(はじめに)
高嶋酒造は、
雄大な富士山が間近に見える
静岡県の沼津市にあります。
ここは、富士山から
地下を通って流れてくる
やわらかくきれいな水がいつも湧いていて、
酒づくりに使うだけではなく、
訪れる人たちに無料で提供できるほど、
おいしい水に恵まれたところです。
酒蔵の横に設けた汲み場には、
毎日のように多くの人たちがやってくるそうです。
かつて周辺は宿場町として栄え、
十数軒もの酒蔵があったといいます。
しかし、日本酒の需要が下がりつづけ、
経営不振や後継ぎがいないなどの理由で酒蔵が減っていき、
いま残っているのは高嶋酒造だけになってしまいました。
沼津に唯一ある酒蔵として地元の人たちの期待を受け、
高嶋さんはお酒をつくりつづけています。
酒蔵と酒と僕と。
まあ、自分でも呆れるくらい
毎晩よく飲みますよ。
酒づくりは、
10月から翌年の4月くらいまでやるんですが、
それが終わったらひどいもんです。
沼津の飲み屋街を歩いたら、もうだめですね。
今日はサクッと飲んで帰ろうかなと思っても、
高校のときの後輩や飲み友達に必ず出くわして、
けっきょく飲み屋をハシゴ。で、また誰かに会って
さらにハシゴの繰り返しですよ。
日本酒だけではなく、
ビール、ワイン、焼酎、ウィスキーなど、
アルコールなら何でも飲みます。
僕の悪いクセで酔ってくると勢いがついて、
度数の強い甲類焼酎をあおったり、
レモン缶チューハイとビールを割ったりして
(大人のレモンスカッシュなんて呼んでます)
グルングルンになるまで飲んじゃいます。
朝帰りなんてしょっちゅうです。
きのうも明けがたの4時まで飲みました。
僕には娘が3人いるのですが、
そんなことをやっても
嫁さんに怒られたことは一度もないです。
娘たちが寝静まってから、
そーっと家を出たって
どこに行こうが誰と会おうが何もいわれない。
「生きててくれればいい」って数年前に
いわれたくらいですから。
うちの夫婦は以心伝心ですって
僕は自分に都合よくいっちゃうんだけど(笑)
ほんとにすごい嫁さんです。
親父(先代)は大酒飲みなので、
その影響が少しはあるかもしれませんね。
でも、小さい頃から両親は忙しくて、
家族団らんなんてほとんどなかったですし、
親父の晩酌の風景ってあまり記憶にないです。
ごはんを一緒に食べる機会も少なかったですしね。
うちは自由な家庭だったので、
それをいい口実に
高校生あたりからヤンチャやってました(笑)
時効だからいいますけど、
このときから酒は飲んでいましたよ。
日本酒は飲んでいたかもしれないですが、
あまりおぼえていないです。
そこらへんにあるのを
適当に飲んでいたような気がしています。
地元のクラブに通って音楽を聞いたりDJやったり、
かなり夜遊びしていましたね。
高校を卒業して伴野くんと出会った大学時代は、
さらに遊びに拍車がかかった感じかな。
そりゃひどかったですよ。
弟と住んでいた部屋に
友達を集めてマージャンやって酒飲んで。
もちろん、クラブに行ってDJもやりました。
日本酒づくりに興味を持つとか、
僕は長男でしたが酒蔵の後継者として、
なんてあまり考えていなかったですよ。
なぜか両親はなんにもいいませんでしたし。
でも、大学3年生のときに酒づくりの研修で行った、
僕の地元と同じ静岡の酒「開運」がきっかけで、
日本酒って奥が深くてすごいおもしろいって、
はじめて気がつきました。
音楽と同じように、
自分の思いを表現できる
魅力的な仕事なんじゃないかって。
さらに、当時の土井清幌社長(現・会長)に、
「酒蔵を継ぐことも酒造りも、
やりたくても簡単にできる商売じゃない。
誰にでもできる仕事じゃないんだから楽しめ」
そういわれた言葉に背中を押されて、
家業を継ぐことを決めました。
でも、実家に戻ってからは、
親父とたくさん衝突しましたし、
蓋を開けてみたら
莫大な借金があるうえに酒が売れず、
どうしていいかわからなくて
吐きそうになるくらい大変でした。
そんなこんなで、
自分のつくりたい味を形にするまでは
だいぶ時間がかかりましたが、
いまは好きな酒しかつくっていません。
酒蔵の仕事は天職だと
思えるようにまでなりました。
体力的に大変なことは多いですが、
僕にとって酒づくりは
とてもたのしい仕事です。
(つづきます)