SAITO
もってけドロボー!
斉藤由多加の「頭のなか」。

僕だけが知らなかったこと


周囲でいろいろな事件があった末に、
「僕は変人である」という自己認識が
ここ2週間で急激に頭をもたげてきました。
このことを口にすると
「まさかいまさら気づいたの?」
周囲は揃っておなじ反応。
先日、「担当編集者は知っている」に掲載された
私という人物像。よく読んでみると
ここに出てくる斉藤という人間もかなり変わり者です。
で挙がっている事象は事実なので、
私=変人、という方程式は残念ながら正しいことになる。

先日、なじみの店のママが、
「斉藤さんくらい変わっていると‥‥」
とさりげない会話で口にした一言に、
「ちょっとまってよ、俺はそんなに変だと思う?」
と反応したら、
「わかってやってたんじゃないの?」
といわれてしまった。

32年ぶりに開かれた小学校の同窓会で
何気なく当時の自分について聞くと、これまた同様。
つまりですね、いままで知り合った
数百・数千という人がみな知っていて、
僕だけが40年以上知らなかった事実、それこそが
「自分=変わり者」という事実のことのようなのです‥‥。

──自分にはしごく自然なことが、
  どうして人には理解されないのだろう?──
──人から返ってくる反応が
  どうして自分の期待するものと
  必ず違うのだろう?──
──自分が使っている日本語は完全に誤ったもので、
  かつそれに気づかないのか?──
──あるいは自分は相手の言葉を
  常に誤解しているのだろうか?──
──もしかしたら鏡に映る自分の顔は、
  実はぜんぜん違う風貌をしているのではないか?──

僕はこの連載をごく自然に書いていたつもりなのですが、
とある対談で初対面の方から
「これぞ“斉藤節”ってのがいつもきいてますね」
といわれ「斉藤節ってなんだ?」と
思ったことを思い出しました。
たしかに『ハンバーガーを待つ3分間の値段』
という本の感想をきいても予想外に
「変だ」とか「変わってる」とか、
そういう言葉ばかりが耳につくし。
そういえば先週任天堂から来た
海外メディアからの取材質問のメールで
会ったこともないベルギーとかドイツのメディアから
You seem to shy away from standard genres and
mainstream gaming experiences.
(標準的なジャンルやゲーム体験の本流を
 あえて避けられているように見えます)
とか
You seem to like experimental game mechanics.
(実験的なものがおすきなようですが)
とかいう表現があちこちにあって、
前置きがとても礼儀正しく始まっている
ことから逆算すると
そうとう変人に見られている気配を感じる。
そうそう、そういえば、E3のあとに
Odamaというキーワードで検索していたら、
私のことを変人にあたるような言葉
("Bizarre"やら"eccentric"やら 、
 しまいにゃ“Evil Genius”などという表現。
 いったいこれはどういう意味だ?)と
表現しているサイトが複数あって、
いぶかったっけ‥‥。

人間というのはどれくらい、自分が変人だと
気づいて生きているものなのでしょうか?
自分の認識と周囲の認識のずれに
どれくらい気づいているのが平均なのでしょうか?
新聞で「太陽系に第十惑星が発見された」
という記事が掲載された今、僕にとってもっとも未知で
神秘的な世界はここにある自分自身です。
人間不信になることはあったけど、
自分がいったいどんなやつだかわからなくなる不安。
皆さんは実は多々経験あるんでしょうか?
あるいはそれがなかったことが
私が「かわりもの」である
そもそもの理由なのでしょうか?
この原稿を書きながら思ったのですが、
おそらく、次のゲーム作品は、
このあたりがテーマになるような気がします。

‥‥さて次回はいよいよ大滝さんのご登場です。

斉藤由多加さんへの激励や感想などは、
メールの表題に「齋藤由多加さんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2006-02-07-TUE

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