合った女友達と、
あるいは「ひとりで」ぽんと旅に出ちゃったりする、
そういう行動力や自由さもある。
でも「パートナーがほしい」と言うし
男を見る目も厳しかったりする。
といいつつ「老後はみんなで住もうよ」なんて
明るい諦念感覚で、冗談めかして相談したりしてる。

いいじゃないの、幸せならば。
というのは相良直美の歌謡曲。
や、そこじゃないな。
「それで成長していくのなら、
 それでいいと思う」
という感想にしておきます。
このバトンは永田さん受け取るのかな?

もちろん答えなんで出ませんけど、
バトンは受け取りますとも。
出口のない迷宮をそれと知りつつめぐるように
恋愛を真ん中において
真剣に語り合うという遊びは
そりゃぁ、たのしいものですから。

ええと。

ほんとは女性に限らず、ですが、
ぼくらの周囲にしばしば見受けられる
都心在住30代女性たちの
「口で言うほど恋愛の優先順位が
 高くない問題」について。

恋をするのはとっても恥ずかしいことですし、
それを相手に伝えるとなったら
照れも恥ずかしさも倍増します。
そりゃもう、桁違いです。
声はうわずるし、明らかにばればれな偶然を装うし、
冷静なふりしてめちゃめちゃ笑顔になったりするし、
あ、あいつ、絶対恋に落ちてるわ、って
周囲に完全に知られてるってわかってるのに
その延長上の行動を取らざるを得なかったりするし、
万に一つの接点をもとめてうろうろしたりするし、
もう、恥ずかしくて恥ずかしくてたまりません。

その恥ずかしさを突破するために
どうしたらいいのかといったら、これはもう、
「熱病に浮かされたような一時期」の
力を借りるほかないわけです。
その熱病の熱をある種の麻酔がわりにつかって
いろんな感覚を麻痺させたうえで、
ちぇすと! と行動するのが、
一般的な恋の伝達というものではないでしょうか。

逆にいえば、
「熱病に浮かされたような一時期」なくして、
照れと羞恥の固い固い結晶を砕くのは
容易なことではありません。
そういうことってありえるのかな、
と思えちゃうくらいです。
あ、でも、そういうことを
ある種の趣味のようにする人は平気なのかな。

話をもどすと、その、
「熱病に浮かされたような一時期」って
やっぱり十代と二十代に頻繁に訪れますから、
「熱病期」が過ぎてしまうと、
照れくさいことはより照れくさく、
恥ずかしいことはより恥ずかしくなるんでしょうね。

というような、そりゃそうだろ、という感じの
ありふれたことを延々と書いたあとで、
暴論をひとつ書かせていただきたいんですけど、
ぼくの周囲にいる人でいえば、
若い頃になんらかの表現活動をしてる人って、
恋愛において「熱病期」なしに
照れと恥ずかしさを乗り越えて、
恋を遂行させてますよ。
(結果が叶うにせよ、叶わないにせよ)
なぜというに理由は簡単で、
どのような規模であれ、表現活動って、
ものすごく恥ずかしいことだからです。

だから、投稿にもどると、
テレビのなかの男性歌手が
うっとりと恋を歌うのは
その人にとってきっと恥ずかしいことではない。
そしてそれを裏づけるように、
恋愛の歌をうたう人は
しばしば実生活でも恋愛の話題を
お茶の間に提供したりする。

で、さらに、ということでいうと、
この怒髪天の歌というのは、
いちばん恥ずかしいことを
やってるんじゃないかなあ。
だからこそ、かっこよさがある。

きっと、この投稿者の方も、
これを書いて投稿するのって、
けっこう恥ずかしかったはずですよ。
その意味でいえば、こういう表現の向こうに、
恋も、告白も、成就も、あるんじゃないかなぁ。

ああ、なんだか話が
おかしなところにたどり着きました。
でも、そういうふうに
思いも寄らぬ場所で意外な風景を見るのも
恋愛をめぐる雑談の醍醐味ですよね。

たいへん長くなり、失礼しました。
みなさんの、照れと恥ずかしさを超えた投稿、
お待ちしております。

 

2012-09-01-SAT

最新のページへ
感想をおくる ツイートする ほぼ日ホームへ
(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN