YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson884
   2つの文章 ― 3.上から目線



ネットで、批判されたりディスられたりしたとき、
私は、何がいちばん嫌なのか?

ここ1週間ずっと考えていた。

きのう、

夜中に、SNSで、
心洗われる想いがした。

「災害で、大切なアーティストのDVDなど全て失った、
無償で譲ってくださる方はいませんか」
と呼びかけた人がいて、そこに、

「お怪我はないですか、心からお見舞い申し上げます。
このようなものならお譲りできます‥‥」

と、つつしんで1人、また1人、と応答がきていた。

その応答の文章を読んで、なぜか、
すーっと清々しい風が心に吹いた。
夜中なのに元気が出た。

譲る側が、相手に「敬意」を持って書いている。

心根に相手への尊重があることが、ひしひし伝わってきて、
読んでる私まで大切に扱われたように感じた。

そこと真反対だ! と反射的に気がついた。
私がいちばん耐えがたかったのは、

「上から目線。」

ネットで、批判されたりディスられたりしたとき、
そこには2つの文章がある。

もとの文章と、それを批判する人の文章。

批判する人の文章は、無意識に高みから書きがちだ。
そこから書かれた文章が、読者に伝えてしまうのは、

「優越感。」

「自分のほうがわかっている、教えてあげなければ。
ネットの人々も誘導されやすい、
自分が導いてあげなければ。」

批判された人はこの、

「上から目線=自分の尊厳が雑に、下に、置かれる」

ことに傷つく。
そして、優越感と同時に「もう1つ」伝わっている
ように、私は思う。

なぜ、批判を本人だけにそっと言わないのか?
なぜわざわざ自分より下を探し、人前で、あげつらうのか?

「この人よりも、私のほうが優れていることを、
多くの人に知ってほしい、認めてほしい。」

という願いがあるのかな、と思う。
実際、私にも、そんな時期があったし、
これからだってそうなるかもしれないので、
自戒を込めて、自分に言い聞かせつつ、言っている。

批判の文章にありがちなのは、

無意識に優越感がもれてしまいつつ、
同時に、自信のなさやコンプレックスも、
読者には、お見通しになってしまうこと。

そもそも、

「人前で、こき下ろしていい人間などいるのだろうか?」

いくら、言葉が足りなくとも、
ツッコミどころ満載でも、

「その人は、私が遊んでいたかもしれない時間、
山から土のついた野菜を掘ってくるように、
自分でその題材を探し出し、切り口(論点)を見つけ、
締め切りを守って、その文章を書き上げてきたよな?」

と、私は、私自身に問いかける。
それはつい、批判がましい、あてこすりのようなことを
高い所から見て、ネットに書きそうになった時に。

すると、すーっと、おさまり書かずに済む。

人が一生に書ける文章は限られている。

そのいくつかは、消えないで
ネットにずっと残っていく。

その限られた文章が批判で終わってしまわないように。

だれでも自分の心底に「書きたいもの」はあり、

それは枯れない。
生きてる限りフレッシュに湧き続ける。
そして、それを掘り当てる「考える力」は、
みんなにある。鍛えればどんどん伸びる。

「書きたいものはすでにあなたの中にある。」

そこをもっと信じて、
読者を信じて、

まっすぐ自分の書くべき課題に
向かっていこう!
と私は思う。

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2018-07-18-WED

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