YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson764
 「わたしの課題」とは何か − 2.読者の声


「人にはそれぞれ向かうべき課題がある。
 いま、自分の向かうべき課題は何か?」

と考えることが、
昨年暮れから、ほんとうに自分の支えとなっており、
前回、前々回でも、ここに書いたところ、

読者から深い反響をいただいた。
さっそく紹介しよう。


<それは結婚式の日、予想外に>

先週の「わたしの課題」を読み、
結婚式のことを思いました。

私たちは二人とも、
ぜひとも式をやりたいと思っていたわけではありません。

ただ、それぞれの両親がやってほしいという希望で
進めていたのです。

家族の都合で予定を早め、
余裕のないまま準備に追われ、
出来ることは限られて、

「とにかく身内だけの小さい式でも」

と思って、
なんとか当日を迎えられました。

大雪で交通機関も乱れる中、
集まってもらった親族を前にして、

「式を挙げてよかった」

と心底思いました。
喜んでいる親族の様子を見ていると、

「自分達の一生でこれだけ人を喜ばせられる機会が、
 これからどれだけあるだろうか」

という思いがわいてきました。

式という「やるべきこと」に、
「やれる限りのこと」をやって、
その結果喜んでもらえたことで、

「これが自分がやりたかったことだし、
やるべきだったのだ。」

という納得がありました。

自分達のことしか考えていなかったとしたら、
こういう経験は出来なかったでしょう。
喜んでくれる人達がいてくれたからこそ、

自分達の枠を超えるような喜びがあったように思います。

「やりたいこと」「やるべきこと」「やれること」が
一致する機会は、意外なところにあり、
納得がいくまで力を出してやりきった時、

自分の枠の外から与えられるもののように思います。

だからこそ、その機会を逃さないようにいたいのです。
(たまふろ)


<わたしの本望>

娘と息子が2歳と4歳だったときに、
乳がんと診断されました。

幼いこどもをかかえて、大病をしてしまったことに
戸惑い、焦り、落ち込み、
必死でその時に

「子供たちに母に愛された記憶をしっかり残す」
それが私の本望だ
と絞り出すように考えました。

あれから5年、
「やるべきこと」の波にもまれる毎日を経て、
気が付けば子供たちも、夫も、私自身も、
「できること」がものすごく増えていました。

この春が、乳がんと診断されてから5年の節目、

今の自分の課題を考えてみると、
この先なにがあろうとも、

もっと「やりたいこと」のほうに勇気を出してすすむ

ことではないかと思いました。
(ゆでこ)


<なんのために>

今年小学6年生になる娘がいます。

その娘が生後6ヵ月の頃に、
私は離婚し、
それからずっと働き続けてかれこれ11年。

現在では広告代理店のデザイナーとして、
昼夜仕事に明け暮れる日々です。

そんな中、
離婚してからずっと世話になっていた実家から、
去年の1月に娘と二人で引越をしました。

引越と言っても、
結局は昼も夜も仕事で家を空けている母親ですから、
娘は実家で私の両親と三人暮らししているのが現状です。

毎日神経を削るように仕事をして、
やっと家に帰ってひとり思うことは

いつも娘のことばかり。

先週のズーニーさんの一言、
「ご両親は、さぞ自分を損なったろう。」
という言葉がぐさっと刺さりました。

世の中の母親が
行きたいところにも行かず、やりたいこともやれず、
毎日毎日、三度三度、
子どもたちのためにごはんをつくっている間、
私はそれすらも出来ていないんだ。

わかってはいるけれど、
生活のために仕事を辞めるわけにはいかない。

でもその生活もひとりきり。

「一体なんのために働いているのか?」

という気持ちを押し殺して
気がつかないふりをして生きている自分が
恥ずかしくなりました。
「やりたいこと」と「やるべきこと」と「できること」。
今一度向き合って、考えなくちゃ。
(Y)


<見失っていたけれど>

学校の先生の道を志して、
実際先生になって、
ここ最近はなんだかうまくいかなくて、
どんどんと気持ちが動かなくなっていくような毎日でした。

「自分が今向かうべき課題」を
完全に見失っていたなということと、

長い時間をかけてなんとなくごまかし続けてきたから
それを見失ってるんだなぁということがわかりました。

自分は何がしたくて、
なんのために先生をやって、
子どもたちにどう関わるのか、

教師の側がわからなくなっているから、

子どもが向き合わなければならない課題に
向き合わせる事ができずにいたように思います。

ごまかし続けてきた自分の課題は何だっただろう。

初心に返ろうとすると、
かつてのはつらつとしていた時の自分は、
課題だらけでもなんだか良くわからない推進力をもって
進んでいた事を思い出します。

こつこつと課題に向き合い、
自分を満たせるように、やってみたいと思いました。
(N)


<正直になろう>

子育てに密接する仕事を数年している者です。

入職した頃の熱や柔軟性がすっかり損なわれた私は、
『やりたいこと』があるのに、
『やるべきこと』ばかりで疲れた
と思い込んでいました。

数ヵ月前、
課題に向き合わなかったツケともいうべき大失敗を冒し、
亡霊のような日々を過ごしてきました。

『本望』に繋がるような努力を怠り、
課題に向き合わずに

外側の、表面的な取り繕いを続けたからだと気づきました。

できることをするのでなく、
できないようなことをできないと言えず、
無理矢理にし続けて、
土台が脆い『私』が出来上がり、
いつ崩れるかと絶えず怯えていました。
結局崩れましたが。

そこに自信や自尊に繋がるものが無かったから。

できることをやる、できることを増やすという
地味でありながら不可欠な作業。
自分の今の課題に気付きそれを乗り越えていくこと。

正直になろうと思います。

「私の課題はこうなんだ、
 できないんだ、だからできるようになりたいんだ、
 できることはここまでだから、協力してほしい」と。
(レイニー)


<私の立ち位置>

私は、
子ども達に向けてしまう自分の感情の爆発に
腹が立ち、いらだち、
放り投げるようにFacebookに書いてしまった言葉に
後悔し、
なんだかグチャグチャでした。

先週の内容は、私の事だ!
というくらい腑に落ちました。ストンと。

「やりたいこと」と「やるべきこと」と「できること」、と
何度も何度も繰り返し、

「自分は今、そのせめぎあう渦中にいるのだ」

と、立ち位置が見えた気がします。
足元が見えれば恐れる気持ちはなくなり、
渦に飲み込まれたと思っていたけれど、

「実は自分から入っているのではないか」

と思えてきました。
自ら入ったのなら、

「いつか出られるか、渦と一緒に進むのか、
 自分で決められるのではないか」

そう思うと自分の足で歩く速さでしか進めないのだから、
一歩ずつ進もう、

そう思える日になりました。
(ガラポン子)


<ラクをしようにベクトルが向くと>

問題は解決されなくても、
構造がわかるだけでスッキリします。

自分の心の構造が
よ〜くよ〜く解読できました。

私はこれまで、
幾度となく仕事上のスランプに陥りました。
眠れない、食べられない日々をいくつも経てきました。

自分の法則があるんです。

「ラクをしようとするとスランプに陥る」

必死に頑張らざるを得ない時は、とってもシンドイのですが
不思議とスランプにはなりません。
一山越えたあと、一息つこうとすると、
そこからスランプが始まるのです。

仕事にマンネリを感じ始め、飽きてくる。
よって、つまらない。
目の前の問題を、問題と思わずに横に置いてしまう。

以前より、ラクなはずなのに、心の中は全くラクじゃない。

自分を満たす行為と損なう行為

いま自分が向かうべき課題を見失わず
コツコツ向かっていく

心から納得です。
(けろけろ7)


<心から晴れ晴れと>

ずーっとやり残しつつも
気になっていたことに
ようやく手をつけることができ、
ここ数日間どことなく悪かった気分が
晴れるようです。

何度も失敗して描く気力が
なくなっていた未完成の油絵。

描き始めはやっぱり無理なんじゃないかとか
駄目だしされた記憶を思い出し、
ぐるぐるとしていて辛かったのですが、

途中からそんなことよりも
もう下手なんだから変に
力を入れずに描いて集中できるだけで
楽しいからいいや! と思えてきて、

そこから向き合えて良かったー!
と思えるようになりました。

これこそ、真のストレス発散というか、
本当に今までのモヤモヤは
一体何だったのかというぐらいです。

自分の何かから、怖いと勝手に思いこんで
逃げ回っていただけなんですね、きっと。
(夏)


<だって、ちゃんと>

わたしは今、フランスに留学しています。
まだたった1ヶ月、
そしておそらくあと4、5年を過ごすことになります。

「なんで全然喋れないのに来ちゃったんだろう、
 ここに来た意味は?」

わたしには、なにかを成し遂げるだけの力がありません。
しかし、ここで具体的な道具を得るために、
ぽん、と思いついてやって来て、
それに賭けてみることにしました。

ここでは、自分が倒れたらおしまいなんだ、
と実感しました。

きちんと休息をとり、走り続けるための調整も必要です。

諦めて、涙をのむことで語る言葉はアンニュイで
それはそれで光っていますが、

図太く生き抜こうとすることで
おもしろおかしく語れる経験もいいな、
と今は思います。

具体的にこの人生が
どういうものになって行くかは分かりません。
なんにも見えないことをおもしろがろうと思います。

だって、ちゃんと足掻いてるのだから、

きっといつか、これだ!と思うものに出会えると信じて、
いまは次に繋げるために、
ちゃんと勉強しようと思います。
(70foll18)


<2016>

自分にとっての課題とは何か。
考え続けていきたい年にしたいと考えました。
(A・T)



「だって、ちゃんとあがいているのだから。」

読者の言葉が胸に響いた。
それって、やりたいことと、やるべきことと、できることの
せめぎあいから逃げていない証拠。

葛藤の渦に、
自分の意志で足を突っ込んでいる証拠だ。

「ちゃんとせめぎ合いながら進んで行こう」

と私も想う。


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2016-01-20-WED
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