ほぼ日刊イトイ新聞

ほぼ日刊イトイ新聞 創刊20周年記念企画 糸井重里、 ほぼ日の20年を語る。 乗組員があれこれ質問しました。

おめでとうございます。ありがとうございます。
なんと‥‥ほぼ日刊イトイ新聞、創刊20周年です!
いやぁ、すごいものです。びっくりします。
1998年6月6日、ほぼ日が創刊してから20年です。
思えば、ほぼ日にも、いろんなことがありました。
お客さんも、コンテンツも、商品も、
そして、働く乗組員たちも、ずいぶん増えました。
この20年、どんなことがありましたっけ?
もともとのほぼ日って、どうでしたっけ?
節目のこのときに、せっかくだから、
振り返って語ってもらおうと思います。
糸井さん、この20年、どうでしたっけ?
乗組員の質問にこたえるかたちで、
糸井重里がこの20年を自由に語ります。
会場をおめでたい雰囲気で飾りつけましたが、
語られる内容は、けっこう真剣で、
乗組員たちもどんどん引き込まれていきました。

第4回
明るいビル時代のほぼ日 #1ほぼ日手帳が売れたときは‥‥?

──
さて、ほぼ日は、2001年に
はじめてオフィスを引っ越します。
麻布の鼠穴から魚籃坂にある「明るいビル」に。
ここでは2005年までの約4年間、
活動することになります。
糸井
はい。
──
ほぼ日が明るいビルにいたときの
商品やコンテンツ、イベント、
会社の出来事などをまとめてみると、
ざっと、こんな感じです。

ほぼ日手帳 やさしいタオル
ユラールのTシャツ Tー1
ほぼ日ブックス インターネット的
サルのおせっかい 
オトナ語の謎。言いまつがい(自社出版)
智慧の実を食べよう。300歳で300分
ほぼ日@六本木ヒルズ
「Say Hello! あのこによろしく。」
はじめての落語。はじめてのJAZZ。
電波少年的放送局の62時間
吉川町農業研修 初の経理募集 
バリに社員旅行

糸井
ああ、このころですね、明るいビルは。
──
はい。それでは、明るいビル時代の
ほぼ日について教えてください。
糸井
鼠穴で3年、ほぼ日を続けて、
じぶんたちがつくるものを
待ってるお客さんがいることがわかりました。
働く人の数も、かかわる人の数も増えてきた。
そうすると、単純に狭くなってきたんですね。
ひふみ投信の藤野英人さんが
「社内でスリッパに履き替えるような
会社は成長しない」なんて言ってましたけど、
まあ、やってることの規模と、
鼠穴という一軒家が合わなくなってきた。

それで「引っ越しましょう」ということになって、
明るいビルに引っ越したわけですけど‥‥
まぁ、不安はありましたね。
ぼくはまだまだお金のことをいまみたいに
俯瞰して考えられていませんでしたし、
建物も、一軒家とは真逆の、
もとは銀行が入っていたようなビルでしたから、
家賃がずっと払えるだろうかとか、
乗組員もぼくも人が変わっちゃうんじゃないかとか、
引っ越す前はとくに不安がありました。

でも、引っ越したら、まぁ、はしゃぎましたね。
「ふつうの会社みたいだ!」って(笑)。
一同
(笑)
糸井
そして、明るいビル時代のトピックを
振り返ってみるとよくわかるんですけど、
明らかに鼠穴のころとはフェイズが変わってますね。
とくに、対外的なフィールドが広がっている。
つまり、「ほぼ日と組んで何かやりたい」って
言ってくれる人たちが増えたんですよ。
まだまだ簡単なコラボレーションですけど、
よそと組んで、大勢を喜ばせるという
おもしろさを知ったころですよね。

創刊当初のほぼ日がよくやっていた、
ほかの媒体にあまり出ないような人を呼んで
しゃべってもらうというのは、
それはそれでユニークな企画なんですけど、
雑誌でいえばひとつの記事に過ぎないですよね。
そうじゃなくて、たとえば、
吉本隆明さんや谷川俊太郎さんといった
「長老」を集めて「智慧の実を食べよう。」
というイベントを企画したり、
あるいは、日清さんと一緒に
「サルのおせっかい」をつくったり、
当時は人気番組だった「電波少年」と組んだり。

どこと何をするにしても、
新しい人がよろこんでくれるぞという
「自分たちの市場」がはっきり見えはじめてきた。
そういう時代だったと思います。

それともうひとつは、
ただのおもしろい企画じゃなくて、
「転がる企画」がつくれるようになってきた。
企画が「転がる」というのは、
ひとつの企画がいろんな方向に広がって、
自分たちが予想もしなかったような
おもしろさにつながっていくようなときに
ぼくがつかう表現なんですけど、
このころすでに、ほぼ日という場が
ただのウェブサイトじゃないということの芽が
吹き出しはじめてますよね。
だから、ひとつひとつ、転がる企画になってる。

やっぱり、ぼくの頭の中が、
鼠穴とははっきり切り替わっているということが、
こうして、時代を区切ってみていくとわかりますね。
いや、おもしろいです。

『Say Hello! あのこによろしく。』なんかは、
ぼくが犬を飼いはじめたころのコンテンツで、
もう、自分や人がどうよろこぶのか、
社会とどういうふうに接点を持てるかということの
確信に満ちていますよね。
だから、「自分の中に大衆がいる」という実感が
すごく育った時期なんだろうと思います。

その意味では、この明るいビルの時代が、
草創期を除いては、ほぼ日のコアな部分が
つくられたという時期だと思いますね。

このころはもうちゃんと稼いで、
いちおう食えているといえますし、
新商品もすごく順調に増えていた時期ですから、
やっぱり余裕があるんですよね。
『オトナ語の謎。』なんて、
はじめて自分たちで出版をしたんですけど、
7万5千部売れましたからね。
もちろん、運とか、時代の流れもありましたけど、
ぼくらがやることを、人が見ててくれるぞ、
という自信がついた時期だったと思います。
じゃあ、なにか、質問があれば。
勝見
お話、ありがとうございます。
このへんから物販のビジネスモデルが
確立されてきたというか、商品が増えてきていて、
やはり、「ほぼ日手帳」の登場が
会社としては大きいなあと思うんですけど、
当時のリアルタイムな思いとしては、
「ほぼ日手帳」が、のちのち会社を支えるような
大きな柱になっていくという予感みたいなものは、
発売当時から、あったんでしょうか?
糸井
うーん、まあ、こういう場だから、
そのまんまのことを言いますけど、
「ほぼ日手帳」がたくさん売れたとき、
のちのちも会社を支えるとか、
そういうことは何も思ってなかったよ(笑)。
ただ、うれしかった。
あ、これで食えるかもな、うれしいな、
というしみじみした気持ちです。
こういうことを決算発表の場で言うと
社長としてどうなのかと
思われるかもしれないんだけど、
「売れてよかったな」以外のことは、
なーんにも考えてませんでしたよ。
一同
(笑)
糸井
ただ、創刊当初からね、
ほぼ日がきちんと食えていけるようになったら、
みんなでバリに行こうぜ、
っていう約束をしていたんで、
明るいビルの終わりのころかな?
それが実現できたのは、うれしかったですねぇ。

▲2005年6月、念願のバリ旅行。総勢27名でした。

勝見
さっきの「転がる」という話で言うと、
手帳というのは毎年出せるものだから、
そういう意味では、
今後も売り続けることができる、
発展性がある商品だなというふうなことは‥‥。
糸井
ぜんぜん、思ってなかったよ。
まあ、毎年出せることを理解していたとしても、
実際に、そのとき思っていたのは、
「よしよし、いいぞいいぞ」くらいのことです。
一同
(笑)
糸井
さっきも言いましたけど、
やっぱり、使ってくれる人がいる、
待っていてくれる、よろこんでくれるのがわかる、
ということがすべてなんですよ。
とくに「ほぼ日手帳」に関しては、
つくったぼくらがわかっていたというよりも、
つかっている人たちに
教えてもらったことばかりで。
買った人がどんどん友だちに紹介したりして、
広めてくれているわけだから、
ぼくらがビジネスの可能性を感じる以上に、
もう実際につかっている人たちが
「こころでわかってる」という感じなんです。
そういう商品が、自分たちにとっての
稼ぎ頭である「ほぼ日手帳」だったというのは、
ほんとに運がよかったんでしょうね。
勝見
ありがとうございました。
やえ
ほぼ日手帳について、
私も質問していいでしょうか。
私はこの明るいビル時代の
最後のほうで入社してるんですけど、
自分が入る少し前、ユーザーだったころ、
「ほぼ日手帳」を買ったら、
そのあと、本体の背割れが
まれに起きる可能性があるので、
補強したものを送ります、ということで、
全員にもう1冊送られてきたことがあったんです。
それが、もう、びっくりしてしまって。
糸井
ああ(笑)。
やえ
本体が壊れた人の返品、交換に応じるのではなく、
買った人全員にもう1冊送るというのが、
考えられないというか、
こんな小さな会社なのに大丈夫なのかな、と。
一同
(笑)
やえ
お客さんとして会社の心配をしつつ、
すごい会社だなと思って、
その誠実さに胸を打たれて、
じつは個人的にも、転職するときの、
一つの大きな理由だったりしたんですけど、
あのときの英断について教えてもらえますか。
糸井
ええとね、まず、英断ではないんだよ。
経緯を説明すると、本体をつくってくれたのが
いま取引しているような大きな出版社ではなくて、
そこの担当者の人が、販売の後、すごく気軽に、
「あれ、割れるかもしれないですねぇ」
なんて言ったんです。それで、「‥‥え?」と。
一同
(笑)
糸井
それでもう1冊送ることにしたんだけど、
英断というよりは、「やろうか」という感じで。
なにしろ、いまよりも
ぜんぜん規模が少ないですからね。
といっても1万部くらいはあったのかな?
もちろん、少なくはない金額でしたけど、
まずひとつは、関係する会社があることなので、
ぼくらだけが全額を負担したのでは
なかったということ。
やえ
ああ、はい。
糸井
それから、いまでもぼくはそうなんだけど、
総額でいくら損するのか、ということが
きちんとわかっていれば、
判断はそんなに難しくないんですよ。
あと、お金の管理にはあまり慣れていないけど、
広告をやっているときに、
いちおう、大きなお金が動くことを、
いろいろと体験していましたからね。

そういうこともあって、
全体の金額が把握できて、
やるべきか、やるべきじゃないかというと、
これはやったほうがいいな、と。
それは、なんだろうな、わりと自然な判断で、
損するお金がこれだけあるけど、
その分、こんなに助かるんだったら、
それはやったたほうがいいという判断は、
たぶんいまでもぼくはけっこうしてますよ。
だから、「その損はいいよ」っていうのは、
そんなに英断でもなかったと思うんです。
まあ、ぞくぞくはしますよ、やっぱり。
潰れちゃうのは、いやだからね(笑)。
やえ
この時代、糸井さんはよく
「板子一枚下は地獄」ということを言ってて。
順調に船が進んでいても、
すぐ下に海があって、危ないんだぞ、と。
糸井
そうそう、言ってたね。
いまも同じ気持ちですよ。
やえ
私は大きい会社から転職してきたので、
その感覚がじつは当時はわかってなくて、
入って3年目くらいでようやく、
「ああ、自分でなんとかしないと」という
危機感のようなものがやっと芽生えてきました。
糸井
うちに限らず、中小企業はみんなそうだよ。
会社がなくなる可能性がいつもあるわけだから。
その意味では、いまもそうです。
やえ
はい。
糸井
ちなみに、いまのエピソードの続きを言うと、
けっきょく手帳本体の
背割れは起きなかったんです。
つまり、買った人の手には、
2冊の「ほぼ日手帳」が残ることになった。
で、どうしたかというと、
ほとんどの人がそれを知り合いにあげたんです。
計らずも、それは、約1万部の
「ほぼ日手帳」のサンプルになって広がって、
ユーザーの数をすごく増やすことに
つながったんじゃないかといわれてます。

(いろいろありましたねぇ。続きます!)

2018-06-09-SAT