YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson800
 読者の声―私がいるところは全部のなかの一部



本人は、
「すごく重要な相手の盲点を指摘した」
と思っても、

その問題をもっと広い視野から見ている
相手から観れば、

「さまつな所にとらわれて、
 そこで思考がとまっているだけ」

ということがある。

いま自分が立っているところが、「部分」であり、
その外に語られない全体がある、

そこを意識してものを言いたい。

という先週のコラムに、
読者からおたよりを多数いただいた。
さっそく紹介しよう!


<患者さんのところにたどりつくまで>

先週の「私がいるところは全部の中の一部」、
すごく共感しました!

看護師の仕事をしていて
ナースコールを押した患者さんの対応を
すぐにできなかったとき

「遅い! いつまで待たせるんだ!」

と怒られることがあります。
その患者さんのところにたどり着くまでに

生命に関わる優先順位を考えて、

例えば痛みのある方に痛み止めを投与したり
痰が絡む方に痰の吸引をしたりしているうちに
お待たせしてしまうことがあります。

患者さんにとって1人対1人でも、
看護者にとっては1人対40人、あるいは1人対60人、
あるいは1人対緊急入院対応や急変対応
という構図を分かっていただけないときに
心苦しく思う時があります。

患者さんにとっては一大事
(例えテレビのリモコンが落ちた、
 ティッシュ箱が落ちた等でも)
のことで早く対応して欲しいのに、
看護者には分かってもらえないと
思っているのかもしれません。

分かり合えないことは悲しいです。

「私がいるところは全部の中の一部」
という言葉から客観的な視点(鳥瞰図みたいな)を
忘れないようにしようと思いました。
(LW)


<より遠くを>

先週の、全体の中の一部のお話。

私は遠い視点、近い視点ということをよく考えます。

共同で仕事をするとき、
同じくらいの距離を見つめる視線があると
話が通じ易いように思います。

自分より遠く、深く物事を見ている人には
感じ入ることがありますが、
近い距離でしか物事を見ていない人には、
もどかしさを感じます。

視線が近く、部分的にしか見えていない人は
意見が断定的で口調が強いようにも思います。

以前、仕事の打ち合わせで、
断定的な思い込みの強い意見を言われたとき、
その勢いに気おされて何も説明できなかったことがあり、
後悔し、これからは、
ちゃんと説明をしようと思っていますが、

わかっているから黙り込むこともあるのだ、

とも思っています。
何か悩み事を抱えたとき、

自分の思考が近い視線のものになっていないか?
部分的すぎやしないか?

遠く広い視線を持ちたいといつも思います。
(ぼて)


<たがいに言い合える関係を>

先週の、

「全体を見ている人に、
 部分を見せることはたやすいが、

 部分しか見ていない人に、
 全体を見せることは難しい。」

これは正しいと思います。

しかしながら、
自分は自分のフィルターを通してしか
ものを見られないものであり、

あらゆる人の「全体」を考慮しなければならない
としたら、どれほど生きにくいことか。

現在の日本社会はその方向へ突き進んでいる気がしますし、
私もそんな気持ちで何も言えなくなることはありますが、

これはコミュニケーションを貧相にしていくものであり、
人をがんじがらめにするだけだ、と思うのです。

お客様がクレームを言う。

それは営業している側から見ると的外れだ。
ということがあったら、

誠心誠意話を聞いて、
不愉快に思ったのなら申し訳ない、と謝った上で、
でもね、

「お客さん、それはちがうよ。」

と言える社会になったら、
人はのびのびと生きられる気がします。
(ゆにこ)


<組織のなかの一部として>

私の会社では、
社長主催の勉強会を行っています。

先日のテーマは「組織第一主義」。

いまの2期目のメンバーの意見を
聞いていると、

「個」があっての「組織」である。

という傾向にあるのだと感じました。
それは1期目メンバーの、

「組織」ありきの「個」だ。

というものとは逆の捉え方で、
興味深いものでした。

個があり組織がある。
組織あっての個である。

どちらとも答えは出ませんでしたが、

「組織」というピラミッドの頂点は
会長であり社長。

そして私たち社員は一番下の「土台」。

土台の私たちが「個」として、
会社が良い方向へ向かうための明るい姿勢を
持っていなければ、

組織は成り立たない。

逆さになったピラミッドを
「個」が点で支えていくのは
容易いことではありません。

この勉強会はその「土台」を
強固にするためのものであると
先日の勉強会で強く感じました。

私は会社の一部であり、
会社もまた社会の一部です。

人は一人では生きていけません。

それは、
自分の物差しだけであったり、
自分が見ている世界だけでは成り立っていないんだ
ということです。

花を咲かせるには土に根が張っています。

花を見て、
土の中の根っこを感じることができるか。

そして花以上に大切なのは、
葉であり実であることに気づいているか。

そんなことを考えさせていただいた
先週のコラムでした。
(ゆう)



「部分でなく、
 全体を見るとはどうすることか?」

SNSで、
「ケンカっぱやい」人、
しょっちゅう人につっかかっている人は、

偏狭な「部分」に固執しているように見える。

本を読んだり、
たくさんの情報を集めたりしても、
結局は、自分の偏狭な視野に引きずり込むだけ。

自分のちいさな枠組みから出て、
大海に飛び立つように、
人や情報と接するのは難しい。

読者の「ゆう」さんの、
組織全体を思うおたよりから、

私が会社に勤めていた時、
朝3分だけ、「上司の気持ちになって職場を見る」
ことをしたな、と思い出した。

思えばあれが、
部分から全体へ出発するとっかかりとなったなと。

「理解」しようとする行為は、

部分から出て、全体に向かう行為だと
私は思う。

さいごにこのおたよりを紹介してきょうは終わろう。


<ありえないと言わないで>

わたしは会話で全否定しないことを
心がけています。

中2の息子は年頃のせいか、
ちょっと機嫌が悪いと

「知らねーよ」
「ありえねぇ」

そんな言葉が返ってきます。

会社の15歳ほど若い同僚は、
自分の少ない経験から一般論を導きだそうと、

「私的にはあり得ない」

を枕ことばにして会話をします。
彼女が、ある日の昼休み、

「ボルダリングがオリンピック競技に
 採用された理由がわからない、
 たかが壁面を登っているだけに過ぎないではないか」

と、あまりにも聞き流せない発言をしたとき、
私のストッパーが外れました。

「あなたはなにを見てその発言をしているの?

 わたしはボルダリングの世界大会を見て
 その競技の奥深さに魅せられている。

 その全否定から入る姿勢には
 全面的に対峙するから
 あなたがその意見を導きだした状況を
 説明して欲しい」

と、とことんめんどくさいおばさんになって
言い負かしてしまいました。

その時を境に
彼女とは距離が縮まったようで
彼女なりに私に配慮していることがわかる発言が
増えているような気がします。

わたしの知っていることは
この世界のごく一部。

納得いかないことに対しては
わからないからあり得ないという
全否定ではなく

「わからないから教えて欲しい」

という態度で向き合おうと思います。
(キムコ)


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2016-10-19-WED

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