5年前、大学の構内ポスターを見て、
演劇の公開オーディションがあることを知った。
演劇なんて『スイミー』と『大きなかぶ』くらいしか知らないや。
正直、役者の人って自信が爪の先きりきりまで詰まっていそうで怖い。
舞台にあがれるのは「選ばれた人」の特権でしょう。
わたしには遠い遠い世界のはなしだ。
数日後、偶然受けていた文化政策の講義の中で、
短い台本を使い、演技をやってみることになった。
寝っ転がって、雑誌をめくりながら決められた台詞を言う。
「ああ」とか「うん」とか「へえ」とか、てきとうな相づちを打つ。
「うん、いいですよ。力、うまく抜けてて」と先生が言う。
あれ、演技ってこんなものか。
テレビや映画で見ていた俳優にはなれないけれど、
いま、とても自然に人とはなしていた、ような気がする。
もしかすると、面と向かって自分のことばを使うより、ずっと自然に。
なぜこんなことが起きるんだろう。
どうしていままで、気がつかなかったんだろう。
演じてるわたしと普段のわたし、その違いは何なのか。
気になりだすと止まらない。
帰りにもう一度、ポスターの前をゆっくり通る。
今度は近付いて、連絡先を手帳に書いた。締め切りは2日後。
家に帰る前にA4の茶封筒を買う。写真も撮りにいかなくちゃ。
知りたいことを、いま知りたい。
いざ演劇を始めてみると、びっくりした。
どんどん、じぶんのことを嫌いになった。
演技をしているじぶんも、そうでないじぶんも、
全部ぜんぶ嫌いになった。
あのとき、自然に台詞を言えたのは、
台本がやさしかったからだ、と気づく。
分厚い台本を覚える。恥ずかしがらずに表現する。
はじめて経験するわたしには、見上げるほど高いハードルだ。
長台詞の多い役で、すぐにことばに詰まる。
あれ、なんだっけ、ほら、ああ、そうそう。
ちーちゃん、それ何度目よ。さっきも同じところで躓いたでしょ。
だって難しいんだもん、いままでやったことないんだもん。
じぶんに言い訳しながら、稽古場に反響する声を拾う。
稽古が進んでも台本が一向に手から離れない。不安なのだ。
きょうも怒られるのがわかってるから、
わたしのヘマで周りに迷惑がかかるとわかってるから、
歩いても歩いても稽古場に着かない。
遠回りしてわざと反対方面の電車に乗る。
みんなと顔を合わせたくない。
でも小心者なので、いつも通り10分前には劇場に着いてしまう。
そうして逃げられない自分がさらに嫌になる。
大きな声を出せない、じぶん。
走ったり飛んだり自由にできる、あの人。
すぐに台詞に詰まって噛んじゃう、じぶん。
表情豊かでまっすぐに目を見て微笑む、あの人。
答えず黙って立ち尽くし、舞台から降ろされる、じぶん。
こんなに恥をさらして、みっともない姿を見せて、失望されて。
もう何のために始めたんだか、とうにわからない。
稽古のことを考えると、脳みそが鈍く、息が浅くなる。
本番まで1ヶ月を切った日、舞台の袖に下げられ、
こう告げられた。
「代役を用意しています」
ちーちゃん、わたしたちにはお客さんがいるから。
お客さんの方がずっと大切だから。もう待てません。
ここで張り詰めていたものが、ぶつっと切れた。
もういいや、降ろされたと思ってやろう。
もうわたしは必要とされていないのだ。
「選ばれた人」でなくていい。
選ばれない人なりにできることを見つけよう。
そこから本番を迎えるまでの記憶があまりない。
それまで逃げ惑っていた分、
わたしは必死に向き合わなければならなかったから。
結局、代役ではなくわたしが舞台にあがりました。
緊張してはっきりとはなにも覚えていないけれど、
袖から見える舞台と客席の間は、深い淵のようだった。
油断するとすぐ落ちてしまいそうな、黒い淵。
きちんとじぶんをありのまま見せなければならない。
嘘をついてはいけなくて、大きく見せようとするとぼろが出る。
ただ、まっすぐ前を向いて、できることをする。
本番を終えて「自分らしくいられた」という、ちいさな自信がついた。
きっと、プロの俳優とは到底比べられないくらい下手だったけど、
不器用ながらに発することばが、
すらすらと淀みない台詞より、ずっと重みを持つことがあると知った。
演劇は、本人がそれまで生きてきた履歴を、
丁寧にすくって、大事にすることができる。
うまくできないことを、うまくできないままに表現すること。
恥ずかしいときは「恥ずかしいです」と伝えること。
できないことを自分らしさに変えて、きちんと相手に見せること。
オーディションみたいな華やかな競争に目が行きがちだけれど、
演劇のほんとうにおもしろいところは、
こんなふうに、不器用さが武器になるところだと思います。
演劇をまなぶと呼吸がしやすくなる、と言う人がいて、
うん、確かにその通りだなと思います。
ああ、わたしのままで大丈夫なんだ。
「なにか」にならなくていいんだ。
じぶんが感じたことを伝えてもいいんだ。
それをおもしろいと思ってもらえるように、
正直にちゃんと話せばいいんだ、と思えます。
役を演じることは別の人になりきることではなく、
じぶんの手足を伸ばして別の人に触れることらしいのです。
あらためて演劇をまなびはじめて、随分と生きやすくなりました。
そしてこれはどうやら、こうして文章を書くときも同じみたいで、
「わたし、全然だめで恥ずかしいけど、でも、勇気出して言うね」
という、だれかのおはなしが、いちばんぐっとくる。
ほぼ日には「ぐっとくる」文章がたくさんあります。
それはほぼ日が、不器用さ含めて受け止めてくれる場だからです。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
(おわります)