YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson882   2つの文章


ネットで書き続けるには、
批判されたり、ディスられたり、を
のりこえねばならない。

私も自分の書いたものを悪く言われるのはツラい。
内臓がぐるぐるする。

でも、3日以上は引きずらない。

決して、性格がよいわけでも、
器が広いわけでもない私が、
嫌なことを言われても人を恨まず、
ネットで書き続けてこられているのは、

すべてあっちが悪いと思わないからだろうな。

「自分にも悪いところ足りないところはあり、
自分はまだ未完成。伸びる途中で。
これを契機に、伸びたり変わったりできる。」

と思ってるからだろうなあ。

ちょっとの批判で書くのをやめてしまう人を見ると、

「批判された。これは悪いことだ。
なにが悪かったか?
私の文章力の無さが悪い。いやもっと、
私は書く価値のない人間だ。」

と自己否定に短絡していくように見える。
でも冷静になってほしい。
ネットに書いて批判されたとき、そこには必ず、

「2つの文章」がある。

自分が書いた文章と、
そこに批判を書いてきた相手の文章。

動かぬ証拠である。

何度でも読み返せる。
ずっと残る。
多くの人が、「2つの文章」を読み比べることも可能だ。

私は、自分の書いたものを批判されたり、
ディスられたりしたとき、
無意識に、だいたい
「3つの問い」を考えてきたな、と思う。

1つ目の問いは、

「相手は私の文章をちゃんと読み取れているか?」

読み取れてないことも、実際、多いのだ。
最後まで読んでいないときも、
部分だけ読んで、あげつらっていることもある。
完全に誤読している人もいる。

相手が明らかに誤読しているとわかったときは、
そんなときこそ、しばらく静観し、読者に委ねる。

「2つの文章」があるからだ。

たとえばツイッターなら、

私の書いたツイートと、
そこに批判してきた相手のツイートと、
2つの文章を、多くの人が読み比べられる。

どっちがどうだか、読んだ人には明らかだ。

ネットのなかには、
文章を深く正しく読む人も多くいる。
そこは信じていい。

相手の誤読なら、
いずれ、正しく読み取った人々の反応の中で、
淘汰されていく。

実際、正しく読んだ人々の反応を見て、
批判した相手が、自分で誤読に気づいて、
自分で取り下げてくれたこともあった。

もし仮に、
誤読による批判ばかりが来たとしたら、
それは、こちらの伝え方の問題だったのだ。
つまり、言葉足らずだったということだ。

「これを伝えたかった」

という、元の文章よりも、もっと深めたものを、
もっと伝わる言い方を工夫して、ツイートすればいい。

批判と戦わなくとも、
元のツイートの釈明や言い訳をしなくても、
伝えたいことへさらにぐっと踏み込み、先に進んだ方が、
私はいいように思う。

自分の書いたものを批判されたり、
ディスられたりしたとき、
2つ目の問いは、

「相手から私ってどう見えてるのかな?」

ちゃんと文章を読まないで、
批判してくるというのは、いわゆる失礼だ。

たとえば、相手の上司であったり、
相手がこれから友だちになろうとしている人だったり、
とにかく、相手が尊敬している人には、失礼はしない。
たとえ批判するにしても、もっと丁寧に扱うだろう。

ネットの中の、顔も知らない相手、
だからわからないけど、つまり、

「相手は、私への尊敬が無い。」

そこだけは明らかだ。
相手には、どこか一段低い存在として私が映っている。
だから大切な人には見せない、

「人間の底」

の部分を、無意識に私に向けている。
でも、だったらその人は、

「自分より低いと思ってる人間のことを、
なぜ批判して、より低めなきゃいけないのか?」

そこがわからない。
わからないのだけど、そんなふうにして、、
嫌なことをされても、それでも相手のことを考え、
相手側から見てみて、損はない。

「相手からは私はこんなふうに見えるのかな」

「相手にしてみたら、私がこう映ってるんだから、
だったら、こう言うよな」

と、自分の枠の中でしか考えられない自分が、
ちょっとだけその枠の外から自分が見える。

自分に心地よい人とだけ接していると見えない、
視野があることにも、
そこから自分がどう見られてるかにも、
ちょっとだけ気づける。
その感覚がいやじゃない。むしろ、

心の余裕を生む。

自分の書いたものを批判されたり、
ディスられたりしたとき、問う、
3つ目の問いは、

「なあ、私。
さっきから、自分の文章批判されたとか、
ディスられたとか、怒ってるけど、
だったら、自分は完璧なわけ?
あっちが全部悪いわけ?」

と問うと、全然、そうじゃない。
まだまだまだ、の、まだまだまだの私。

書いたものも、人間的にも、やってることも。

失礼な批判がずけっときた時点で、
相手の私に対する尊敬は無い。
それは、私のやっていることが
まだまだ世の中に伝わってないということだし、

自分はこれから伸びるし、
本も書くし、

「自分はまだ未完成で、伸びる途中」

そう思うと、ふしぎに批判もひきずらず、
恨まない。

「2つの文章」

私の書いた文章と、
そこに「人間の底」を無自覚にぶつけている人の文章。

この距離こそ、
私が現実の中で、まだまだまだ、
伝えなきゃいけないこと、やらなきゃいけないことが
たくさんある証拠だ。

「この伸びしろに希望がある。」

ネットで書く人は、
「2つの文章」を
公平に正しく読み解く「読者のチカラ」と、
自分の伸びしろを、もっと信じていい、
と私は思う。

ツイートするFacebookでシェアする


山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2018-07-04-WED

YAMADA
戻る