YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson858
      誰かの一言で人生は変わる、か?



誰かの一言で人生が変わる、
なんて安直だと、
私は、ずいぶん長い間おもっていた。

それが、いつの間にか変わっていた。

先日も、
一言で人生の闇から脱却したという学生の表現に、
心洗われ、揺さぶられ、涙する自分がいて、

「自分はなぜこんなに素直に感動できているのだろう?
以前は、たった一言でなんて‥‥、と冷めてたろう」

そう考えて、気づいたことがある。

若い日の自分こそ安易・安直だった。

自分では、
なにも考えず、表現せず、発信せず。

言葉を自家栽培してないから、
影響を受けるのは常に「人の言葉」で。

刺激的な言葉に出くわすたびに、
心をあっちへ、こっちへ、と持っていかれ、
影響されやすく、かぶれやすく、
そのくせ変わらない自分がいた。

表現するようになって、

自分で考え、自分の言葉をコツコツと書くようになって、
とてもじゃないが誰かの一言で変わるような、
やわな自分じゃいられないと痛感した。

自分を変えるのは、
地味で粘り強い日々の取り組み、の持続。
それによって新しい習慣を創ることだと。

そんなころには当然、

「ある人の、こんな一言に出逢って、私は変わったの。
いい言葉でしょう! この言葉。」

と言う人に、どうにもノレない自分がいた。
昔の自分を見るようで、
いまだ脱却し切れてない自分の安易さも見るようで、

「その言葉、あなたには響いても、私には響かない」と。

それが、表現教育を通じて、たくさんの人の
「人生でこの一本!」と言えるくらい渾身の
文章表現に触れるうち、

実際、そうでもない、

実に多くの人が、誰かの一言に救われている。
しかも、安易でもなければ、安直でもない。

とわかってきた。
ちょうどいま、私は、
2つの大学で発表会のシーズンなのだが、
学生の心底の表現発表に触れ、
授業でこんなに心をふるわせていいのか
というくらい心をふるわせている。

中でも特に感動したのが、
家族の死から立ち直った人の文章表現で、
とくにその人は、
自分のせいで大切な人を亡くしてしまったと
自分を責め、ご家族からも責められ、
地獄のような数年間から、立ち直った。

そこにまさに、「誰かの一言」があった。

私は、読んで、
これを書くのにどれだけ勇気が要っただろう。
さらに、この人がこの一言に出逢うまでに
どれだけの闇を、どんな想いで持ちこたえ、
のりこえてきたのだろう。
しかも、読む人に希望を与えるまでに深く掘り下げて‥‥、
と感じ入った。

そのあと、改めて気づくことがあった。

「決して安直ではない。」

誰かの一言で人生変わったと言っても、
決して、安直ではないケースがたくさんある。
そういうケースでは、

その人はそのことにさんざん悩んで、
向き合って、模索して、
手さぐりで、歩いて歩いて、たどり着いた出口付近に、
その言葉が落ちてた。

つまりその人は、乗り越えて、自力で、
言葉があるところまでたどり着いたのだ。

もしも、

誰かの一言で人生変わった、と言われて、
話にノレない、その言葉は自分には響かない、という
かつての私のような人がいたら、

「その一言にたどり着くまでに、
その人が、どれだけ持ちこたえ、模索し、
暗闇のなか手探りで、歩いて、歩いて、
自力で進んできたか」

その道のりを想えば、
そこになら寄り添えるのではないだろうか。

「次の出口付近に、どんな言葉が待ってるか?」

そこを楽しみに、当面そこまでは、
自力で進んで行こう! と私は思う。

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2018-01-10-WED

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