取材で訪れた南会津高校は、
文化祭の開催を目前に控え、
先生も生徒も準備に追われていた。

じつはこの日は、創立記念日で
学校は休みだったのだけれど、
窓口になってくださった猪股先生が
「たぶん、文化祭の準備で
 みんな学校にいると思いますから」
とおっしゃったので、
お邪魔して取材させていただくことにした。

「これ、見てください」
と猪股先生に言われ、驚いた。
正面入口から入ってすぐの階段に、
この連載の記事が貼り出されていた。




「ぜんぶプリントアウトして
 貼るつもりです」と猪股先生。
いやあ、なんだか、照れくさいけれど、
その、やっぱり、うれしい。

野球部のみんなは、来客者のための
駐車スペースをつくっていた。
若い渡部監督が指示を出しているけれど、
みんなジャージだし、遠くから見ると、
正直、生徒と区別がつかない。


校長先生がいらっしゃるということで、
ご挨拶させていただくことにした。
南会津高校を記事にするにあたって、
なにかと寛大に許可してくださった方だ。
きちんとお礼を言いたかった。


それにしても、校長室って、妙に緊張するね。
学生時代はめったに入らないところだからなぁ。



福島県立南会津高等学校
鎌田由人校長。

はじめまして、
いろいろありがとうございます、とご挨拶すると、
いえいえ、と鎌田校長は気さくに応じてくださった。
思えば、「校長先生」という人と
きちんと話をするのは、
はじめてのような気がする。
なんだかちょっと不思議な感じだ。

南会津高校は全校をあげて
齋藤怜摩くんの選手宣誓を応援していた。
当然、鎌田校長も、
あの見事な選手宣誓をご存じだった。

「ええ、観ました。
 どうなるかとドキドキしていましたが、
 堂々としたすばらしい宣誓でした。
 彼らの学年というのは、
 震災の直後の入学で、
 入学式ひとつとっても、
 本来の形ではなかったわけです。
 ですから、あの年、彼だけでなく、
 福島県内のすべての一年生が、
 『自分たちの高校生活はどうなるんだろう』
 という悩みを抱えていたはずです。
 そういった、悩み、思いが、
 きちんと込められていた
 いい宣誓だったと思います」




そう、怜摩くんの選手宣誓は、
「2011年4月、震災の事故の混乱の時期に
 私たち3年生は入学しました」とはじまる。
ほんとうに、特別な高校生活だったのだろうと思う。

選手宣誓の話を糸口にして、
いろんなことを話しているうちに、
いつの間にか震災の話になり、
鎌田校長はご自身の被災経験について語り始めた。

鎌田校長は南相馬の出身で、
ご自宅は津波で流されてしまっていた。

福島県は広く、南会津地方は、
震災の影響は受けたものの、
地震や、津波などによる、直接的な被害は
福島県のなかでは比較的少ないほうだと思う。
震災のあと、南会津には数回来ているけれど、
ここで直接的な被災の話を聞くのは
あまりなかった気がする。

鎌田校長の話は、しばらく続いた。
ひょっとしたら、あの日の体験と記憶は、
鎌田校長のなかに、行き場をなくして、
ずっとたまっていたのかもしれない。
そんなふうに思った。

「私は、南相馬に自宅があり、
 この南会津高校に赴任する前は、
 相馬高校、磐城高校と、
 浜通りにある高校に勤めていました。
 ですから、福島県の海岸沿いの地域には
 とても馴染みが深いんです。
 しかし、震災でたくさんのものが流され、
 それから2年以上が経ち、
 あのあたりの景色は一変してしまいました。
 かつての景色を自分が思い出せないというのが
 たいへん悲しいんです。
 『自分の家がない』ということよりも、
 『ふるさとが元に戻らない』というのがつらいです」


「震災のあと、痛感するのは、
 『平々凡々と生きることの幸せ』です。
 『なにもないということの幸せ』
 『昨日と同じ今日がある幸せ』
 ということを、本当に思い知らされました。
  
 いま、高校生たちに、自分が何を伝えられるのか、
 正直、複雑な思いがあります。
 『キミたちの力が今後の復興を進めていくんだ』
 というような言い方があります。
 『復興には、若い人の力が必要なのだ』と。
 たしかに、それはそうかもしれませんが、
 私は、その言い方は、大人として無責任に感じます。

 子どもたちに、罪はありません。
 友だちと別れなければいけなかった子どもたち。
 ふるさとを離れなければいけないかった子どもたち。
 浜通りには、まだ、自分の学校で授業ができず、
 サテライト校を利用して活動している学校もあります。
 子どもたちには、がんばってほしいですし、
 できることを、ベストを尽くして、
 やっていくしかないとは思いますが‥‥
 いろいろと、難しいこともあります」

鎌田校長は、自分の話をまとめようと何度も試みて、
そのたび「難しい」ということばにたどり着き、
また、少し戻って話を続けた。

福島に来て、真剣な話をすればするほど、
「難しい」ということばにたどり着く。
逆にいうと、福島について考えている人ほど、
「難しい」ということばを発せざるをえない。
ぼくにとっての福島の取材は、
真剣な「難しい」と出会うことのくり返しでもある。

鎌田校長もまた、言いよどんでは
真剣な「難しい」をくり返した。

おそらく、校長先生というのは、
人前で話すことがとても多い職業だと思う。
これまで、きっと、たくさんの場所で、
たくさんの話をしてこられたことと思う。

印象的だったのは、鎌田校長が、
何度も何度も話をまとめようとしたことだ。
たぶん、話をまとめることに、
とっても慣れているはずなのに、
鎌田校長の話は、うまくまとまらなかった。
まとめようとして、軽々しくまとめられなくて、
絞り出すように「難しいですね」とおっしゃった。
その「難しいですね」は、
とても誠実だとぼくは思う。



大人たちが「難しい」と言っていることを、
若い人たちはどう感じているのだろう、
とぼくは思った。
たとえば、大人たちが未来を案じている
校長室の外の廊下では、
休日返上で学校にやってきてる生徒たちが
文化祭の準備に没頭している。

明らかに怖くなさそうなオバケ屋敷をつくったり、
すごくわかりづらい貼り紙をつくったりしている。
彼らは時間を忘れて作業に集中し、
たまに、けらけらと笑い合う。
誰しも高校時代に経験するような、
文化祭直前の、かけがえのない時間。



高校生たちは、いま、この難しい世界と、
どんな風に向き合っているのだろう。

南会津高校には、浜通りで被災した学生が
ふたり、転校してきたそうだ。

「話を聞いてみますか?」と猪股先生が言った。
「たぶん、ひとりはいま、
 上の階で準備してると思うので」

ちょっと話がそれるけど、
南会津高校の先生たちは、いま、どの生徒がどこにいて、
何をしているかということをとてもよく把握している。
生徒数が少ないということもあるかもしれないけど、
それだけじゃないと思う。

1年生の阿部貴里さんは
中学校2年生のときに、小高から引っ越してきた。
自宅は、福島第一原発から10キロ圏内にある。



「震災のあと、姉と、叔母と、祖父母と
 いっしょに引っ越してきて、
 いま姉は就職して、
 祖父母は病院の関係で相馬に行ってます。
 
 引っ越してきたばかりのころは、
 姉と、前の学校に戻ろうかっていうことを
 よく話していたんですけど、
 前の学校に戻っても友だちが全員いるわけではないし、
 ここで友だちもできたし、
 過ごしやすくなってしまったので
 そのままこっちで高校生活を送ることにしました。

 どっちを選ぶということでもなくて、
 他県に来てるわけでもないし、
 行き来することだってできるので。
 もっと離れてたら、違うかもしれないけど」

「他県に来てるわけではない」
というのは、ちょっと意外な、
それでいて妙に腑に落ちる考え方だった。
確認するように、ぼくは貴理さんに訊いた。
「離ればなれになっても、
 同じ県内にいるということは、
 けっこう大きなことなんですか?」
貴理さんは即答した。

「はい、大きいです。
 他県に親がいたりしたら、そっちに行ったほうが
 いいのかなって思うかもしれないですけど、
 いま、父親が単身赴任で
 一緒に住んではいないんですけど、
 福島県内にいて、家族はみんな福島県にいるので、
 まだ行き来できる距離なので」

みんな福島県にいるから大丈夫。
当たり前に、貴理さんはそう言った。

東京からやってきたぼくは、
「福島県は広い」といつも思う。
浜通りで生まれ育った鎌田校長は
「ふるさとは元に戻らない」とおっしゃった。
そして、小高で被災し、
南会津の高校に通う貴理さんは、
「みんな福島にいるから大丈夫」と当たり前に言う。

さまざまな人が、さまざまな価値観で、
さまざまに思い、さまざまに生きている。
一様に憂えたり、一様に楽観したり、
ただひとつの正しい未来を求めることは、
不自然なことなのだろうと思う。

ぼくは貴理さんに、
かつて住んでいた場所について聞いた。
彼女の家は高台にあったおかげで、
いまも残っているそうだ。

「家は、津波とかは影響なかったんですけど、
 原発から10キロ圏内だったので
 避難しなくてはいけませんでした。
 いまは、掃除とかで
 家に入ったりはできるんですけど、
 泊まったりはできません。
 何度か、親といっしょに掃除しに行きました。
 いろんなものをどんどん捨てて。
 タンスとかも運んだりして(笑)。

 私の家は、そのまま残ってるんですけど、
 街のほうに行くと、家がぜんぜんなくて、
 友だちとか後輩の家もなくなっているので、
 そういうのを見たりすると、
 やっぱり、変わったんだなって思います。
 
 あの家に、いつか戻って、
 暮らしたいなって思うんですけど、
 やっぱり原発が近いので、
 親にはすごく反対されます(笑)。
 他県に行ってしまった友だちも多いし、
 病院とかも機能してないので、
 いまは、どうにもできないんですけど」

貴理さんがフラットなテンションで
すいすい答えるので、
つい、ぼくも、いろいろと訊いてしまう。
ぼくは、こんな質問をした。

腹が立つような思いというのは、ありますか?

「ない、です。それは、自然のものなので。ないです」

国とか、東電に対しては、どうですか?

「東電のことは、前は思ったりもしたんですけど、
 なんか、起こってしまったことに
 腹を立てても、どうにもならないので」


文化祭の準備をしている、
元野球部キャプテンの齋藤怜摩くんを
「ちょっといいかな」と呼び出し、
隣の誰もいない教室で簡単なインタビューをする。
質問は、ひとつだけ決めていた。

選手宣誓してるときってさ、どういう気持ち?

「どういう気持ち? やってる最中ですか?」

そう、やってる最中。憶えてる?

「憶えてますけど。
 まぁ、なにかを考えてるヒマはないです。
 『つぎ、なんだっけ!』っていう感じ」

どういう風景が見えてるの?

「周りはもう、見えてないですね。
 目の前にいる会長さんしか見えてない」



原稿は、文言は、一語一句まちがえず?

「はい」

言ってる最中、みんなが聴いてる様子とかわかった?

「いやあ、わかんないですね。
 そこはもう、自分の世界。
 どうにか、しっかりやる、
 ということしか頭にないので」

終わった瞬間の気持ちは?

「やりきったー! って思いました。
 ああ、失敗しなかったー、って」



そうかあ。
うん、すばらしい選手宣誓でした。
‥‥いや、訊きたかったことは、
じつは、それだけなんだけど。

「はははは」

選手宣誓ってさ、
ほとんどの人は経験したことないわけじゃない?
みんな、観たことはあると思うけど、
やったことはないっていうものだから。
怜摩くんは、やる前は、どういうイメージだった?

「いや、やっぱり、
 かっこいいなあ、と思ってました。
 選手宣誓するって決まったあとは、
 『あそこに立てるのかあ』という気持ちでしたし、
 まあ、それ以上にプレッシャーもありました」

いちばんプレッシャーを感じたのはいつ?

「決まった瞬間ですかね。
 くじ引いて、決まった瞬間に、
 『これ、どうしよう?』って」

立候補したチームのキャプテンがくじをひくんだよね。
何人くらい、くじを引いたの?

「53チームだったと思います。
 自分でくじを引いたんですけど、
 真ん中のほうのを引いたら、当たってた。
 たぶん、当たらないんだろうなあ、
 と思って引いて、こうやって開いたら
 『あなたが選手宣誓に決まりました。』
 って、書いてあったんですけど、
 それだけ読んでも、まぁ、わかんなくて(笑)。
 『これ、なんだろうな?』と思って、
 隣の人の紙を見たら、白紙で。
 で、ようやく『オレ?』って」

で、そこから、文言というか、内容を考えて。
これは、誰と考えたの?

「まずは自分で考えて、それを先生方とか、
 いろんな人に見てもらったりして。
 少しずつ、仕上げていきました」

宣誓のなかで、やっぱり印象に残ってるのは、
「浜通り、中通り、会津の枠を超えて、
 一体となり、全力でプレイすることが、
 福島の元気につながると信じ」
っていうところだったんだけど、
あれは、最初から思っていたこと?

「はい。選手宣誓をやることが決まって、
 『なにが言いたい?』って訊かれたんですけど、
 やっぱり、それが一番言いたいなあって思って。
 それを入れると長くなっちゃうから、
 なくてもいいんじゃないか
 っていう声もあったんですけど、
 そこは、言いたかったので、残しました」

うん、とってもよかった。
選手宣誓、学校の校庭で練習したんだよね。

「はい。先生のアイデアで、
 度胸試しにやってみろっていうことで。
 前日のリハーサルに行く前に、
 全校生徒が窓から見てる前でやったんですけど、
 そのときは、じつは、間違えたんです。
 ぜんぜん違うことを言ってしまって
 まずいなぁと思ったんですけど。
 でも、みんなが
 『がんばってください』とか
 声をかけてくれたりして、
 それはすげえうれしいなぁって」



本番がばっちりで、よかったね。
で、試合のほうだけど、
うん、まぁ、惜しかったね。

「途中まではよかったんですけど」

いい試合だった。
結果的には点差がついたけど、
なんていうか、選手層が少し薄いだけ、
っていうような差だったと思うよ。

「‥‥‥‥」

最後の夏が終わってみて、どう?

「まあ‥‥終わったあとは、
 泣かないようにと思ってたんですけど。
 終了の挨拶をして、応援席に挨拶して、
 そこまでは泣かなかったんですけど、
 後輩のピッチャーのコウヘイに
 『すみません』って言われて、
 終わっちゃったんだなと思ったら、
 もう、耐えきれなくて‥‥」




でも、部員が少ない野球部で、
ちゃんと大会に出られるか微妙だったわけで、
それが3年の夏に、野球部員だけで
最後の公式戦ができたんだから、よかったね。

「そうですね。
 後輩たちが入ってくれて、
 やっと野球部だけで出られるようになったんで、
 ほんと、それは、もう、感謝しかないですね。
 負けちゃいましたけど、みんなでまとまって、
 まあ、たのしくやれたんで、それはそれで、
 いま考えると、いい形なのかなって思います」

しかも、選手宣誓もできたし。

「そうですね(笑)」

どうもありがとう。

「ありがとうございました!」



左から、現監督の渡部允也さん、
そしてキャプテン齋藤怜摩くん、
いちばん右が、ぼくに最初にメールをくれて、
なにかとご協力いただいている、
元野球部監督、猪股俊伸さん。
ちなみに猪股さんの正規の担当部はスキー部。
南会津高校のスキー部はなかなか強いんです。

あ、そうそう、2年前に
野球部を手伝っていたスキー部の1年生、
憶えてらっしゃいますか?

最後に会えたんだけど、
やっぱり、ふたりともたくましくなってた。



左がセンス抜群のショート、鈴木達也くん、
右が、最後にマウンドに上がった
トオルくんこと、平野亨くん。
かっこいいよね。
なんというか、2年間というのは、
初々しい1年生がたくましい3年生になる
たっぷりとした、濃密な時間なんですよね。

鎌田校長のおっしゃった
「平々凡々と生きることの幸せ」
「昨日と同じ今日がある幸せ」、
そして、小高から転校してきた貴理さんが言う
「みんな福島にいて、
 行き来できるから大丈夫」という
とっても自然な考え方。
そして、震災のあと、2年間を過ごした、
怜摩くんたちの成長。

いろんなものを得て、
ぼくは南会津をあとにした。
いつも思うことだけど、
やっぱり今回も、来てよかったと思った。



最後に、まったく違う話を書いてしまう。
文脈から外れるけれども、
取材を通じてずっと感じていることなので
ごろん、とここに残しておくことにする。

いろんな場所を取材するたび、
「書く」というのはなんと都合のいい行為かと思う。

もちろん、真摯に向き合ってる方も
いらっしゃると思うけれど、
ぼくは、やっぱり、自分の行為を、
都合のいいことをしているなあと思う。
けっきょく、モニターの前に座って、
両手の指を動かしているだけじゃないか、と思う。
必要以上に卑下したいわけじゃない。
ただ、この都合のいい行為に見合うぶんだけ、
きちんと動き、考え、
向き合わなければならない、と強く思う。
それもまた、そう「書いている」のだから、
同じところをぐるぐる回っているだけかもしれない。
けれど、なにもないことにするよりは、
ぐるぐる回っているほうを選びたい。

願わくば、考えながら、動きながら、
ぐるぐると回っているこの行為が、
わずかでも螺旋のように上昇をともないますように。

夏の話を秋までかけて書いてしまいました。
お読みいただき、どうもありがとうございました。

 

2013年 10月       永田泰大






(つづく)
2013-10-11-FRI