YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson878
   自己ベストのそのちょっと先



「容姿・技術・才能すべてそろっているのに、
なぜこの人は突き抜けないんだろう?」

わたくしごとだが、ここ4年ひっかかってる人がいる。

顔・身長・プロポーション・歌・ダンス、バツグン!
もっと売れてもいいはずなのに、
もう一つ突き抜けない人だ。

かりにAさん(イニシャルではない)と呼ぶ。
Aさんは十代から図抜けた才能があった。

「事務所が力不足なのではないか?」

という人もいる。
百歩譲ってそうだったとしても、

「何かが足りない。」

CDを聞いても、ライブに行っても、
すごいな、うまいな、素敵だな、と思う。
でも「感動の1歩手前」で、いつも止まってしまう。

そんなあとは、もの足りなさを埋めるため、
私が「突き抜けてる」と思う人の、
CDを聞くなり、ライブ映像を見るなりする。

みなAさんのようには何もかもそろってはいない。
容姿にコンプレックスがある人、声質が悪い人、
欠点や破綻がある。にもかかわらず、

ガツン!とくる感動がある。

「Aさんには、何が足りないのだろうか?」

悪いところが見つからない。
それどころか、先に売れた人を見て、
「Aさんのほうが声質もいいし、歌もうまいよな」、
「実力はおんなじくらい。だったら、だんぜん
Aさんのほうが顔もスタイルもいい」と、
優れているところばかりが見つかる。

とうとつだが、
ある日、「イケメン」の定義を考えた。私の定義は、

「その優れた容姿以上に、優れた何かを持った人。」

たとえば、羽生結弦選手を語るとき、
1番にくるのは、「世界一のフィギュアスケーター」だ。
容姿もあんなに素晴らしいのに、
それより優れたものがある。
これぞ真のイケメンと思う。

人は、優れた容姿に、釣り合う内面を期待してしまう。

優れた容姿でも、内面がダメダメなら、いずれ幻滅する。
優れた容姿で、内面が優れていても、とんとん。

優れた容姿で、それに勝る内面ができてきたとき、
本当にかっこいいと、人は感動する。

だから容姿がいい人ほど、内面を磨くハードルは高い。

そう考えて、はっ、とした。

そうか!

容姿も、才能も、技術も完璧なAさんは、
容姿も、才能も、技術も完璧だからこそ、
人を感動させることが難しいんだ!

人は、「器以上の何か」に感動する。

文章表現教育の現場でいつも思う。

チカラ100の人が70で書いても、人は感動しない。

うまいね、すごいね、でとまってしまうか、
うっすら手抜きさえ感じてしまう。

でも、チカラ65の人が70を書いたら、
読んだ人は、めちゃめちゃ感動する。
その人の「器以上の何か」を生み出した熱に打たれる。

かりにAさんが、
容姿100、才能100、技術100として、

100のものを見せて、とんとん。
人と比べるとすごくレベルが高いにもかかわらず、
「うまいね、すごいね」で終わってしまうかもしれない。

感動を生むのは、その完璧な「器以上の何か」。
そもそも自分というハードルがめちゃめちゃ高い。

さらに、まわりのだれもがAさんに及ばないという環境で、
自己ベスト以上を出し続けるのは厳しいことだ。

私たちは、自分のチカラよりはるかにスゴイ人と比べ、
すくんでしまったり、あきらめたりしてしまう。

文章表現においても、100のチカラのプロと比べ、
「50のチカラの自分が何書いたって意味がない」
と、書く前から落ち込んでしまう人もいる。
たしかに100の完成度に近づくには年数が要る。

でも、人を感動させる文章は、
そんな100のような、遥か遠い彼方にあるのではなく、

たとえば51、

「自己ベストのそのちょっと先」

にあるのではないか。
と私は思う。

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2018-06-06-WED

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