もくじ
第1回がんがん飲んじゃう蔵元。 2017-05-16-Tue
第2回ぜんぜん飲めない蔵元。 2017-05-16-Tue
第3回つくるより飲むことが好き(高嶋の巻) 2017-05-16-Tue
第4回嘘くさいことはしない(伴野の巻) 2017-05-16-Tue
第5回キャラが濃すぎる前のめりのお兄ちゃんと、いつも自信がない及び腰の伴野くん。 2017-05-16-Tue
第6回強いお兄ちゃんと及び腰の伴野くん。再び。 2017-05-16-Tue

主に週刊誌や月刊誌、書籍などで執筆するフリーランスのライターです。
あらゆる酒、酒場や料理などについて書いていますが、
一番の専門分野は日本酒で、仕事をして10年以上。全国の酒蔵を訪ねています。
連載をいくつか、『蔵を継ぐ』(双葉社)という著書もあります。
そして、「夜ごはんは米の酒」をモットーに、
ほぼ毎日、飲みつづけるくらい日本酒が大好きです。

がんがん飲んじゃう蔵元の酒と、</br>ぜんぜん飲めない蔵元の酒。

がんがん飲んじゃう蔵元の酒と、
ぜんぜん飲めない蔵元の酒。

担当・山内聖子(きよこ)

私はライターとして10年以上、
全国の日本酒の酒蔵を取材しつづけていますが、
つねづね知りたいと思っていることがありました。
それは、両極端にいる酒豪と下戸の蔵元が、
つくる人ではなく飲む人の立場になったときに何を語り、
自分の酒をどう思っているのか。
つくりたい日本酒はどんな味なのか、
ということです。
答えがあってないような
とりとめのないギモンかもしれないのですが、
大学の同級生で旧知の間柄だという、
高嶋一孝さんと伴野貴之さんに話を聞きました。
とりとめのないギモンからスタートした取材でしたが、
飲む人として語るふたりの言葉は、
家業や日本酒への想いにあふれ、
共感できることもたくさんありました。
なので、私の言葉をほとんど入れずに、
彼らの言葉をそのまま書きました。
聞き書きと対談をふくめた全6回です。



プロフィール
高嶋一孝さんのプロフィール
伴野貴之さんのプロフィール

第1回 がんがん飲んじゃう蔵元。

(はじめに)
高嶋酒造は、
雄大な富士山が間近に見える
静岡県の沼津市にあります。
ここは、富士山から
地下を通って流れてくる
やわらかくきれいな水がいつも湧いていて、
酒づくりに使うだけではなく、
訪れる人たちに無料で提供できるほど、
おいしい水に恵まれたところです。
酒蔵の横に設けた汲み場には、
毎日のように多くの人たちがやってくるそうです。
かつて周辺は宿場町として栄え、
十数軒もの酒蔵があったといいます。
しかし、日本酒の需要が下がりつづけ、
経営不振や後継ぎがいないなどの理由で酒蔵が減っていき、
いま残っているのは高嶋酒造だけになってしまいました。
沼津に唯一ある酒蔵として地元の人たちの期待を受け、
高嶋さんはお酒をつくりつづけています。

酒蔵と酒と僕と。

まあ、自分でも呆れるくらい
毎晩よく飲みますよ。
酒づくりは、
10月から翌年の4月くらいまでやるんですが、
それが終わったらひどいもんです。
沼津の飲み屋街を歩いたら、もうだめですね。
今日はサクッと飲んで帰ろうかなと思っても、
高校のときの後輩や飲み友達に必ず出くわして、
けっきょく飲み屋をハシゴ。で、また誰かに会って
さらにハシゴの繰り返しですよ。
日本酒だけではなく、
ビール、ワイン、焼酎、ウィスキーなど、
アルコールなら何でも飲みます。
僕の悪いクセで酔ってくると勢いがついて、
度数の強い甲類焼酎をあおったり、
レモン缶チューハイとビールを割ったりして
(大人のレモンスカッシュなんて呼んでます)
グルングルンになるまで飲んじゃいます。
朝帰りなんてしょっちゅうです。
きのうも明けがたの4時まで飲みました。
僕には娘が3人いるのですが、
そんなことをやっても
嫁さんに怒られたことは一度もないです。
娘たちが寝静まってから、
そーっと家を出たって
どこに行こうが誰と会おうが何もいわれない。
「生きててくれればいい」って数年前に
いわれたくらいですから。
うちの夫婦は以心伝心ですって
僕は自分に都合よくいっちゃうんだけど(笑)
ほんとにすごい嫁さんです。
親父(先代)は大酒飲みなので、
その影響が少しはあるかもしれませんね。
でも、小さい頃から両親は忙しくて、
家族団らんなんてほとんどなかったですし、
親父の晩酌の風景ってあまり記憶にないです。
ごはんを一緒に食べる機会も少なかったですしね。
うちは自由な家庭だったので、
それをいい口実に
高校生あたりからヤンチャやってました(笑)
時効だからいいますけど、
このときから酒は飲んでいましたよ。
日本酒は飲んでいたかもしれないですが、
あまりおぼえていないです。
そこらへんにあるのを
適当に飲んでいたような気がしています。
地元のクラブに通って音楽を聞いたりDJやったり、
かなり夜遊びしていましたね。

高校を卒業して伴野くんと出会った大学時代は、
さらに遊びに拍車がかかった感じかな。
そりゃひどかったですよ。
弟と住んでいた部屋に
友達を集めてマージャンやって酒飲んで。
もちろん、クラブに行ってDJもやりました。
日本酒づくりに興味を持つとか、
僕は長男でしたが酒蔵の後継者として、
なんてあまり考えていなかったですよ。
なぜか両親はなんにもいいませんでしたし。
でも、大学3年生のときに酒づくりの研修で行った、
僕の地元と同じ静岡の酒「開運」がきっかけで、
日本酒って奥が深くてすごいおもしろいって、
はじめて気がつきました。
音楽と同じように、
自分の思いを表現できる
魅力的な仕事なんじゃないかって。
さらに、当時の土井清幌社長(現・会長)に、
「酒蔵を継ぐことも酒造りも、
やりたくても簡単にできる商売じゃない。
誰にでもできる仕事じゃないんだから楽しめ」
そういわれた言葉に背中を押されて、
家業を継ぐことを決めました。
でも、実家に戻ってからは、
親父とたくさん衝突しましたし、
蓋を開けてみたら
莫大な借金があるうえに酒が売れず、
どうしていいかわからなくて
吐きそうになるくらい大変でした。
そんなこんなで、
自分のつくりたい味を形にするまでは
だいぶ時間がかかりましたが、
いまは好きな酒しかつくっていません。
酒蔵の仕事は天職だと
思えるようにまでなりました。
体力的に大変なことは多いですが、
僕にとって酒づくりは
とてもたのしい仕事です。

(つづきます)

第2回 ぜんぜん飲めない蔵元。