天才学級のきざなやつ? 「13の顔」を持っていた、伊丹十三さんのこと。

第6回 テレビ的ってナンだ?
糸井 いろいろ思い返すと、伊丹さんって、
「これだけやれば
 オレを雇った意味があるだろう?」
‥‥ってところまで
徹底的につきつめるじゃないですか、仕事を。
浦谷 そうそう、そうだね。
糸井 たとえば、伊丹さんと、
ドキュメンタリーを撮りに行くとしますよね。

で、そのとき、
「このままじゃ、おもしろくないよな」とか、
「想定していたものとちがった」とか
七転八倒して、
「じゃあ結局、何がしたいの?」って聞かれたら、
「自分の好奇心を満たすこと」と、
「お客さんへサービス」だったと思うんです。

伊丹さんが、やりたかったことの核って。

浦谷 そうだね。
糸井 お金をもらって雇われた以上の何かを、
全力で返そう‥‥
みたいなところを、感じるんですよ。

それは、
つくり手のとしての「すごみ」ですよね。
浦谷 ああ‥‥。
糸井 つまり、どんなに成功したとしても
伊丹さんのこころには
つねに「貧乏人」が住んでたというか‥‥。
浦谷 うん、うん。
糸井 そういう言いかたもヘンですけどね。

なにか「ありがとうございます」って感じが
するんです、伊丹さんの仕事からは。
浦谷 なるほどね。
糸井 浦谷さんは、そこで絞られたんだもんなぁ。
浦谷 さっきも言ったけど、ぼく、
1971年にテレビマンユニオンに入ってるの。

で、いま思うと、
60年代の後半から75年ぐらいまでの間しか
成立しないような
テレビ製作の現場が、あったなあって思う。
糸井 そうですか。
浦谷 それは、ウチの会社の理念とも重なってくるけど、
伊丹さん的なやりかたでもあったと思うんだ。

つまり、ひとりひとり、
自立したクリエイターが集まって、一斉に走る。
お互いにお互いを信用して。

それだけで成り立っちゃうような、そういう現場。

糸井 うん、うん。
浦谷 ぼくは、そういう時代にしかできなかったことを
ずいぶん、教えてもらったなと思いますね。
糸井 ほー‥‥。
浦谷 だから、さっき話した
「お前のあたまだけで理解できててもダメ。
 見方の入り口をきちんと付けなきゃ
 見ている人には、伝わらない」っていうのは
もう、身体で覚えさせてもらったよね。
糸井 そうなんでしょうね。
浦谷 ぼくが『タンポポ』のメイキングをやったあと、
若き日の周防くん(映画監督・周防正行さん)がさ、
『マルサの女』のメイキングをつくったんだ。

「マルサの女をマルサする」ってやつ。
糸井 ええ、ええ。
浦谷 で、かつてぼくが伊丹さんに絞られたように、
こんどは、周防くんが絞られたの。

「入り口をつけなきゃダメだ!」って。
‥‥伊丹さんとぼくに(笑)。
糸井 ははー‥‥。
浦谷 その、伊丹流ドキュメンタリーの手法って
「テレビ的」なやりかたですから、
たしかに、
映画人の周防くんには、わかってなかった。
糸井 そうですか。
浦谷 だってさ、ぼくと伊丹さんは
すごく肯定的、良い意味で「テレビ的」という言葉を
使って話すんだけど、
周防くんたち映画人にとっては、真逆の意味だから。
糸井 文化がちがったんですね。
浦谷 とにかく、なんかのインタビューでね、
周防くんが語ってるんだよね。

伊丹さんとぼくに、
いかに修行させられたかについて(笑)。

周防 (中略)終わって編集して見せたら、
全否定されたわけ。
‥‥伊丹さんとプロデューサーの浦谷さんに。
周防 浦谷さんていうテレビの人とやって、
"テレビ的である”っていうのはどういうことか、
教えてもらったんです。
要するにね、
テレビって面白いことがあったときに、
それをいきなり見せちゃだめなんですよ。
(中略)
ここ見せたいっていう面白いことがあったら、
先に言えって。
「いいですか、
 山崎努さんがこんなことをしますよ。
 とても面白いですよ。
 いいですか、見てください」って見せる。
それで「ね、面白かったでしょ」って念を押す。
   これがテレビだって言われて。
  ーーー武藤起一著『映画愛』(大栄出版)p172-173
糸井 周防さんは、伊丹さんのご指名だったんですか?
浦谷 ぼくが『タンポポ』のメイキングをやった直後、
TBSで『世界ふしぎ発見!』がはじまって。
糸井 ああ、浦谷さんがプロデューサーやってた‥‥。
浦谷 だから、ぼくが『マルサの女』の撮影現場に
行けなくなっちゃったのが、そもそもで。
糸井 なるほど、なるほど。
浦谷 じゃあ、誰に頼んだらいいだろうって、
伊丹さんとぼくで、考えたんです。
糸井 へぇ。
浦谷 「おまえが来れないなら、誰がいい?」って。

そのときは
「じゃ、次までに考えときますか」って言って
わかれたんです。

で、次に会ったときに
「周防くんは、どうでしょう?」って訊いたら
伊丹さんも「そう思ってた」って。
糸井 一致したんだ。
浦谷 当時の周防くんは、「小津安二郎」の方法論で
ポルノ映画(『変態家族 兄貴の嫁さん』)を
撮ってたりしてさ、
あの発想はいいよなーって、ふたりで一致して。
糸井 なるほど。
浦谷 まぁ、そんなわけで
周防くんがやることになったんだけど‥‥。

彼のつくった『マルサの女』のメイキングを
テレビマンユニオンの編集室で観ながら、
伊丹さんと、ああでもない、こうでもないって
いろいろと、ダメ出しが出まして(笑)。
糸井 ええ、ええ。
浦谷 でね、いまでもよーく覚えてるんだけど、
1カ所、伊丹さんにもぼくにも
まったくおもしろいと思えない部分があったの。
「こんなの、ふつうカットだよな」って。

で、周防くんにね、その場面に
どういう意図があるのか、説明してもらった。
糸井 ほう。
浦谷 そしたら周防くんがね、
実況中継をはじめたんですよ、その映像の。

で、そのようすをしばらく眺めてたら、
周防くんが
何をおもしろがってたかがわかったの。
糸井 はい、はい。
浦谷 具体的にいうと、映画を撮影するときって
クレーンなんかを上下させたり、
スタッフが、動き回ったりするでしょう?

それを実況中継してるんです、周防くんが。

「さあ、いま、俳優のだれそれが
 こっちへ走りましたっ!
 それを受けて、カメラはこっちへ移動!」
みたいなことを、ナレーションしはじめたの。

糸井 スポーツ中継に近い感じ?
浦谷 そうそう、それが、おもしろかったんです。

つまり、そこでようやく、
「この映像は、
 こうやっておもしろがればいいのか」ってことが、
ぼくら見ている側にわかったんです。
糸井 ああ、伊丹さんの「入り口」の話だ。
浦谷 なんだ、おもしろいじゃん‥‥って。
それだったら、オッケーだよなって。
糸井 つまり、その伊丹さんの「入り口」論は、
その後の周防監督にとっても、
すごく重要なものになってるわけですね。
浦谷 うん。そういう修行を、
こんどは、周防くんが積むことになったの。
糸井 結果、ずいぶん育っちゃったわけですね(笑)。
  <つづきます>


05伊丹映画のメイキング作品。

映画「お葬式」の大ヒットのあと、伊丹十三さんは、
第二作目の「タンポポ」(1985年)から、
映画の撮影の様子を記録する
メイキング映像を作り始めます。


DVD「タンポポ撮影日記」

この「タンポポ撮影日記」は、
伊丹さんの仕事仲間であるテレビマンユニオンの
浦谷さんが作成されました。
テレビ的に作ることを大切にされたそうです。

そしてその次の「マルサの女」(1987年)の時、
ポルノ映画「変態家族 兄貴の嫁さん」(1984年)が
評判の高かった、
若き監督・周防正行さんに声がかかります。

このメイキング映像
「マルサの女をマルサする」では、
徹底的に伊丹さんにダメ出しをもらい、
周防さんは「もう二度とやりたくない」と
思ったそうです。

しかし周防さんはその後、
「マルサの女2」(1988年)のメイキング、
「マルサの女2をマルサする」も制作します。

DVD
「マルサの女をマルサする」
DVD
「マルサの女2をマルサする」

そして、いよいよというように、自分の映画
「ファンシイダンス」(1989年)を作り始めます。
その後の活躍はご存知のとおり、
「Shall we ダンス?」「それでもボクはやってない」と
日本映画史に残る名作を監督されています。

この他のメイキング作品に、
「『あげまん』かわいい女の演出術」、
「ミンボーなんて怖くない」、「大病人の大現場」、
があり、ほかに映像作品以外では、立木義浩さんの写真集
「伊丹十三映画の舞台裏—大病人の大現場」(集英社)や、
伊丹さんが自らの撮影日記を出版した
『「お葬式」日記』、『「マルサの女」日記』、
『「大病人」日記』(以上、文藝春秋)があります。

写真集
「伊丹十三映画の舞台裏
 —大病人の大現場」
書籍
『「大病人」日記』、
『「マルサの女」日記』、
『「お葬式」日記』

周防さんによると、
じつは「お葬式」にもメイキングの映像があり、
それを見ながら伊丹さんに撮影時の楽しいお話を
いろいろうかがったそうです。

参考:「伊丹十三の映画」(新潮社)
   DVD「13の顔を持つ男」ほか。


2009-06-15-MON


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