聖光学院

その学校が駅からどのくらい離れているか、
どういう交通手段を使えば効率がいいのか、
福島に土地勘のないぼくにはよくわからない。
事前にネットで調べたり、
地図からだいたいの距離を
割り出してみたりはするけれど、
いざ駅に降り立って、
自分の印象との違いに驚いたりもする。

とにかく遅れては失礼だ、と
早めに着くように手配していたら
約束の30分前に学校に着いてしまった。

校門をくぐり、受付を済ませ、
野球部に取材で来ましたと告げると、
「グラウンドで待っていてください」と言われた。
グラウンド、ですか。

対応してくださった先生が
ていねいに道順を教えてくださった。
野球部の専用グラウンドは
本校舎から歩いて5分ほど離れた場所にある。

そりゃぁ、専用グラウンドくらい、あるよな。
ぼくが最初に取材で訪れた高校は、
聖光学院である。





優勝候補筆頭。
現在、福島大会を4連覇中。
去年の夏の甲子園はベスト8進出。
驚くことに、福島県内では55連勝中だという。
つまり、東北大会や全国大会以外では、
ここのところ負けがないのだ。

今日は、そんな聖光学院の見学と、
聖光学院を1999年から率いている
名将、斎藤智也監督にお話をうかがうことになっている。
そんなわけで、けっこう緊張している。

野球部専用グラウンドに入る際は、
ぼくは、あやしいものじゃありませんよ、
と主張するように、
左手につけた取材用の腕章をぐいと引き上げる。
カメラもこれ見よがしにぶら下げている。

さて、その聖光学院のグラウンドの、
さすがの充実ぶり。

個人的な趣味をここで語らせていただくとすると、
ぼくは甲子園において初出場の公立校などが
初出場で旋風を巻き起こす、
というような現象が大好きであるが、
その一方で、優勝候補の強豪校が、
プレッシャーや他校の包囲網をものともせず、
さすがの完成度で勝ち上がることも大好きである。
智弁和歌山と明徳義塾が2回戦で早くも激突、
なんて聞いたら、おおおっと盛り上がってしまう。

だから、福島の高校野球を取材するなら、
聖光学院は外せないと思った。
取材が最初になってしまったのは
スケジュールの関係だけど、
まず聖光学院のグラウンドを訪れるというめぐり合わせを
ぼくはなかなか気に入っていた。

ところでみなさん、
部員100名を超えるという聖光学院の
平日の練習が何時からはじまるか知ってますか?

午後4時からです。ふつうでしょう?
そりゃそうですよ。
だって、彼ら、高校生ですからね。

そんなわけで、授業が終わった生徒から、
グラウンドにぽつぽつ集まりはじめる。
とはいえ、まだ練習開始20分前。
謎の素人スポーツ記者は慣れない腕章をつけて
広いグラウンドの脇にぽつねんと立っている。
とくにすることもないが、
長く高校野球ファンをやっているぼくにとって
これ以上の現場もなかなかない。
名門野球部の広いグラウンドを眺めながら
じわじわと気分は盛り上がってくる。
ていうか、土だけで盛り上がんのかよと、
冷静な自分が興奮する自分に突っ込む。

そこへ、「こんちはっ!」と声がする。
後輩が先輩に挨拶しているのだろう、
と、最初は思った。
ところが、また「こんちはっ!」と声がする。
同じような位置から、同じような方向へ
「こんちはっ!」と声がする。
振り向くと、そこに選手がいるから、
ぼくもつられて会釈する。

しばらくしてわかった。
彼らは、ぼくに挨拶しているのだ。

挨拶といっても、ただの挨拶ではない。
きちんと立ち止まり、背筋を伸ばし、
帽子を脱いで、ひと呼吸置いてから、
「こんちはっ!」と言って頭を下げる。

そう、彼らから見ればぼくは
外から取材に来た目上の人である。

そういう指導がされているのだろう。
それにしても立派な挨拶だ。
そうとわかってからはぼくもきちんと挨拶を返す。
「こんにちは」
外から取材に来たお客さんとして。
なにしろ、腕章をつけているからね。

「こんちはっ!」「こんちはっ!」「こんちはっ!」

しかし、みなさん、述べたように、
聖光学院には部員が100人以上いる。
そしていまは授業が終わり
放課後がはじまったばかりで、
わるいことにぼくはグラウンドの入口から
部室への通り道のところに立っている。

「こんちはっ!」「こんちはっ!」「こんちはっ!」
「こんちはっ!」「こんちはっ!」「こんちはっ!」
「こんちはっ!」「こんちはっ!」「こんちはっ!」
「こんちはっ!」「こんちはっ!」「こんちはっ!」

名門野球部挨拶千本ノックとはこのことである。
腕章を引きちぎって這々の体で逃げ出す、
わけにはいきませんよ、さすがに。
編み出したぼくの対応はこうである。
ひとりひとりに挨拶を返す余裕がないときは、
胸を張って立っている。

ちなみにこのとき編み出した
「胸を張って立っている」は、
取材先でなにすることなく立っているときの
ぼくの基本姿勢になっている。
大げさにいうと、
球児に学んだ姿勢だとぼくはとらえている。

4時が近づき、着替えた生徒たちが
どんどんグラウンドに出てくる。
そして、基礎トレーニングがはじまる。
ストレッチ、ランニング、ダッシュ‥‥。
ふたつ、いや、3つくらいのグループに分かれている。





三塁側にもっとも声を出している一団がある。
自由にさまざまなことを叫びながら、
身体を動かしている。
すごく目立っているので、
最初はその一団が上級生たちなのかと思った。

しかし、違った。
レギュラーを中心とするAチームは、
もっとも静かな集団だった。



かっこいい。

テレビで観る高校球児たちは、
幼いころ、文字通り年上のお兄さんで、
自分が高校生になっても
その感覚は上書きされなかった。
そして、驚くなかれ、
二十歳を超えても30歳になっても、
高校球児というのは、やはり年上に思える。
そして40歳を過ぎて、さっき自分に挨拶した高校生達の
練習風景を間近で観ても、その感覚は覆らない。
でも、同じように感じる人は意外に多いと思う。

Aチームの入念なストレッチが終わるころ、
ふらりと監督は現れた。

斎藤智也監督。聖光学院野球部監督。
2001年夏、聖光学院をはじめて甲子園へ導く。
その後、春夏合わせて9回の甲子園出場を果たす。
野球面はもちろん、「人間としての力」を重視し、
こころを育てる指導法で知られている。
また、新しいニュースでいうと、
甲子園の後、神奈川県で開催される
アジアAAA選手権大会において、
日本高野連から指名されるかたちで
全日本選抜高校野球チームのコーチを任されている。
つまり、今の日本の高校野球を
代表する監督のうちのひとりである。

グラウンドが一望できる
バックネット裏のプレハブに通されて、
座って待っていると
「わざわざ東京からどうも」と言って
斎藤監督が飲み物を出してくださった。
よく冷えた、リポビタンDだった。

斎藤
「今年は歳内(さいうち)っていう
 ピッチャーの柱になる子がいる。
 そこに加えて、芳賀(はが)っていうピッチャーも
 歳内に負けないくらいの能力を持ってる。
 あと、去年の甲子園を経験してる、四番の遠藤。
 まぁ、ぼくのポリシーとして、
 毎年、前年度を超えるチームをつくるっていう
 気持ちでチームづくりしてるんだけど、
 ほんとの意味で、聖光学院史上、
 最強のチームができたんじゃないかと思う」

くり返すが、去年の聖光学院は
夏の甲子園でベスト8まで勝ち進んだ。
そして、準々決勝で敗退した相手は
そのまま全国優勝した興南高校である。
今年のチームはそれをしのぐ、と言う。

斎藤
「あと、うちは、目に見える部分だけじゃなくて、
 それ以上に精神性を大事にしてるんでね。
 いかに人間として、潔く、佇まいを
 しっかりと構築するかっていう意味では、
 だいぶ掘り下げてきたというか、
 人間づくりをしてきたという自負があるので、
 そういったところも、例年以上に、
 いい意味で使命感が宿ってる感じになってると思う」

野球というのは、人間づくりの修行の場である、
というのが斎藤監督のモットーだ。
そういった精神性をたたき込む、
聖光学院のミーティングはしばしば話題になる。
野球がうまいだけではだめだ、
なんのために野球をやってるんだ、と、
斎藤監督は選手達に真剣に問いかける。

たとえば、プロの球団も注目しているエース、
歳内宏明投手を、斎藤監督はこんなふうに評価する。

斎藤
「歳内は今日、休ませたんだ。
 いま、ちょうど疲れが出てきてるんでね。
 それでいいと思うんだ。
 いつも同じようにはできないから。
 昨日、38度ちょっと熱があったんだけど、
 ぜんぜんその素振りを見せなくてね。
 大人だって、そのくらい熱があったら
 げっそりしちゃうと思うんだけど、
 たいしたもんだなと思ったね。
 もちろん、体調管理がなにより重要だから、
 今日はゆっくりしろって言ったんだけど、
 精神的に、伸びたよね」

歳内投手は去年の夏、
2年生エースとして甲子園の土を踏み、
強豪、広陵高校を完封するなど大活躍した。

斎藤
「厳しい言い方をすると、
 あのときは、まだ本人の力じゃないからね。
 あれを自分だけの力だと思ってたら、
 今年の伸びはなかっただろうね。
 やっぱり、16、17歳の子どもだからね、
 有頂天になったら終わっちゃうよ。
 去年3年生の先輩たちのすごみを間近で感じて、
 芳賀っていうライバルもいて、
 それで自分が力を発揮できたんだっていうことが
 ちゃんと理解できてるっていうことが大きい。
 つねにその謙虚さは持っていないと。
 歳内に限らず、みんなそうなんだけど、
 グラウンドに立ってプレーする
 ひとりの人間としての生き様と、
 野球の結果というのは、
 ぼくはある程度比例すると思う。
 だから、グラウンドに立ったら、
 選手に凛々しくグラウンドに立っててほしい
 って思ってるんで」


しかし、今年はまさにその
「グラウンドに立つ以前の問題」が
大きかったのではないかと思う。
震災の影響について質問したところ、
驚くような答えが返ってきた。

斎藤
「いちばん怖いのはね、
 震災があったからこそ、
 ぼくらは今年勝たなきゃいけないっていうふうに
 震災を利用して傲慢になることです。
 おそらく、取材も増えるだろうし、
 変な言い方ですが、同情もかうでしょう。
 その勢いにあやかるのは許せない」

厳しい。
つまり「震災があったからこそがんばる」という表現が
どれほど人間の深い部分から
発せられているかというところを
斎藤監督は問うている。十代の若者たちに。
厳しい。

斎藤
「選手たちは、簡単に言います。
 ぼくたちは震災を背負ってる。
 全力で戦って一日でも長く勝ち残って
 みんなに喜んでもらうんだって。
 でも、それ、どういう意味で言ってるんだ?
 ほんとにわかってるのか?
 ってぼくは言うわけです。
 ほんとは同情の声で後押ししてもらえるって
 期待してるんじゃないの?
 もしそんなことを都合よく願ってるとしたら
 それは、傲慢だよって」

一瞬、自分が選手だったらどうするだろうと考える。
「震災があったからこそがんばる」と言って、
「ほんとか? 傲慢じゃないか?」と問われたら、
どうしたらいいんだろうか。

斎藤
「ぼくは、ふだんから、
 人生に起こることはぜんぶ意味がある。
 それは必然的なことなんだって言ってます。
 ケガをしたときも、チームが負けたときも、
 それは必然的なことだったんだと。
 逆に、ものすごくうまくいったときは、
 むしろ偶然だと思えって言ってます。
 そういうふうに考えると、自分にとって
 マイナスになることが起こったとき、
 自分のなかの足りない部分に気づくことができる。
 言い訳もせず、人のせいにもせず、
 そういう必然だったととらえられる人ほど
 成長も大きいんです。
 震災が必然だったとは、これはいえません。
 ただ、受け止めるしかない。
 きちんと受け止めなければ成長できない」

つい、ぼくは、突っ込んだ質問をしてしまう。
こんな話になるとは思わなかった。
ぼくは言った。
だとすると、斎藤監督にとって、
「勝つ」ということの重要性が曖昧になりませんか、と。
すると斎藤監督はあっさり答える。

斎藤
「実際の試合、勝負になったら、選手に任せます。
 勝つも負けるも、俺は知らない。
 負けることだってあるし、勝つこともある。
 だって、『勝つこと』で引っ張ってきたら、
 最後に見返りを求めることになりますから。
 見返りを求めるんだったら、
 最初からやらないほうがいい。
 人事を尽くして天命を待つとしたら、
 もう、やるだけやって、潔く預けるしかない。
 いまを真剣に過ごせばいいのに、
 勝ち負けを引っ張り出してきたら
 その時点で失敗なんです」

話を聞きながら、ぼくはじわじわと、
しかし、はっきりと確信したことがある。
聖光学院は、強い。

斎藤
「いまを真剣に過ごしてるはずなのに、
 なんで勝ちたい、勝たせてくださいって
 急に求めるんだと。
 スコアボードの得点を見て、
 いま3対0で勝ってる。
 あるいは、3対0で負けてる。
 やべぇ、どうしよう。よし、勝てるぞ。
 なんでそんなことをいちいち思うんだ、と。
 思った時点で支配されちゃうんですよ。
 だから、そういうみっともない考え方で
 野球をやるなと。
 でも、ほんとうのところ、根底のところには
 『勝ちたい』という純粋な気持ちがある」

うん。そうだ。そこだ。

斎藤
「勝ちたいからこそ、勝つ、負けるっていう、
 いちばん怖いものを捨てる。超える。
 そこを超越しないとずっととらわれちゃうんです。
 追いかけ回されてしまうんですよ」

この話は、十代の若者たちに、
どのくらいきちんと伝わるものなんですか。

斎藤
「毎日言ってるとわかります」

なるほど。

斎藤
「時間がかかるんです。
 だから、1年生、2年生、3年生となるにしたがって、
 やっぱり精神性はあがっていきます。
 1年生は『俺はすげぇんだ』っていう状態。
 2年生になると謙虚になるけど、まだ迷ってる。
 3年生になると、筋が一本通ってくる。
 そして、最後の夏に、真剣になればなるほど、
 このチームでみんなで甲子園に行きたい、
 このチームで絶対負けたくない、
 こんないいチームになんだから、
 絶対裏切れない。みんなで笑いたいって思うんです。
 そうなると、精悍に、潔くなっていく。
 その姿が、『無言のメッセージ』になって
 観ている人のこころに届くんだと思うんです」

ここまでくると、最初にぼくが驚いた答えの意味が
ようやく、実感できるようになる。
「震災があったからこそがんばる」というのは
ほんとうにわかって言ってるのか? と。
ぼくは、また、しみじみと思う。
聖光学院は、強い。

斎藤
「最後は、みんなを泣かせたくない
 っていう気持ちになります。
 やっぱり泣かせたくないんです、仲間を。
 だから、ある意味、レギュラーがいちばん切ない」

ああ、とぼくは思う。
そして、グラウンドにいるときの
Aチームのあの静けさを意味を知る。

グラウンドで感じたAチームの静けさを
斎藤監督に伝えると、
監督は、なるほどね、と言って少し微笑んだ。

そして、そのように、表層ではない部分を
わかりあったという感覚が
ぼくにも、おそらく監督にもあるからこそ、
ぼくはもう一度、震災について訊くことができた。

震災直後、野球をやることについて
判断するのは難しくなかったですか、とぼくは訊いた。
斎藤監督は少し考えて、
難しくはなかったと思うと答える。

斎藤
「3月11日に震災が起きて、
 3月25日の終業式まで、
 野球部の寮を解散しました。
 あの時点で練習するのはナンセンスです。
 県外の子もいるし、家に帰さなければいけない。
 ただ、南相馬や浪江の子もいたので、
 その子たちは寮に残るしかなかった。
 3月25日は、終業式という学校行事があるので
 みんながもう一度集合するんですが、
 その3月25日までのあいだ、
 寮に残った10人くらいの子たちが、
 自主的にボランティアに参加するんです。
 伊達市のほうに登録をしておいて、
 要請があったらボランティアに出かける。
 要請がないときは室内練習場で自主練習」

それを、生徒たちは自主的に行ったという。

斎藤
「3月25日にいちばん最初にやったことは
 伊達市のボランティアの再登録です。
 40人くらいいるAチームがそろったので
 大がかりな活動もできますと。
 それから始業式までのあいだに
 4、5回でかけたと思います。
 始業式のあとは、やはり授業がありますから、
 市からの要請はなかったんですが」

練習は、どういう状況で再開していったんでしょう。

斎藤
「まず、3月25日までの2週間はまったくなし。
 そこから徐々に動き出して、
 ボランティアがない日は、
 照明をつかわないと決めて、少しずつはじめました。
 春休み中でしたから、朝9時からできますから。
 たしかに、震災の直後の2週間と、
 ボランティアをやっているあいだの
 練習量は減りましたが、そんなことよりも
 学びの場として重要だったと思います」

ああ、なるほど。

斎藤
「ただ、心配だったのは、親御さんたちの気持ちです。
 とくに県外の親御さんたちが、3月25日、
 どういう気持ちで送り出してくださったのか。
 みなさん、納得しているだろうかって。
 部長が学校のホームページやメールを通じて
 放射線量も細かく記載して、
 この量なら問題ありませんっていう
 大学教授のコメントなんかも添えてお伝えして。
 けっきょく、苦情は一件もありませんでした。
 これは、ほんとうにありがたかったです。
 だけど、水面下ではね、心配している親御さんも
 たくさんいらっしゃったと思います。
 でも、最後は、学校を信じてくださった。
 その保護者の強さっていうのは、感謝してます。
 だから、そこからは、震災については、
 さっき話したように、生徒とのやり取りです。
 のべ何十時間ミーティングしたか、わかりません」

たくさんのことばがやりとりされ、
何枚ものレポートが書かれたという。

斎藤
「簡単に震災を利用するなよって言いながらも、
 やはり、これから福島の代表として戦っていくなら、
 震災をきちんと背負わないといけない。
 これは、難しかったです。
 言うのは簡単だけど、背負うってどういうことだ?
 被災した、自分たちと同世代の高校生はどう感じてる?
 それを取り巻く家族の悲しみってどんなだろう?
 被災地の惨状、被災者の気持ち、
 やっぱり一個一個、わかっていくしかない。
 伝えなきゃいけない。知らなきゃいけない。
 だから、新聞も報道も見ろよって言いました」

それから、これは書かないでほしいんだけど、
と言って、斎藤監督は話し出した。

斎藤
「やっぱり、新聞や報道だけでは
 伝わらない部分があると思ったんですね。
 でも、現地の人の苦しみを思えば、
 生徒にそれをわからせるだけのために
 被災地に行くのも失礼な気がする。
 だけど、あるとき、4月の終わりごろ、
 雨で練習できなかった日があって、
 生徒をバスに乗せてつれて行ったんです。
 仙台空港の周辺は高速が走ってたので、
 仙台空港から石巻近くまで行って、
 わずか10キロくらいだと思うけど、
 走って、Uターンして帰ってきたんです。
 もちろん、危険のないように、ゆっくりね。
 震災を受け止めるために、
 なにができるかなと思ったら、
 そうやって行くしかなかったから」

その経験は、やはり、
生徒たちを変えたと斎藤監督は言う。

斎藤
「惨状を見ながらね、ことばがなかった。
 それは、生徒たちだけではく、俺もです。
 ウソだろ‥‥って、思った。
 そのあとのレポートは、変わりました。
 なにかを感じ取った、いい文章だった」

その話、書いちゃだめですかとぼくは言った。
だめだろう、と監督が言ったから、
書かせてもらえませんか、と重ねた。
どうだろうな、と監督は迷っていた。
そして、失礼のないように書きますと約束して、
書くことをなんとか承諾していただいた。

その10キロが、物見遊山のドライブとは
まったく性質を違えるということが
読んでくださっている方に
きちんと伝わっていると信じます。

斎藤監督に取材のお礼を言ったあと、
選手に取材しますかと訊かれたので、
キャプテンに話を訊きたいと言った。
というのも、斎藤監督のことばが
ほんとうに選手達に伝わっているのか
知りたかったからだ。

聖光学院のキャプテンは小沢宏明くん。
内野手。サードか、ファーストを守る。

聖光学院の野球というのは
どういうものだと考えていますか?

小沢
「自分は、品格の野球だというふうに思ってます。
 それまで実生活で積み上げてきたものが
 すべてグラウンドのなかに出ると考えています。
 適当に無駄な生活をしているとそれが出るし、
 自分にほんとに厳しくしてきたら、
 自然と結果もともなってくると思います」

うーん、お見事。
かといって、監督のお仕着せを
そのまま口にしているという感じでもない。
荒削りではあるけれども、自分の芯の部分に
きちんと溶かした考えであるという印象がある。

練習を再開したときに、
いま、野球をやっていていいんだろうか?
という迷いみたいなものはありませんでしたか?

小沢
「そういう気持ちも、ありました。
 ただ、野球ができることに感謝する思いもあって、
 そのふたつが混ざって、
 なんとも言えないような気持ちでした」

うん。そうだと思う。
そういう気持ちは、いまも、
日本中の人たちのなかにあると思う。

小沢
「でも、自分たちのできることをやる
 っていうことしか、自分たちにはできないんで。
 こんな恵まれた環境のなかで、
 迷いながらやっていたら、
 野球ができない人たちに対して
 すごく失礼だと思うんで。
 だから、迷うこともありましたけど、
 絶対に、手を抜いちゃいけないっていうふうに、
 思うようになりました」

まだ迷っている人も
チームのなかにはいますか?

小沢
「そうですね‥‥浜通り出身の人や、
 宮城出身の人もいるので、
 そういう人たちがどう思っているかは、
 本人じゃないんで、わからないんですけど。
 できれば、こういう震災がなければ、
 それがいちばんいいことだと思うんですけど、
 ただ、こうなってしまったんで‥‥
 ほんとにこういうことを言って、
 被災者の人たちがどう思うかわからないんですけど、
 やっぱり、これからどうするかが大事だと思うんで、
 とにかく前向いてやっていきたいと思ってます」

ああ、すばらしいですね、と
声に出して言ってしまった。

小沢
「やっぱり、この夏、3年生は最後なので、
 とにかく悔いのないように、
 やりきるっていうふうに思ってます」

そう、特別な夏だともいえるし、
夏はいつでも特別だともいえる。
とりわけ、3年生にとっては。



たくさんのものを学んだ気がして、
ぼくは帰り道をゆっくり歩いた。
ランニング中の野球部員がぼくを見ると立ち止まり、
「こんちはっ!」と挨拶した。
ぼくは胸を張って、「こんにちは」と答えた。