YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson801 自意識はのぼる


意識高い系と、自意識高い系は、
微妙にちがっている。

いわゆる「自意識ライジング」というものは、

本人が高みにいると
思い込んでいるだけで、

実像はそんな高みにいない。

地面にいる。
まわりもわかっている。

だから、そこから飛び降りたって大丈夫なのだ。

プライドは骨折するけど、
もともと、そこに段差はない。

「自意識はのぼる。」

ほっとくと
実像とズレていく。

たとえて言えば、

しばらく体重計に乗っていないとき、

自分では、
「ゼッタイやせてる」
と思っていても、

実際、体重計に乗ったら、
すごく太っていて、

「思う自分」と「現実の自分」にズレがある。

それと似ていて、

平凡な良さのある人が、
「自分はなにか特別な存在だ」
と思いこんでしまったり、

素朴さが持ち味の人が、
「洗練」を意識してふるまったり。

本人、気づかず、高みに自意識を置いていて、

でも、まわりはズレをお見通し、というとき、

まわりはその人のことを
「イタイ」、
というのだろう。

自意識ライジングはだれにもおこりうる。

私も何度もある。

いまもそうかもしれないけれど、
自分では気づけないからやっかいだ。

でも、一つ言えるのは、

ちょくちょく体重計に乗っている人が、
そのたびに、ズレに気づけて
ズレを修正できるように、

ちょくちょく「表現」をするようになって、
自意識と実像のズレに、
いやがおうでも気づかされ、
ちょくちょくズレを修正できるようになった。

小さなことでも、
自分の想いを、言葉なり行動なりで、
勇気を持って、
人に対してちゃんと表現してみると、

相手の反応を通して、
自分の実像が、かいま見える。

「かなしいけど相手の反応が鈍いな」とか、
「ああ、やんわりと断られたな」とか、

そのたび、
「自分ではもうちょっとイケてたつもりだったが、
 全然イケてなかった」
と気づかされて、

自意識を修正、修正!

だけど、そんな環境にいてさえ、

気づかぬほんのちょっとの間に、
実像を離れ、
1ミリ、2ミリ‥‥と昇ってしまった自意識の、

「ほんのちょっぴりの段差」からでも、

降りてくるのは、
つくづく恐いものだなと思う。

「さみしい」と言えない。
「わからない」と言えない。
「できない」と言えない。

それを言ったら、なんかこっぱみじんに
なるようなカンジにとらわれそうになる。

慣れないし、
そのたびに勇気が要るけど、

おかげで勇気の筋トレが毎回できてありがたい。

だから、

これといって「自己を表現すること」を
習ってこなかったし、
やってこなかった人が、

就活でいきなり自己表現を求められて
すごく恐いだろうなあ、ということは、
他人事でなく、自分にも切実に響くのだ。

しばらく体重計にのってないとき、
体重計にのるのは、
なんだかわからないけれど私はものすごく怖い。

体重みたいなちっぽけなことでも、
自分の正体を見るのは恐い。

ましてや、就活となれば、
ホラーなみに恐い、逃げたい、と言う人がいて
あたりまえだ。

私は、いつも思うのだけど、
自己を表現するのが恐い、
それによって自分の正体を知るのが恐いと自覚している人は、
まだ強いのであって、

ほんとうに恐がりの人は、
自分の恐怖や逃げからも目をそむけ、
それは、

周囲への不満や攻撃となってあらわれる。

のぼってしまった自意識から
降りなきゃいけない状況になってもまだ、

だれかをこき下ろすことで、
自分の高さを保っていたいという
気持ちまで働く。

でも考えてみたら、

自意識から飛び降りたって、
もともとの自分の実像にもどるだけ、

そこに段差はない。

本当の意味で高みにいる人、
社会的な貢献がすごかったり、責任が大きかったり、
たくさん稼いで多くの人の生活を背負っていたり、
そんな人が、そこから降りてくるのは、
実際に失うものが、
仕事だったり金銭だったり、関係者の生活だったり、
たいへんなことになるのに比べると、

自意識ライジングから降りてくることは、
実は、ぜんぜんたいしたことないのだ。

と私は私に言い聞かせたい。

自己表現というものは、
つくづく等身大でないとはじまらないと
私は思う。

自意識を高みにおいて、
その高みの自分に、似合う服を選んだって、
似合う人生をカタログのなかから選んだって、

想いはここにあり、

想いとずれたまま、
何を着せても、
どんな見栄えのいい選択肢を選んでも、似合わない。

虚しい。

自己表現は、

どんなにちっぽけでも、
どんなにかっこわるくても、

ほんとうに自分が想っていることを
人に対して、言葉にしてちゃんと伝えることから
はじめるより、ほかにない。

正直な想いを、そのまま出したって、

それで相手に引かれることもあるし、
嫌われることもあるし、
自分で言って、自分でサムイ、と引くかもしれないけれど、

ここからはじまるんだ。

ここから、
なにがいけなかったか、
どうしたいのか、考えて、改めて、

次はもっと自分でサムくないように、
次はもっと通じるように、

自分の実感がありつつ、
人に説得力を持って伝わるものへと
表現しながら、自分と人との間で、
コツコツ鍛えていくしかない。

自分の想いに忠実に、
自己ベストで伝えたものは、

玉砕したとしても、不思議に嫌な後味が残らない。

むしろ、サッパリと勇気が湧き、
自分で自分を好きになり、
さらにがんばろうと思えるものだ。

逆に、ほんとうの想いを出すのが恐くて、
自分を出さずして、
何かの引用とか、ウケウリでやりすごしたり、
ましてや、何かを批判することでかわしたりすれば、
うまくいかなかったときの後悔はやりきれない。

自己表現は、
勇気が要るが、それ以上に
歓びの深いものだと私は思う。

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2016-10-26-WED

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