YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson829
   読者の声 ― 「未熟」その2



「未熟」について、
たくさんの切実な反響をいただきました。

「自分でも、ここをなんとかしなければ
この先へは進めないと気づいた。
気づかず、まわりのせいにしていた頃は気がラクだった。
気づいてしまったら地獄だ」と、

そんなふうに苦しみ始めた人に、

「読者の感じる出口」

を示しているおたよりも後半たくさん載せています。
希望があります。


<長く付き合ってくれていた友人を>

私は、小さい頃から“お山の大将”で、

自分よりも弱い人(子)たちを友達にして、
自分は強いんだ! えらいんだ!と、
自分の友達なのに、
できない部分を指摘し、傷つけ。

自分が今興味があることと、
同じ興味を持つ人を友達として、
生きてきました。

今でも仲良くしている
学生時代からの友人という存在がありません。
年賀状のみです。

誰とでも仲良くなれるけれど、長続きしない友達関係。

こんな私とでも、
長く付き合ってくれていた友人二人を、
数年前に無くしました。

その原因は、

私の短気でもあり、
相手の個性や考え方を尊重できず、
罵倒してしまい、自分から連絡を取らなくなりました。

「私の考えに賛同できない人たち
(私の意のままにできない人たち)なんか必要ない!」

友人にとって、必要ないのは私の方だったのに。

20代、30代、40代の思い出を一緒に語れる友人
を失いました。

取り戻すこともできず、新しい友人を構築するのも怖く、
私は今、ひとりです。
(Michiko)


<皆が同じことを言う>

“未熟”を読んだ後、
下腹がしぶるほどの衝撃を受けました。

これは今の私のことを書いている。

仕事も私生活も、なぜかうまくいかなくて、
まるで人生が自分に意地悪しているように感じ、

その重さ、息苦しさから少しでも逃れたくて、
新たな人間関係を築いたものの、やはり回答は同じ。

皆が同じことを言う。

同じ人間に対してなのだから、当たり前のことなんだけど、
他人ばかりに厳しくて、自分が見えない未熟な私には、
なぜなのかが判らない。

私は本当に未熟なのだ。
そのことに気がつかないくらい、
自分のことが判っていない。

幸いにも、私のことを思いやってくれて、
言いづらい忠告を声を大にして
叱ってくれる人達に恵まれている。

真実の言葉が耳から入ってくるのに、
受け入れられなくて、すぐに自分を守ってしまう。

このままではいけないと、心底思いました。

何もしなければ自分がダメになってしまうし、
周囲の人がどんどん去って行ってしまう。

これまでは、注意されると

すぐに反省して、すぐに改善しようとしていたけれど、
すぐにまた同じ過ちを繰り返す‥‥その繰り返し。
我慢を重ねてくれた人達も、いい加減うんざりして
距離を持とうとするようになる。

改めて良く考えてみれば、

こんな大きな問題が、
一度や二度注意されたからって、すぐ直るはずもない。
もっと長い時間をかけて、
じっくりと取り組むべき、
地味な鍛錬を要する課題だったのだ。

今日から自分の未熟さに目をそらさず、
人の言葉に耳を澄まし、目の前のことに真摯に取り組もう。

頭だけで理解するのでも、言葉だけで発するのでもなく、
行動に反映し、実践に移そう。
(エリコ)


<でもこの状況でも>

今まで母親として未熟だった。

今、子供自身が自分の未熟さに気づいて
成熟へと向かってほしいと願うばかり。

気づくことができる子供に育てることができただろうか。

見守るしかない現在、とっても苦しい日々。
でも今この状況でも母としての私の成長はあるのだ。
(まあさ)


<「聞く」というのは、>

言葉通り、まわりの人が言っていることを聞く
というだけでなく、
自分の身の回りで起きている出来事の

「意味を考える」

ことも、聞くことかなと私は思いました。
(アセロラ飲み子)


<根気も>

周りの言おうとしていることを素直に聞くことは、
今の自分に足らないと気付きました。
やるべきことをコツコツ
二、三年やり続ける根気も必要なんだと思いました。
自分を変えるのも、簡単ではないことを
改めて知ることができました。
(A.T)


<気持ちを穏やかに余裕を持って>

自分でも「なんかここがねえ」、
という未熟さが恥ずかしいです。

いっそ気がつかなかったほうが良かったかもと
思う時もありますが、
コツコツとなんとか良くなって来た気もします。

気持ちを穏やかに余裕を持って行きていけば
痛いところがなんと収まってくる、はず、
と思っています。
(なすび)


<気付いたほうが傷は深い>

仕事で、
自分が無理だと思っていることや、
やりたくないことを頼まれたとき、

反射的に拒絶を示しながら
感情的なコミニュケーションを取ってしまいがちで、
後からいつも、

「またやってしまった。。。」

と自責の念に駆られます。
でも、そんな時に、

「言い方はともかく言っていることは正しいはず。」

「完璧な人などいないのだから、
人はお互い様で他の人もこういうことあるから大丈夫。」

と自分を甘やかしていました。
見ないように逃げていたんだと、はっとしました。

気付いていないより、
気付いていながら放置するほうが傷が深い。

時間はかかるけど治せるのだと信じて、
ズキズキと痛む胸を抱えて
試行錯誤していきたいと思います。
(はな)


<細かいことから、数年がかりで>

わたしは、
「前のめり」で「先のこと」が気になりがちでした。

でも、ここ数年考えて、

わたしの思考でつくられている「先のこと」に
わたしの感じる「現実を合わせてつくっている」のでは
ないか、

それは、未熟さゆえの自己中心的な見方で、
自分以外の

「外がない。」

もっと、
周りの人や、物や自然を感じながら
様々な事をやると
自分の「外」と交流ができるのではないか、

と気がつき、数年がかりで細かいことからやっています。

例えば、
20回は噛んで味わいながら食べる、とか
相手の話を聞く時は、
相手の周り数メートルも視野に入れて感じてみるとか
木や、草や、空や太陽を感じてみる、とか

少しずつですが、
前より外と交流できるようになった気がします。
(新潟県 p)


<書いて、意識化して>

ある文化人が、

「他人と争うな、己の無意識に挑戦しろ」

と言った。
「書く」ことで意識が生まれるのかもしれない
と私は思った。

私は敬語の使い方を同僚に指摘された事がある。

私はメーカーの人間として、
自社製品を内職さんに生産していただく業務も行っている。
その内職さんに対しての言葉遣いが丁寧すぎる、
というよりも同僚は、

偽善者っぽく聞こえると言うのだ。

私は正直、え!! と驚いた。

感謝の気持ちから自然と会話していたことが、
偽善っぽく聞こえると。
何日か過ぎて、そのことを日記に書いてみた。

ゆっくり考えた。

結論は、
やっぱり今までと同じように内職さんと接していこう、
と綴った。

感謝の気持ちを持って接することは
意識的から無意識になっていた。
心底そう思って何十年やってきているのだから当たり前だ。

同僚の言葉は無意識に再度意識をもたせてくれた。

敬語じゃなければ感謝の気持ちを
表現できないわけではない。
言葉と表情で会話はするものだ。
そして心が伝わる。

その大前提を再認識した上で、
今後も内職さんへ自分の想いを
自分らしく表現して接していこうと思う。

同僚に感謝する。
(蟻が10)



「未熟」な部分がない人っていないんじゃないか、
と私は思います。
私生活なら、人間の味にしていける未熟も、

その道でプロとして進んでいくには「ネック」となる。

それを放置する人、

安直な変節で変えようとする人、

コツコツ鍛えて何年がかりで習慣ごと、
それができるようになる筋力を育ててのり越える人、

対処の仕方はそれぞれですが。

「進みたい道を極めていく」という本筋があってこその
「未熟の克服」、
(例えば、ライターがプロとしての道を進んでいく、
という本筋がちゃんとあってこその、そのための、
締め切りが常習的に守れないという悪しき習慣の克服)
なのだと私は思います。

きょうは、これらのおたよりを紹介して終わります。


<どうして自分は変われたか?>

自身を振り返ると、
人とかかわりを求めているのに、
一方で相手に自分の内面をオープンにするのは苦手で、

関わってくる人に対してシャッターを降ろす

ということを繰り返していました。
当然、人と良い関係は結べません。
窓を開けて手招きしているのに、
近づくと窓を閉めてしまっているようなものですから。
相手にとっては訳が分からないでしょう。
でも当時は、

自分自身がそうすることを選んでいる自覚はなくて、

自分を守るためにただ必死なだけでした。

しかしそれでは、
他の人への関心は自分にとって安全かどうかだけで、
その人の本当の姿は見えていませんし、
出会うことも出来ません。

痛い目にあってもなかなか
自分のかかわり方の癖には目がいかず、
相手の方ばかり見ていたように思います。

最近になって、かつての自分と同じような人に出会いました。

関わり方の癖を指摘されているのですが、
自分の未熟さには気づかない。
その様子を見ていて、

「どうして自分は変わったのだろうか?」

と疑問がわきました。
関わるのは面倒だし、
やめておこうとなってもいいはずなのに。

「それでも関わり続けてくれる人がいたおかげで、
変わるチャンスが与えられていたのだ」

と思い当たりました。
未熟な人は自分の都合でしか見えないから、
他者と出会うのは難しいですが、
それでも他者がいる限りは、可能性はありますし、
本来人には他者とつながる能力があるはずです。

自分がそのように気長に関われるかと問われたら、
まだまだ未熟ですが、
どういう人でも可能性はあるはずだと信じられるのなら、
かつての自分自身のような人への関わり方も
変わるのではないかと思っています。
(たまふろ)


<友達>

幸いにも、私のここを直した方がいいよと
率直に言ってくれる友達がいます。
その言葉を素直に聞いて気をつけていこうと
ゴールデンウィーク明けから
心に静かに誓っていたところで読んだ「未熟」です。

本当にタイムリーでした。
(M)


<未熟を包んだままで>

未熟だからいろんな困難や喜びがある

正確なことは機械がやってくれるから
いいかげんなことは
僕ら人間にしかできないから

もっと
しくじった
いいよ
気にすんな
しかたない
飯食おう
明日遊びに行こう

そんなコミュニティでありたい

良い加減で
愛し合いたい
許し合いたい
(icuteachersband)



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2017-05-31-WED

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