もくじ
第0回 2017-05-16-Tue

外にからだを開いた文章を書きたいです。ちょっと高い牛乳を買ってみる、終電で映画を観に行くなど、ささやかな挑戦の味が好き。

わたしが演劇をまなぶ、それらしくない理由

わたしが演劇をまなぶ、それらしくない理由

担当・曽根千智

この4月から、わたしは無隣館という演劇学校に通い、
演出の勉強をしています。

残念だけれど、わたしは顔がとびきり美しいわけでもないし、
身体が丈夫なわけでもない。これといった個性もない。
俳優になりたい人が星の数ほどいる中で、
俳優になる以外に、ふつうの人が「演劇をまなぶ」というのは、
どうやら、とてもへんてこに見えるみたい。

どうして演劇を勉強しているの、と聞かれたわたしが、
まなぶ理由をあらためて考えます。




5年前、大学の構内ポスターを見て、
演劇の公開オーディションがあることを知った。

演劇なんて『スイミー』と『大きなかぶ』くらいしか知らないや。
正直、役者の人って自信が爪の先きりきりまで詰まっていそうで怖い。
舞台にあがれるのは「選ばれた人」の特権でしょう。
わたしには遠い遠い世界のはなしだ。

数日後、偶然受けていた文化政策の講義の中で、
短い台本を使い、演技をやってみることになった。

寝っ転がって、雑誌をめくりながら決められた台詞を言う。
「ああ」とか「うん」とか「へえ」とか、てきとうな相づちを打つ。
「うん、いいですよ。力、うまく抜けてて」と先生が言う。

あれ、演技ってこんなものか。
テレビや映画で見ていた俳優にはなれないけれど、
いま、とても自然に人とはなしていた、ような気がする。

もしかすると、面と向かって自分のことばを使うより、ずっと自然に。
なぜこんなことが起きるんだろう。
どうしていままで、気がつかなかったんだろう。
演じてるわたしと普段のわたし、その違いは何なのか。

気になりだすと止まらない。
帰りにもう一度、ポスターの前をゆっくり通る。
今度は近付いて、連絡先を手帳に書いた。締め切りは2日後。
家に帰る前にA4の茶封筒を買う。写真も撮りにいかなくちゃ。
知りたいことを、いま知りたい。

いざ演劇を始めてみると、びっくりした。
どんどん、じぶんのことを嫌いになった。
演技をしているじぶんも、そうでないじぶんも、
全部ぜんぶ嫌いになった。

あのとき、自然に台詞を言えたのは、
台本がやさしかったからだ、と気づく。
分厚い台本を覚える。恥ずかしがらずに表現する。
はじめて経験するわたしには、見上げるほど高いハードルだ。

長台詞の多い役で、すぐにことばに詰まる。
あれ、なんだっけ、ほら、ああ、そうそう。
ちーちゃん、それ何度目よ。さっきも同じところで躓いたでしょ。

だって難しいんだもん、いままでやったことないんだもん。
じぶんに言い訳しながら、稽古場に反響する声を拾う。
稽古が進んでも台本が一向に手から離れない。不安なのだ。

きょうも怒られるのがわかってるから、
わたしのヘマで周りに迷惑がかかるとわかってるから、
歩いても歩いても稽古場に着かない。

遠回りしてわざと反対方面の電車に乗る。
みんなと顔を合わせたくない。
でも小心者なので、いつも通り10分前には劇場に着いてしまう。
そうして逃げられない自分がさらに嫌になる。

大きな声を出せない、じぶん。
走ったり飛んだり自由にできる、あの人。
すぐに台詞に詰まって噛んじゃう、じぶん。
表情豊かでまっすぐに目を見て微笑む、あの人。
答えず黙って立ち尽くし、舞台から降ろされる、じぶん。

こんなに恥をさらして、みっともない姿を見せて、失望されて。
もう何のために始めたんだか、とうにわからない。
稽古のことを考えると、脳みそが鈍く、息が浅くなる。

本番まで1ヶ月を切った日、舞台の袖に下げられ、
こう告げられた。
「代役を用意しています」
ちーちゃん、わたしたちにはお客さんがいるから。
お客さんの方がずっと大切だから。もう待てません。

ここで張り詰めていたものが、ぶつっと切れた。
もういいや、降ろされたと思ってやろう。
もうわたしは必要とされていないのだ。
「選ばれた人」でなくていい。
選ばれない人なりにできることを見つけよう。

そこから本番を迎えるまでの記憶があまりない。
それまで逃げ惑っていた分、
わたしは必死に向き合わなければならなかったから。

結局、代役ではなくわたしが舞台にあがりました。
緊張してはっきりとはなにも覚えていないけれど、
袖から見える舞台と客席の間は、深い淵のようだった。
油断するとすぐ落ちてしまいそうな、黒い淵。

きちんとじぶんをありのまま見せなければならない。
嘘をついてはいけなくて、大きく見せようとするとぼろが出る。
ただ、まっすぐ前を向いて、できることをする。

本番を終えて「自分らしくいられた」という、ちいさな自信がついた。
きっと、プロの俳優とは到底比べられないくらい下手だったけど、
不器用ながらに発することばが、
すらすらと淀みない台詞より、ずっと重みを持つことがあると知った。

演劇は、本人がそれまで生きてきた履歴を、
丁寧にすくって、大事にすることができる。
うまくできないことを、うまくできないままに表現すること。
恥ずかしいときは「恥ずかしいです」と伝えること。
できないことを自分らしさに変えて、きちんと相手に見せること。

オーディションみたいな華やかな競争に目が行きがちだけれど、
演劇のほんとうにおもしろいところは、
こんなふうに、不器用さが武器になるところだと思います。
演劇をまなぶと呼吸がしやすくなる、と言う人がいて、
うん、確かにその通りだなと思います。

ああ、わたしのままで大丈夫なんだ。
「なにか」にならなくていいんだ。
じぶんが感じたことを伝えてもいいんだ。
それをおもしろいと思ってもらえるように、
正直にちゃんと話せばいいんだ、と思えます。

役を演じることは別の人になりきることではなく、
じぶんの手足を伸ばして別の人に触れることらしいのです。

あらためて演劇をまなびはじめて、随分と生きやすくなりました。
そしてこれはどうやら、こうして文章を書くときも同じみたいで、
「わたし、全然だめで恥ずかしいけど、でも、勇気出して言うね」
という、だれかのおはなしが、いちばんぐっとくる。

ほぼ日には「ぐっとくる」文章がたくさんあります。
それはほぼ日が、不器用さ含めて受け止めてくれる場だからです。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

(おわります)