YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson865
       甘やかされて育つとは



「甘やかされて育つ」って、
本人のせいとは言えないのに、
本人があとあと本当に大変だな。

「甘やかす」、と言えば聞こえは優しいが、
実際は、

「思い通りにならない状況に、
本人が努力したり工夫したりして働きかけて
突破する教育をしない」、に等しい。

訓練のないまま思い通りにならない社会へ。

放り込まれた先は、
甘えが通じない、本人にとって厳しい道だ。

文章表現教育を通して、
実に多様な人の生い立ちに触れて、
中でも、私が今もっとも気になるのが、
甘やかされて育った人のその後の苦労だ。

たとえばAさんは、
(プライバシー保護のため改変を加えてお伝えする。)

ほぼ両親に叱られたこともなく、
欲しいといったものは買ってもらえ、
やりたいということはやらしてもらえ、
ほぼ全て、自分の要求は叶えられて育ってきた。

末っ子なので、
たとえきょうだいげんかになったとしても、
結局は兄・姉が譲ってくれ、こらえてくれて、
いちばん幼いAさんが、いつも最優先されて育った。

それが、小学校にあがって行き詰まる。

たとえば、
子どもが何人かで遊んでいるとき、
おいしそうなイチゴのケーキは1つしかなく、
みんなほしがり、
他は子供にとって見栄えが悪いケーキばかりという時、

だれがイチゴをとるか?

Aさんはためらいなくサッとイチゴを取ってしまう。
たとえ取り合いになっても、絶対ゆずらないし、
決して引かない。

やがてクラスの誰一人、Aさんと遊ばなくなる。

Aさんは、
なぜみんな遊んでくれないのか全くわからず、
自分に非があるとはみじんも思わなかった。

私も末っ子なのでよくわかる。

私も、物心ついたころからずっと、
母や姉が、いちばん幼い私に、
いちばんいいものを取らせてくれた。

しかも、かなり大きくなるまで、
私はそれを当然のこととして、
母や姉の我慢に気づきもしなかった。

「甘やかされる」は、
ときに「訓練スルー」にもなるし、
さらに、「逆ナビゲーション」にもなる。

私も、
私が、わがままに何のためらいもなく
一番いいものを取れば、
=母も姉も幸せで、
=私さえ幸せなら周りも幸せ、
というような、自己中心的な思考回路や性分を
叩きあげられかねなかった。

でも現実、社会に出たら、
だれも私に一番いいものをとらせてはくれない。

いろんな人の要求がぶつかる。

だから、小さいうちから、
「分け合う」とか、「公平」とか、
どっかなにかで訓練されてもいいんだろうな。

物心つく、人としての基礎ができるころからコツコツと、
頭のやわらかいうちに。

Aさんは、

小学校でだれも遊んでくれないことを両親に話し、
両親はとっても優秀な人なのだろう、
学校にうまく話をもっていき、
結果、Aさんと遊ばないクラスメイトと
その親御さんたちが、
わびる形で一件落着。

以降、Aさんは疎外されなくなった。

両親にたすけられて良かったとも言えるし、

そのことで、
Aさんが友達とのつきあい方を見直したり、
人付き合いを訓練する機会を失ったとも言える。

Aさんは中学に進むも、友だちはできず、疎外された。

自分は自分のままに、わがままに
生きてきても、家庭では全面的に受け入れられ
愛されてきた。

しかし、学校では疎外される。
その理由もわからないし、自分は悪くないと思っている。

この状態にいる人が、性急に、
自分に注目してくれる関係性を求めたり、
ちやほやしてくれる人間関係を欲しがっても無理はない。

Aさんは、
自分と同じように学校から疎外され、
たむろし、世間から不良と見られているグループに
強く引かれ、手段を選ばす仲間に入れてもらい、
さらに、一目置かれる存在になろうとする。
そのために非行に染まっていく。

手段選ばずの関係が長続きするはずもなく、
Aさんはやがてグループにもいられなくなり、
学校には非行がバレ、
いよいよ人生に行き詰まった時、
救ってくれたのはご両親だった。

人生で、ここだけは怒っていいだろうという時、
両親は怒らなかった。
それどころか捨て身でAさんを支え、
その両親の姿勢を見て、人生初めてAさんは、

「利他」

を学んだのだ。
Aさんが人生で誰からも教えられてこなかった、
そのため訓練することのなかった、利他という接し方。

自分の利ばかり考えるのではなく、
相手の利、とりわけ、大切な人を利するために、
自分の想いや言動をつくすということ。

これを契機に、Aさんは変わり、
ちょっとずつ、自分の利と他人の利の調和をとることや、
ぶつかったとき、考えて突破することをやり慣れていった。

そこから、人間関係も、進路もひらけていった。

甘やかされて育つと、
その甘えが通じない社会に入って本人は苦しむ。

しかし、その苦しみが、Aさんのように、
訓練の機会となって、人は変われるし、
いつからでもやり直せる。

でもできれば、
小さいうちから、日々ちょっとずつ、
社会に出て必要なチカラを訓練されるとよいなと思う。

みんなの要求がぶつかるなかで、
それでも勇気をもって「ほしい」と手をあげることとか。

手をあげる人がたくさんいて、
みんなに行き渡らなかったら、どうするか、

そこで「話し合う」とか、「順番」とか、

公平に、それぞれに納得感があるように、
決めていく手立てもあることとか。

みんなを悲しませて自分一人いい思いをしても、
他の人が悲しんだら楽しくないこととか。

そのために、ときに我慢する筋肉も鍛えてみるとか。

我慢ばっかりじゃ自分が辛いから、
集団の中で、自分もまわりも、
楽しくなるにはどうするか、
考えて、ブレイクスルーすることとか。

甘やかすと本人のためにならない、
だからと言って「厳しく」というつもりは全くない。

厳しすぎて、ついていけなくなり、
その場しのぎの嘘をつくようになった人や、
家出をした人の文章も私は見てきた。

大事なのは、
甘やかすか、厳しくするかではない。

必要な訓練をいつ、どんなカタチで行うか?

できれば楽しく、
と私は思う。

ツイートするFacebookでシェアする


山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2018-02-28-WED

YAMADA
戻る