細川 私のところは父のほうの
細川の系統もそうなんですが、
母のほうの系統
まったく形式をかまわない家でね。
私の祖母は一応元総理の
夫人だったわけですね。
千代子って言うんですけど、
その千代子夫人なんかは
いつももんぺ姿で百姓してた。
私が行ってもいつももんぺをはいていました。
そして、湯河原の町に出て、
畑にやる肥やしにと、
当時たくさん落ちていた馬糞を
しょっちゅう拾いに行ってました。
それで、近くのお菓子屋さんの
おばあさんなんか、まだ今でも
90いくつで元気でいるんですけど、
祖母のことを当時
「馬糞のご令室」と言ってましたと
言うんですよね。
糸井 ああ、見事なあだ名ですね(笑)。
細川 まったくそういうことにこだわらない人で、
私一緒に一遍、ゴルフに
連れていかれたことがあるんです。
湯河原カンツリー倶楽部という起伏のきつい
ゴルフ場なんですが、
そこへ行くとき、驚いたことに
着物を着ていったわけです。
それで着物をたすき掛けしまして、
もっと驚いたのは前の日に草履に
トンカチ、トンカチ、釘を打ってるんですね。
スパイクがわりに、釘打ちの草履で行ったわけです。
糸井 スパイクなんですか?
細川 それがスパイクで。
糸井 見事ですね。
細川 全然そういうことにこだわらない人なんですよ。
そんな格好していったら、みなびっくりしますよね。
今みたいにゴルフが勿論盛んじゃない頃ですけども、
それにしても。
人がなんと言おうと。
糸井 すごいですね!
細川 ちょっと驚きます。
糸井 「人がなんと言おうと」の血は
やっぱり綿々と続いてますね。
「馬糞のご令室」はすごいなぁ‥‥。
細川 なかなかやっぱり見事なものでしたね。
糸井 そうですね。
きっとわざとらしくないからこそ
続いてるわけですよね。
細川 ほんとに気さくな人で、
あっけらかんとして、陽性で、
みんなから親しまれていました。
ちょっとそういう出の奥様方だと
やっぱりちょっとお高く
とまってるようなところが
普通だとありがちなんですけども、
全然そういうところがなかったですね。
糸井 そういうとっても平(へい)で開いた方が、
お高くとまった人とのお付き合いも
ある程度必要な場所に
いらっしゃるわけですよね。
そこはどうしてたんでしょうか。
細川 どうしてたんでしょうかね。
私、吉田茂さんのところに
何回か連れていってもらったんですけども、
もうほんとに両方ともあっさりしたものでね。
糸井 両方ともですか。
細川 ええ。吉田さんもほんとに
あっけらかんとして、二人とも。
いいボーイフレンド、
いいガールフレンド。
糸井 いいですねぇ‥‥。
細川 形式的な会議なんかにも
殆ど出なかったんじゃないかなと思います。
祖母の場合には。
糸井 そういうおばあさんを見ていた
子供だったというのは、
とても影響が大きいですよね。
細川 それは大きいと思います。
糸井 「ご令室」という言葉は
今でも残ってるわけですから、
世間はあの人はあれだな、と思いながら
おばあさんは馬糞を拾っているわけですよね。
それは拾っている自分と
見られてるのを見てる自分が
もう一人いないと成り立たないですよね。
細川 そういうところはあるかもしれませんね。
糸井 恐らくですけど、
馬糞が必要なら
きっと細川さんも拾いますよね。
細川 ええ。そうかもしれませんね。
糸井 その自信はおありでしょう、きっと。
細川 それはありますね。
なんというか自然体でいるということについては。
祖母もそうですし、
亡くなった母もそうだったらしいですけど、
世間が想像するのと違って、
そういう家なんでしょうかね。
糸井 威厳を見せる、みたいな場面は‥‥。
細川 威厳なんていうものとは
ほど遠いところですね。
糸井 それは男もそうですか?
細川 いや、祖父(近衛文麿)のことは私、
全然覚えてないのでわかりません。
昭和20年に亡くなりましたのでね。
それからこっちの祖父(細川護立)は
やっぱりちょっとまたそれとは違いまして、
ほんとに見るからに殿様っていう感じで、
実際みんなからそう言われても、
それが当たり前みたいな、
そういう雰囲気の人でしたから。
でもこの人はこの人で、
殿様ではありましたけども、
とても洒脱な人で、
なかなか茶目っ気のある人で、
禅をだいぶやってた人だものですからね。
そういう意味ではなかなか
面白い話がずいぶんある。
糸井 僕は自分のことをよく
「町人」という言い方をして、
お殿さんのまったく真逆の場所に
立っていると思ってるんです。
どう言ったらいいでしょうか、
町人のほうが数が多いわけで、
町人がみんなが幸せに生きてるというのは
お殿様にとってもいいことだろうという
気持ちがあるんです。
町人には何かをああやってとっといたり、
大事にしたりするという余裕がないんですね。
ですから展覧会を見て、
「殿様がいるって、いいことだなぁ」
って思ったんです。
つまり、あれだけのものを集めたり、
しっかりと保存しておいたりするというのは、
体系付けることも大事だし、
大事なものというのは何かというものを
見極めることも必要だし、
たくさんの人手も必要だし、
場所も必要だし。
長屋の片隅にあのコレクションは
置けないわけで。
その意味では大衆とか町人というものだけが、
すべてになっちゃったときに
失われるものというのが、
こういうふうにあったんだと思ったら、
「ああ、人には役割があるんだなぁ」と。

とくに護立さんですか、
そういう人がいなかったら
これ、どうなってたんだろうという
気持ちになって。
上の人の役割って
あるんだなと思ったんですよ。
細川 そうですね。
わりと自分のところの家具調度で
残ってるものが多くて、
それがたまたま近世になってから、
本当に僥倖に恵まれて、
戦災で焼けなかっただけの話なんですね。

祖父がときどき冗談を
お客様に言ってたのを思い出すんですが、
ある時、お客さんに
「この間、火事になってね」と言うものだから、
お客さんがびっくりされて、
「それはまったく存じませんで、
 いつそんな火事がございましたか」
と言ったら、
「いや、それは応仁の乱のときだがね」
と、そんな冗談を。
江戸の享保の大火のときに、
利休さんの印可相伝と言ってもらった
茶杓が焼けたりしてますけど、
あとは殆ど焼けてないんですね。
熊本の蔵なんかも、
屋敷は焼夷弾を受けて全焼したんですが、
その横に並んでた蔵は全部焼け残ったんですね。
それでかなりのものが残ってきたとか。

ここも、すぐそこに、
日本のカトリック教会の
大本山のカテドラルがあるために、
先の大戦では、この一帯は爆撃されなかったんですね。
ですからここがそのまま残ったんです。
そういうラッキー続きだものですから、
みんなそれぞれに残していく。
努力は当然したでしょうけども、
幸いなことに残ってきたんですね。
糸井 しかも足されていって蓄積していきますよね。
ずっと後年、博物学に興味のある
細川重賢という殿様がいらっしゃってという、
あのあたりだって明らかに
今までの長い歴史に匹敵するぐらいの
何か情熱──、明らかに情熱ですよね。
細川 はい。重賢という人は
非常に博物学に関心のあった人で、
自分が体が弱かったからということも
あるんでしょうけども、
熊本に薬草園をつくったり。
それから動植物のいろいろな写生なんかも
ずいぶん細かくしていますね。

代々、わりに記録を大事にしろということは
言ってましてね。
それは始祖の、頼有(よりあり)という人が
そういうことを言ってまして。
国立博物館に「錦旗」(にしきのはた)という
頼有が後小松天皇から拝領したという
現存する唯一の錦の御旗と言われているものが
出ていますけど、
そういうものが伝わってきたというのも
やっぱりそういうことなんでしょう。

錦旗 細川頼有拝領
南北朝時代 明徳2年(1391年)拝領
東京永青文庫蔵

熊本の蔵にも膨大な記録が残ってまして、
5万点の古文書なんですね。
床からこのくらい(1mほど)
積んだもので1点、
というようなものがたくさんありますので、
枚数にすると
何百万枚になるのか完全に読むにはまだ
何十年もかかるでしょう。
最近、信長の手紙なんかも
出てきましたけども、
そういうものを見ると
本当に面白い記録がけっこうあるんですね。
糸井 いわゆるなんでもマスの時代になっていって、
「大衆が主役だし」というのは確かなんですけど、
なんかしら私がやりますという人達が
上にいたんだという思いがあるんです。
こういうものを集めるにしても、
国がするんだと言ったって、
国ってずいぶん無責任な体系ですから。
お上だの上だのという言葉は
庶民からするとずいぶん
「どうせああいう人達が‥‥」
と思ってたのが
「ああ、仕事があるんだ、上って」と、
それが今回の展覧会での、
僕の一番の感動だったんです。
いい加減にしてて
その辺にほったらかしておくんだ、
という人がいても、
別におかしくはないんですけど、
こうして誰かがやってくれて
はじめて見られるんだなと思って。
細川 とくに文化的なものは
そうなのかもしれませんね。
史料とか記録とかと言ったようなものは。
糸井 物語的にはご縁のあった「白樺」の人達、
武者小路実篤の家に
国宝級の骨董がごろんと落ちてた、
みたいな話は、なかなか面白いんですけど、
それがそのまま割られても
あまりいいことじゃない。
取っておくということは、
それを役目にしてた人がいたんだな、
というのに、感動しました。

(つづきます)


2010-05-21-FRI