YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson863
        自分になる訓練



なんか心がざわざわするとき、
自分の納得ラインに何かが達していない。

先日も、そんな感覚があって、
出来上がっていたものを半日かけてやり直した。
なんの得にもならないし、だれも褒めてくれない。

でもやり遂げたとき、
しっくり、すとーん! と腑に落ちて、
なんか活き活き元気が湧いてきた。

「努力全部 私になる」

という歌詞を聞いた。
テレビでアイドルが歌ってて、
よい意味でひっかかった。

努力して自分を変える、でもなければ、
新しい自分をつくる、でもない。

この、鍛えて「自分になる」という感覚、

わかるな、しっくりいいなと思った。
そのときピーン!と、学生の次の言葉を想い出した。

「自分らしさとは、
けもの道を駆け上がるように生きて、ついた筋肉。」

自分らしさとは、探したら落ちてるものじゃない。
求めて動いてできてくものだと私も思う。

自分自身をふりかえって、
努力もせず、ボーッと何にも考えず生きてた頃は、
「自分らしさ」と言われてもろくに何も出てこなかった。

「自分未満」、という状態が人にはあると思う。

自分未満な感覚が、数年前、
自分をざわざわと苦しめていて、

それは理想に近づけないとか、
レベルアップできないとかいう
ツラさとは、質がちがっていて、

「いまのこのままの状態に甘んじれば、
自分以下に成り下がっている」

という、ざわざわ消耗していく、嫌な感じなのだ。
「じゃあ、やれば」、なんだけど、
いざやろうとするも、体力・気力・知力・習慣、
備わってない。
やりかけては頓挫する、この繰り返し。

これじゃいけない、と3年前、

だれからも強制されないし、
やったところでだれも褒めてくれないが、
「自分以下に成り下がってざわざわするんなら、
物理的に苦しくてもやったほうがまし」
とコツコツコツコツ、体力・気力・知力の限界を
のりこえて、やり抜いた。

達成したところで、格別の喜びはない。
でももう、「自分以下」のざわざわは責めてこなくなった。

翌年からは、キツイけどやれるようになった。
今年からは、やれてあたりまえになるだろう。

まさに「けもの道を駆け上がってついた筋肉」がある。

学生の言葉どおり、この筋肉が、
いまの「自分らしさ」をかけがえなく構成している。
一念発起しなければ、
いまだ自分になれないままだったろう。

「努力全部 私になる」

とは、癌克服のため声を手放し、
ハロプロのプロデューサーを終えて、
新たな人生を新たな土地で生きる
いまのつんく♂さんにしか書けない曲、
「青春シンフォニー」のなかの言葉だ。

そして、余計な筋肉をはりつけてしまった大人は、
一度それを捨てることで自分になる、という側面もある。

ささやかな仕事でも、自分の感覚に忠実に
妥協なく仕上げるってすごい勇気がいる。
つい気を使って、
「せっかくここまでやって下さったんだから」、
「いまさらこんなことをご迷惑だろう」、
と引っ込めそうになる。

先日もそんなことがあり、
きっと社会生活を長く送るうち、私の中に、
相手の顔色をうかがう筋肉、
まだ言ってみてもないし、誰からも反対されてもないのに、
気をつかって引っ込める筋肉ができていたんだろう。

先日は、そこを勇気! 勇気! で何度も突破した。

仕上がったものは1%の曇りもなくいい!
なんか泣きそうになった。

ざわざわする、また新たにざわざわする。

ひとつ筋肉をつけると、
自分らしさは更新されて、そんな自分がまた、
新たな「自分以下」にさいなまれて、ざわざわする。

自分で決めて、コツコツやり通して、
できなかったことが、あたりまえにできるようになるころ、
筋肉もついて、習慣も追いついて、

「自分になる」

次はどんな筋肉がつき、
どんな自由が待っているのか、
それを楽しみに、また新たなコツコツを始めていこう、
と私は思う。

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2018-02-14-WED

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